9/11 水曜日、そして月曜日

 ここなら一人になれるだろうと、高架下の公園へやってきたのにベンチには先客がいた。陽だまりのもとでお腹を見せて横になっている。

 彼はベンチに近づいてみた。白地に黒のまだら模様の猫は目を閉じていて、彼を気にするそぶりも見せない。

 そぉっと隣に腰を下ろす。先客は微動だにしない。

 少しお腹周りがゆったりとしているので飼い猫のようだ。それで人に慣れているのか、と彼は勝手に納得をした。警備服を入れたリュックを背中からおろして膝の上に乗せた。

 せっかく見つけた仕事だけれど。

 彼は目を閉じる。


 うとうとしていたのか、人の気配を感じて目を開けると色あせたえんじ色のダウンジャケットを着た小柄な老人が立っていた。


「日向ぼっこしながら昼寝とはうらやましい」


 長い白髪を束ね、手を後ろに組んでいる。靴に穴があいているのを見て彼は浅く座り直した。

 人の声が聞こえて、さすがにぶち猫も目を開けた。機敏な動きで体をひねって起き上がると、二人を一瞥してまたうずくまる。


「ずいぶんときれいな長い指をしている」


 老人の言葉に、彼はリュックの上に置いていた手を引っ込めた。そのまま立ち上がると、ぶち猫が「みゃぁ」と短く鳴いた。


「猫にも犬と同じように帰巣本能がある」

「え?」


 あまりにも唐突な話に、彼は足を止めてベンチに座るぶち猫へ目を落とした。


「ただし、猫は自分にとってより快適な環境を選ぶんだ。見知らぬ場所に放り出されても、元の場所へ帰るより新しく居心地のいい場所を見つけようとするんだな」

「みゃぁ」

「だから迷い猫はたいていの場合、拾ってくれた新しい飼い主のもとで幸せに暮らす。適応能力が優れているのか、図太いのかは分からんが」


 老人はぶち猫ではなく彼を見ている。かさついてひび割れた顔には笑みが浮かんでいた。


「なぜ、僕にそんな話を」

「さぁ分らん。なぜだかな」


 ぶち猫はうずくまったまま、また目を閉じた。

 彼は老人に会釈をして立ち去る。

「仕事を辞める前に、居心地の良いところを探してみるか」

 そうつぶやいてアスファルトの歩道へ踏み出した。


 空いたベンチに老人が静かに腰を下ろした。隣りのぶち猫は冬の陽ざしを浴びながら気持ちよさそうにじっとしている。

 行き交う人もほとんどない公園前の細い通りを歩いて来る男がいた。

 公園に入ると、まっすぐに老人とぶち猫がいるベンチへ向かう。


「お前、こんなとこにいたのかよ。やっぱり無事だったんだな」


 チェック柄のダッフルコートを着た男がしゃがみこんでぶち猫に声をかけた。ひょいと持ち上げると、おどろく猫を気にすることなくベンチへ座り、膝の上に置いた。

 立ち上がりかけたぶち猫は、背中を撫でられるとうずくまり目を閉じた。


「この猫、爺さんが飼ってるのか?」

「いや。お前さんの知り合いか」

「うーん。知り合いってほどでもない。このまえこいつに助けてもらったんだ」

「ほぉ。この辺りでか?」

「いいや。埼玉」

「いつのことだ」

「おととい」


 老人は声をあげて笑った。


「この猫は毎日ここへやってくる。お前さんが会ったのは猫違いだよ」

「そうかなぁ。たしかにこいつだと思うんだけどな」


 男はぶち猫の背中を撫でながら、気持ちよさそうにしている顔を覗き込んだ。


「たしかに初めて会ったようには見えないがな」

「どういうことだよ」

「白が多い猫は気が強く、神経質で繊細といわれている。初めて会った人間にそんなに気を許すとは思えない」

「へぇ、爺さん、物知りだな」

「古代エジプトでは猫は神の使いとして崇められていたほど、高貴な精神を持っていると言われている」

「それは俺も聞いたことがある。そうか、あのとき神様が見ていて助けてくれたのかぁ」


 男はもう一度ぶち猫の顔を覗き込んだ。


「お前さんは黒猫みたいだな。明るい性格でマイペース、人懐っこい」

「おお。俺は黒猫だったのか」

「お前さん、私が嫌じゃないのか?」


 老人はベンチ裏の植え込みの向こうへ目をやった。そこには段ボールやブルーシートで作られた、小屋ともいえないものがいくつか並んでいる。

 男はまだ猫の顔を見ていた。


「嫌うほど爺さんのことを知らないから。くさいけどな」

「その通りだ」


 老人はまた乾いた笑い声をあげた。


「面白い奴だな。ここへ何をしに来た。誰もが避けて通るのに、自分からこんなところへやって来るのは普通の奴じゃない」

「仕事だよ。前の仕事が終わったばかりなのに新しい依頼があってさ。その下調べ」

「何をやっているんだ?」

「家庭教師」

「冗談のつもりか。家庭教師はエドックスのグランドオーシャンなど身につけたりはしないだろう」

「爺さん、この時計を見ただけで分かったのか。本当に物知りなんだな。やっぱり人は見かけによらないんだ」

「それは分からないぞ。内面がにじみ出ている者も多い」

「悪いヤツは匂いで分かる」

「私はどうだ」

「言ったろ。くさいだけだ」


 男は老人に顔を向けてにぃっと笑った。

 ぶち猫が起き上がり、男の膝の上で伸びをしてからひょいっと飛び降りた。


「なんだよ、また行っちまうのかよ」

「みゃぁ」

「それじゃ、俺も行くかな。爺さん、またな」

「もう会うことはないだろうが」

「いや、会うよ。俺には分かる」

「まるで未来を見てきたかのように言う。本当に面白い奴だ」


 老人はベンチに座ったまま目を閉じた。

 男は振り返ることなく公園を後にする。



 東京との県境を北へ越えた五階建ての市営住宅に大藪おおやぶはいた。冬の陽はすでに傾き始めている。あたりに人影はない。もうすぐ男が家を出てくる時刻だ。

 チェック柄のダッフルコートの裾をひるがえしながら階段を上っていくと足元を小さな影がすり抜けていった。目的の四階で彼を待つように座っていたのは白地に黒のまだら模様をした猫だった。

 大藪が腰をかがめて差し出した手をすり抜けて廊下を歩いていく。彼もその後に続いた。コンクリートの手摺壁が床に影を落としている。

 四号室のドアが開き、白髪交じりの男が出てきた。

 ぶち猫に気づくとしゃがみ込んで手を出した。


「かわいい猫だね。でもここはペットの飼育は禁止され――」


 男の言葉は途絶えた。

 大藪は男の頭から両手を離す。厳ついデザインのダイバーウオッチが袖元からのぞいていた。


「お前のおかげで簡単に終わったよ。ありがとう」


 大藪が男を抱え上げて手摺の外へと落とす。

 鈍い音が聞こえてきた。

 ぶち猫は彼に飛びついたかと思うと、そのまま太腿を蹴って手摺壁の上にすっと立った。大藪へ顔を向けて「みゃぁ」と一声鳴いてから宙へと飛んだ。


「……マジかよ」


 大藪は下を覗き込むリスクを冒さず、まっすぐに廊下を歩いていく。上ってきたときとは反対側の階段から静かに下りていった。

 冬は日が短い。あっという間にあたりは薄暗くなっていた。

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