エピローグ 執着

「卑怯だな、俺は」

 疲れ果てたのか、膝の上に頭を預けて眠りに落ちた鮫神の刺青をなぞりながら、逆戟は独りごちた。

「お前の弱みに付け込んで、お前を手に入れようと……無理に決まっているのにな」

 照れ隠しに、鈍感なふりをして実は躱されているのではないかと思ったこともあった。しかし、そうではないのだ。きっと彼は逆戟のことを、慕ってはいるが好いてはいない。彼が望んでいるのはあくまで兄貴分としての逆戟であって、それ以上の重み、しがらみを欲してはいない。

 元からそうだったのに、あの死んだ人魚――スイに、鮫神を完全に奪われた。

 己の片思いに気付かなければよかったと思った。

 悲痛な苦しみ、痛みに悶える鮫神の顔。あの慟哭が、逆戟のためになされたものであったらどんなによかっただろう。彼を組み敷いて殴るのは気持ちがいい。お前を追い詰めたときの、傷ついて弱った顔が限りなく愛しいだなんて、俺も随分拗らせた――と、逆戟は寒々しく微笑んだ。

 しかしそれは鮫神のせいなのだ。彼が一向に分かってくれない故、満たしようのなかった欲望が歪んでしまった。

「どうせ逃げていってしまうんだろう、俺の腕の中から……なあ、鮫神?」

 彼だって、鮫神と何ら変わりはしない。満たされぬ心、積もる鬱屈、渦巻く欲望と怒り、妬み、憎しみを封じ込めて生きている。不器用な後輩よりも、繕って隠すのが余程上手かっただけだ。

 だからこそ、知って欲しかった。秘めた激情の一端だけでも、受け入れて欲しかった。

「俺がお前を振り回してるんじゃない、俺がお前に、振り回されているのさ。もうずっとな」

 そうだ。いつだって奔放に泳ぎ回る彼は、幾度手を伸ばせどするりと腕の間をすり抜ける。やっと抱き合うことができたのは、ただ彼が深く傷つき、心の壁が壊れていたからに過ぎない。スイが死んだおかげなのだ。それを悪辣に利用しただけなのだ。

「俺だって哀しいんだよ、鮫神」

 彼は何故、こちらへ歩んできてくれないのだろう。人間に生み出された化け物同士、鮫神にとって仲間など、逆戟をおいて他にはいないというのに。

 嘆息して傷だらけのひれに軽く口づけを落とし、逆戟は身を横たえた。

 いっそこのまま、そこらの木にでも縛りつけておこうか。そんな考えを振り払うように、背を向けて寝た。


 ◇


 何日か経って、鮫神は案の定出て行った。

 研究所の洗脳ですら全て撥ね返す奴なのだ、所詮俺に支配できるはずはない、と、逆戟は乾いた笑声を虚ろに響かせた。

 ここにいれば何の心配もなく暮らしてゆくことができたのに、鮫神はそれを捨てた。逆戟を拒絶した。

 それを許せるほど、浅い恋ではなかった。


 愛しても愛されぬというのなら、せめて力ずくで捩じ伏せてものにする。一方的だろうと構わない。手に入りさえすればもう何でもいい。

 追われる恋が叶わぬというのなら、どこまでも追ってやる。この海の果て、地の果てまで──

「逃げても無駄だ、鮫神」

 海のギャングが目を覚ました。

 黒い背びれは海面を切り裂きながら、獲物を追って爆進した。


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海淵 戦ノ白夜 @Ikusano-Byakuya

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