8/11 金曜日
窓から見下ろせばアスファルトの上をわらわらとたくさんの人が動いている。不規則ながら止まらない。道路を走り去る車はもちろん、前を歩く人のことさえ気にも留めていないのだろう。
同じ色の服を着た人が隣に来たら、はじけて消えちゃうと面白いのに。
スマホのゲームを思い浮かべながら彼女はかすかにほほ笑んだ。頬杖をついて窓際の席に座り、切れ長の目をゆっくりと左右に動かしている。
ダークブラウンに染めた長めのボブがさらっと流れて頬にかかった。その髪をつまんだ右の手首には金色の細いブレスレットがのぞいている。
左手に持ったスマホへ視線を落とすこともなく、窓へ向き直った。その瞳はガラスに淡く映る自分の顔を見ていたのかもしれない。今度は前髪を右手でつまんだ。
「お待たせいたしました。カフェオレです」
ウエイトレスが銀色のトレーから白いカップを彼女の前に置いた。ソーサーと当たる小さな音が聞こえた。
砂糖を入れないままカップを口に運ぶ。彼女の白く細いのどが静かに波を打つ。
急に彼女がビクッと肩を動かして左手を見た。
彼女の手の中で消えていたスマホの画面が明るくなった。
カップを置くと画面をタップして耳に当てる。
「なぁに、ミカ。どうしたの?」
けだるそうな声で彼女が応えた。
ふたたび顔を窓に向けて前髪をいじり始めた。
「ごめん、今日はこのあと約束があるの」
あまり気乗りはしないけど。
「うん、そう。彼がまたピアノを弾いてくれるんだって」
きみのために弾くよ、なんて目をきらきらさせて言われたら断れないもの。わたしって人がいいからなぁ。
「でしょ。五時からなんだけど、もう近くに来てお茶してるんだ」
そうやって言われるのは悪くないね。なんてったって、いまSNSで話題の『警備員のピアニスト』がわたしの彼だなんて、絶対ウケるでしょ。
「あの、お客様、店内では通話をお控えください」
「ちょっと待ってて」
彼女はスマホに向けてひとこと言うと、隣に立っているウエイトレスの顔を見上げた。
「誰かに迷惑かけてる? お客なんてまわりにいないでしょ。バカみたいに大声をあげてるわけじゃないし」
右手で店内をぐるっと指さす。
彼女の言うとおり、まばらな客しかおらず、こちらを気にしている様子はない。
ウエイトレスは困惑を顔に浮かべたまま、無言で頭を下げて去っていった。
「ううん、大丈夫。まわりに客もいないのにウエイトレスが文句言ってきた」
あの子、見たことない顔だけれど、わたしがここの常連だって知っているのかしら。
「今日も二曲弾いてくれるって言ってたから。それからお台場に行って食事かな」
初めて彼の演奏を聞いたときは驚いた。警備員がピアノを超絶上手く弾くなんて思わないもの。ちょっとイケメンだったし、声を掛けたら芸術家っぽいナイーブな感じがよかったんだよね。
でもなぁ。つき合うのも退屈。ちょっとお子ちゃまだし。お台場で夜景を見て食事なんて、それで喜ぶのは地方から出てきた大学生くらいじゃないの?
「それはどうかなぁ。わたし、安売りしないよ」
今夜も食事までで、ホテルになんて行くわけない。彼が言い出せるはずないもの。
「うん、ごめん。またね」
通話を切ってスマホをテーブルに置くと、思わず笑ってしまった。
ミカもウケる。彼がわたしだけのヒーローなわけないでしょ。警備員の服を着てピアノを弾く彼に興味があっただけで、ときめいたことなんてないし。
あ、でも彼にとっては『僕だけのヒロイン』かもしれない。美味しいものもご馳走してくれるし、色々なプレゼントもくれるし。
わたしといるときの彼の笑顔を見ちゃうと、もう少し付き合ってあげようって気になっちゃうんだけど……そろそろいいかな。
彼女は白いカップに手を伸ばし、行き交う人たちを見下ろした。
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