5/11 木曜日
「なんだか、よく分からないよな」と折り目がついた紙きれを広げた
白い紙には黒い文字で01097517641405と書かれている。急いで書いたのか、字の大きさや間隔が乱れていた。
「ほんと分からないよ。昨日は雪だったのにさ」
ベンチに座った彼が手にしている小さな紙を暖かい南風が揺らした。チェック柄のダッフルコートが隣りに置いてある。胸にワンポイントのロゴが入った紺色の長Tシャツは、彼のたくましい二の腕を隠せない。左手首にはめた
首都高の高架下にある、ただただ細長い公園にも陽の差し込む一画があった。そこで大藪はひとり、紙とにらめっこをしている。
彼の背中にある植え込みの向こうには段ボールやブルーシートで作られた粗末な小屋がいくつか並んでいた。雨がしのげるこの場所は、彼らにとっては格好の居住地らしい。そんなことには構わずに、大藪は誰にともなく言葉を発している。
「おいおくな。ごいなむし、いしおご。数字を仮名読みに置き換えてみても意味ないか。そもそもアイツは日本語も片言だったしな」
「暗号ならゼロの後にある文字だけ意味を持つってのはどうだ? ほかはダミーで、195がなにかの暗証番号とか」
そんな彼を遠くから目に留めて、近づいていく小柄な老人がいた。
染みがついて色あせたえんじ色のダウンジャケットを着て、長い白髪を後ろで束ねている。歩き方に癖があるのか、左右の靴とも、足の親指の付け根あたりに穴があいていた。
「なんだ、爺さん出掛けてたのか」
「お前さん、また来たのか。昼間っから暇なもんだな」
「これも仕事だよ。下見ってやつ」
「どうだか」
大藪はコートを手に取り、背もたれへ掛けると老人を隣に促した。
腰を下ろした老人の赤銅色の肌はかさついて無数のひび割れが浮き出ている。
「どこに行ってたんだい」
「昨日は雪で外には出られなかったからな。食料を調達に」
「で、成果は」
老人は含み笑いをして両手のひらを上に向けて広げてみせた。大藪へ顔を向けたときに、彼が手に持つ紙きれをちらと見る。
大藪は横に置いていたコンビニの袋を老人へ差し出した。
「これ、食ってくれよ」
無言で受け取ると、老人は袋の口を開いてのぞきこむ。
「パンか」
「パンだよ」
二人は顔を見合わせて笑った。その間を南風が吹き抜ける。
「で、今日は何の用だ」
「昨日は雪が降ったのに、どうして急に暖かくなったんだ? これって春一番だろ」
「確かに珍しい。逆ならばありうる話だが」
「春一番の後に雪が降るのか?」
「あぁ、そうだ」
大藪は目を輝かせて老人へと向き直った。
「聞かせてくれ」
「つまらんことに興味を持つんだな」
「いいじゃないか。神様の気まぐれじゃないのなら、その理由が知りたいのさ」
「日本海側に低気圧があって、そこへ向かって南から暖かい風が吹くのが春一番だ。発達中の低気圧に吹き込むので風も強くなる。その翌日には低気圧が北海道沖へ移動して寒冷前線が通過するので、今度は大陸側から寒気が流れ込む。それで雪になることも少なくない」
「爺さん、気象予報士かよ。天気予報でしか聞いたことがない言葉ばっかりだぞ」
「こんなもの、少し調べればわかることだ」
へぇ、と感心しつつも大藪は手に持った紙を離さない。
「本題はそれじゃないのか」
老人があごで指し示した。
にいっと歯を見せた大藪が紙きれを老人へ差し出す。
「別れ際にそれを渡されたんだけど、暗号なのか意味が分からなくて」
「暗号なんかではない」
老人は紙きれを受け取らずに答えた。
「えぇっ⁉ もう分かってんのかよ」
「さっきちらっと見えたからな。初めの三桁010は国際電話識別番号、975は国番号だが、どこだったか……」
「国際電話か! それならブータンだよ」
言い終える間もなく、大藪はスマホを取り出して検索した。
「当たりだ。ブータンの国番号は975だってさ」
「女か」
老人がにやりと笑うと黄ばんだ歯がのぞく。
大藪は顔の前で右手を振った。
「違う、違う。ひょんなことでさ、人助けしたんだよ。そのときのソナムって坊主がブータンの王子だって言ってて。俺、半分疑ってたんだけどマジだったんだなぁ」
「ほぉ。お前さんが人助けとはな。しかも相手が外国の王子とは、どんな巡り会わせなんだ」
「ほら、爺さんも言ってただろ。神様がたまたまソナムのことを見ていたんだよ。で、たまたま俺が近くにいただけさ」
「かもしれんな」
「しっかし、ほんと物知りだよな。それなのに、こんなとこで暮らしてるなんて、人は見かけによらないよな」
「年の功だよ」
老人はコンビニの袋へ手を入れて菓子パンを一つ取り出した。
ビニール袋を破いて、パンをちぎって口に入れる。
「爺さん、いったい幾つなんだよ」
「年寄りに年齢を聞くものじゃない」
「いいだろ、減るもんじゃないし」
「喜ぶときは、とうに過ぎた」
「そうかもしれないな」
「傘も今はいらん」
「昨日ならあった方がよかったか」
老人はもごもごと口を動かし、パンを飲み込んだ。
「やはり米に限るな」
「悪かったな、パンで」
老人は大藪をまじまじと見ると、にぃっと黄色い歯を見せた。
怪訝そうな顔をした大藪の表情が、しだいに満面の笑みへと変わっていく。
「マジか⁉ 爺さん、そんな歳には見えないよ。そうかぁ。それじゃ、今度は米のおにぎりでも買ってきてお祝いするか!」
老人は静かにほほ笑むと、袋の中から二つ目のパンを取り出した。
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