6/11 火曜日

 ガード下に軒を並べる店々は、昼を過ぎたころから競うようにのれんを掲げていた。グレーのスーツを着た北条が前かごのついた自転車にまたがって通りかかった。

 芳ばしい煙に誘われて、足を止める。そのまま店の前に停めると、くもりガラスの入った格子戸をあけた。

 狭い間口から奥へと伸びるカウンターには先客が一人、その男性から二つ離れて座る。おしぼりと引き換えに瓶ビールを注文し、壁に貼られたメニューを眺めた。

 頭上からは、数分おきに通る電車の重い轟音が体へ響いてくる。店主はそんなことを気に留める様子もなく、白いタオルを額に巻いて焼き場の前で手を動かしていた。


「もろきゅうと串盛りを塩で」

「はいよ」


 北条の前にコップと一緒にお通しの小鉢が置かれた。ひと口大の豆腐にネギと生姜、かつおぶしがのっている。店主はビール瓶の栓を抜いて差し出すと、まな板に向かい胡瓜きゅうりを切り始めた。

 コップへ注いだビールを一気にあおり、北条はカウンターの中へ目を向ける。こうした小さな店で店主の手元を見るのは何よりも楽しい。意外と繊細な包丁さばきだったり、思ってもいなかった手の動きをの当たりにすると、自らのマジックに重ね合わせていた。


 しばらくすると店主の腕がぬぅっとカウンターに伸びてきて、細長い角皿の上に盛りつけられたもろきゅうを置いていく。

 タイ料理のカービングとまではいかないものの、細かく包丁が入れられて緑の濃淡が縞模様となっている。その隣には金山寺味噌が添えられていた。

 これは当たりだぞ。

 そう思いながら北条はもろきゅうをつまみにコップを傾ける。その間にも店主は手を休めずに焼き場の前で塩を振っていた。


「はい」


 今度はレバーを乗せた皿が置かれた。熱いうちに食べてみる。


「うん、おいしい」

「どうも」


 レアな焼き加減でも生臭さがなく、トロッとした食感に北条の顔がほころんだ。

 空いた皿へは焼きあがった串から順に乗せられていく。カリッと焼かれて芳ばしい皮、脂がのったぼんじり、弾力のあるもも、ねぎまのネギにしっかりと焦げ目がついているのもいい。

 どれも旨い。やっぱり当たりの店だった。

 七味を掛けてねぎまをほおばったところに店主が声をかけてきた。


「お客さんも、このあと大きな仕事があるんですか」


 たしかに大きな仕事だけれど僕がやるのはサポートで、主役は大藪くんだから。という小さな動揺は微塵みじんも出さずに北条は「ええ」と短く答えた。

 大抵のことは笑みを浮かべておけばうまくいく。

 ただし、歯を見せてはいけない。感情が表に出過ぎるから、歯を見せずに口角をそっと上げておく程度がいい。

 北条は目を細めながら「どうして分かったんですか」と店主に尋ねた。


「緊張して上がらないように、というゲン担ぎで大仕事の前に焼鳥を食べにくる方はほかにもいるんですよ」


 なるほど、といいながら北条は記憶の引き出しを片っ端から開けていく。連想と創造で話をうまく合わせるのは最も得意とするところだ。

 あがらない……焼鳥……。そうか、麻雀か。

 麻雀では勝ち点を取れない、つまりあがれないものを焼鳥と呼ぶ。ゲーム終了までの間に一度もあがれなかったら罰則があるというローカルルールもある。

 いかにも「知っていました」という顔で店主へ返す。


「やはりそういう方は僕みたいな年配者なんでしょうね」

「最近の若い人は麻雀なんてやらないみたいですから。パソコンゲームでしかやったことないっていうのも多いみたいですよ」

「あの牌をかき混ぜる音もいいのに」


 当りさわりのない会話と軽い腹ごしらえを終えて店を出ると、陽も傾き始めていた。

 停めてある自転車の水色のフレームに手を伸ばしてロックを外すと、スーツ姿のままサドルにまたがった。

 長く伸びる自分の影に向かってペダルを踏む。

 五分も掛からずに首都高が見えてきた。

 かつては橋だったところから細長い公園の中へ入っていく。右手に見えたブルーシートの小屋を抜け、壁打ちをしている男性を横目にフットサルコートを通り過ぎ、広場の向こうにある駐輪場で足を緩める。

 空いている場所を探して自転車を停めた。


「その色、かわいいね」


 女の子の声に振り向くと、まっすぐな黒髪を肩まで伸ばした少女がピンクの自転車にまたがっていた。

 北条は腰をかがめて笑みを浮かべた。


「その色も可愛いね」

「うん、アヤナはすき。その自転車、おじさんの?」

「そうだよ」

「にあってないよ」

「えぇっ、そうかい?」


 思いがけない指摘に北条の顔から白い歯がこぼれた。どう切り返そうかと素早く頭を働かせる。


「おじさんはマジシャンなんだよ。だから人を驚かせるのが好きなんだ。こんな可愛い色の自転車に乗ってたらみんな驚くでしょ」

「マジシャン?」


 怪訝そうに首を傾げた少女の目の前に、北条は右手を差し出して手のひらを上に向けて開いた。

 彼女の視線がそちらへ移る。手のひらには何もない。

 北条が手を閉じてひっくり返し、手の甲を上に向けた。左手を高く掲げて指を鳴らす。

 パチンという音に、少女は顔を上げた。

 北条の左手が自らの右手を指さす。少女が視線を戻すと、彼はゆっくりと手のひらを開いていった。


「うわぁ!」


 歓声をあげた少女はピンク色のカーネーションに顔を近づける。


「どうぞ」

「ありがとう!」


 ピンクの花を手に取った少女が目を輝かせていると、自転車を押した女性がやってきた。


「アヤナ、何してるの?」

「これおじさんにもらったの。すごいんだよ、おじさんはマ……マ……」

「マジシャンをしている北条です」


 少女に助け舟を出し、母親と思われる女性に当たり障りのない説明をした。

 母親はお礼を言うと少女を連れて去っていった。その後ろ姿を見ながら、北条がつぶやく。


「緊張して上がることなく、うまくやり過ごせたようだな」


 周囲を見渡し、誰もいないことを確かめると自転車の脇にかがみ込んだ。

 ポケットから自転車の鍵を取り出して、前かごの下にガムテープで貼りつける。

 もう一度まわりに目をやると、親子とは逆の方向へ歩き出した。

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