7/11 月曜日
手に持った小さな画面に表示される英字をもう一度確認する。まだ目的の駅じゃない。いまの僕にはこのスマホとドアの上にある表示板だけが頼りだ。電車に揺られながら、手すりを握る手に汗がにじむ。
山岳地域にあるわが国ではそもそも鉄道がない。この国に来てどうしてもやりたかったのが電車に乗ることだった。
おとといはヤンドンが一緒だったから何も心配はなかったけれど、今日は違う。
きっといまごろは怒っているんだろうなぁ。あの黒い山高帽をかぶったまま声も荒げずみんなへ指示を出すヤンドンの顔が浮かぶ。一段と声を低くして静かに怒るときが一番怖いんだ。帰ってからのことを思うと憂鬱にもなるけれど、それも覚悟して抜け出してきたのだから仕方がない。
それにしてもこの国の技術力は聞いていた通りにすごい。駅へ入るにもスマホをかざすだけでゲートが開くなんて。そのおかげで、僕はこうしてひとりで電車に乗っている。
駅に着き、ドアが開くたびに表示板とスマホを見比べた。
乗る電車を間違えたのかも。そう思い始めたころにスマホの画面と同じ英字が表示された。次が目的の駅だ。
速度が徐々に落ちていき電車が停まる。たくさんの人と一緒にホームへ降りて、ほっと大きく息を吐いた。SNSで見たのはこの駅に間違いない……はずだけれど。ここからどうやってたどり着けばいいのだろう。
人の流れに取り残されて辺りを見回していると、紺色の制服を着て同じ色の帽子をかぶった男の人がいた。駅の係員みたいだ。あの人に聞けばわかるかもしれない。
一歩踏み出したところで足を止めた。
係員に聞いてしまったら、日本語がしゃべれない僕の正体がばれてしまうかもしれない。そうなったら自由は奪われて、きっとヤンドンが迎えに来るまでどこかに連れていかれてしまう。
向きを変えて階段を上った。
広い通路にたくさんの人が動いている。少し離れたところに立っていた係員と目が合った気がした。あわてて背を向けて通路の角を曲がった。
『おっとぉ』
ぶつかりそうになった人が両手で僕の肩を押さえた。がっしりとした大きい手だ。見上げると広い肩幅の割に小顔の男の人が見下ろしていた。
「ごめんなさい」
僕はお辞儀をした。彼は僕の後ろを見渡している。
『お前、一人なのか』
何と言っているのか分からない。英語なら通じるかな。
彼は長い脚を折り曲げてしゃがみこんだ。僕の目の前に顔がある。
『迷子か。この駅ではぐれたんだろうなぁ。心配するな、俺が事務室までつれていってやるよ』
彼はにぃっと歯を見せて笑うと、自分を指さして『
けげんそうな僕へ、もう一度ゆっくりと『おおやぶ』と一文字ずつ自分の顔を指した。これが彼の名前なのかも。
「お、お、やぶ?」
『そう、大藪。お前の名前は?』
今度は僕を指さした。
「ソナム」
『ソナム、か』
彼が繰り返す。なんだかうれしくなって僕は微笑んだ。
『よし、ソナム。事務室に行って親を探してもらおう』
彼は立ち上がって僕の肩に手を添えて歩き出した。驚いて僕は手を避けて立ち止まる。
『どうした? 大丈夫だよ、行こう』
彼は僕に手を差し出した。
迷った僕はスマホを取り出して、保存していた記事を開いた。
「
『なんだよ、ピアノって』
英語なら少しは分かるみたい。彼は僕が見せたスマホを覗き込んだ。
『へぇ、ここでストリートピアノをやってるんだ。エキナカでもストリート、って言うのかな』
記事を読み終えると、また彼はしゃがみこんだ。
『ここへ連れて行けば、親と会えるんだな』
「
『OK』
彼は微笑んで親指を立てた。駅の案内表示を見て歩き出す。
大股で歩いていく彼の後を急いでついていった。遅れがちになる僕に気づいて、彼が手を差し伸べた。
『また迷子になると困るだろ、ソナム』
ちょっと迷ったけれど、彼の手を握った。悪い人ではなさそうだし、ピアノのある場所まで連れていってくれるみたい。
さっきよりも少しゆっくりと彼が歩き出した。人の流れに二人で乗っていく。通路を奥まで歩いて行って右へ曲がると、急に広いところへ出た。
『ここだと思う』
彼がなにか言った。その視線の先にはたくさんの人が背中を向けて集まっている。僕たちもその端に加わった。
みんなが見ていたのは僕が探していた白いピアノだった。いまは誰も弾いていない。
『ソナムのお父さんやお母さんはどこだ? 向こうも探し回ってるのかな』
彼は背が高いのにさらに背伸びをして、何かを探している。
僕はピアノの脇に立っている警備員を見ていた。スマホで確認したら、あと五分ほどで五時になる。
『俺、駅員さんに話をしてくるよ』
どこかへ行こうとした彼の手を、こんどは僕が握りしめた。もうすぐ始まる演奏を彼にも一緒に聴いてほしかった。
彼を見上げて首を横に振る。
『分かったよ。心配すんな、一緒にいるよ。そのうち、向こうが見つけてくれるだろう』
彼はまた親指を立てた。
そこへ警備員がもう一人やってきた。周りがざわめく。二人の警備員がなにか言葉を交わし敬礼をした。先にいた警備員がピアノへと近づいていく。
制服のままピアノの前に座った。両手を鍵盤の上に置き、ひと呼吸おいてから旋律が流れ始めた。
『おい、警備員が弾くのかよ』
彼のつぶやく声が頭の上から聞こえてきた。
僕の目と耳はピアノに向けられ、体で音を受け止めていた。SNSの動画で見ていたよりも、はるかに素晴らしい演奏が目の前で行われている。
自分のやりたいことを続けるのに職業や立場は関係ないんだと、あの警備員が言ってくれている気がした。
二曲の演奏が終わると警備員は立ち上がってお辞儀をした。
僕だけでなく、周りにいた人たちがみな拍手をした。もちろん、僕の隣でオオヤブも拍手をしている。
『すごかったな。俺、曲は知らないけれどすげー感動したよ。うん、感動した』
彼の口ぶりから興奮しているのが伝わってくる。僕たちは顔を見合わせて、声もなく笑った。
『ところでソナムの親はどこにいるんだ? どこかで演奏を聴いていたんだろうけれど』
ここで待っていた人たちもいなくなったのに、オオヤブは背伸びをしてきょろきょろしている。その向こうから黒い帽子が近づいてきたのが見えた。
「あ、ヤンドン」
僕の視線に気づいたオオヤブが振り返った。ヤンドンは素早く近づいて、オオヤブの右手首を握った。
その途端、オオヤブの顔が変わったのが僕にも分かった。
左手でヤンドンの右腕をつかむ。
『なんだ、お前』
『貴様こそ何者だ』
二人は日本語で話をしている。どちらも静かな低い声だ。
ヤンドンだけじゃなく、きっとオオヤブも怒っている。周りを通り過ぎる人たちは気にも留めない。
『ソナム様に何をした』
『ソナム様だぁ? 俺はソナムと一緒にピアノを聞いていただけだ。お前こそなんだ、ソナムとはぐれておいて八つ当たりか』
お互いに相手の腕を離さない。
僕のことでヤンドンは怒っているだろうし、オオヤブはヤンドンに怒っている。僕が止めなきゃ。
「ヤンドン、僕が悪かったよ。どうしてもここでピアノを聞きたかったんだ。抜け出してごめんなさい。オオヤブは駅のなかで迷っていた僕をここへ連れてきてくれただけなんだ」
「この男とは、ここで初めてお会いしたんですか」
ヤンドンは視線をオオヤブから離さずに僕へ訊ねた。
「そうだよ。彼にお願いしてピアノのある場所まで連れてきてもらったんだ」
「そうですか」
短く答えたヤンドンが手の力を抜くと、それに合わせてオオヤブも手を離した。
『いったい何なんだ、お前たちは』
オオヤブはムッとした顔のままヤンドンに何か言った。
『手荒な真似をしてすまなかった。この方はブータン王国の王子だ』
『ソナムが⁉』
何かささやいたヤンドンに、オオヤブは大きな声で僕の名前を口にした。
すぐにヤンドンが彼の袖を強く引く。
『極秘で来日していたなか、宿舎のホテルを抜け出してしまっていた。スマホのGPSを追跡してここに来たのだ』
『ふーん、王子様ねぇ。なかなかやるじゃないか』
オオヤブは笑顔になると、僕に向かってまた親指を立てた。
『王子の手助けをしてくれたそうで礼を言う』
『俺もソナムのおかげですごいピアノ演奏を聴かせてもらえたからな。それじゃソナム、日本を楽しんで帰ってくれ』
背を向けて歩き出そうとしたオオヤブの手をつかんだ。
彼に待ってもらうよう、ヤンドンに頼んだ。
「何か書くものを貸しておくれ」
ヤンドンから借りた手帳に寄宿舎の電話番号を書いた。それを切り取ってオオヤブへ渡す。
「僕からの御礼です。ブータンへ来るときがあれば連絡してください」
オオヤブはけげんそうな顔をしながらメモをポケットへ入れた。
僕は彼に向かって微笑んだまま親指を立てた。
にぃっと笑った彼は再び振り返ることなく、人波の中にまぎれていった。
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