ダークブルーの愛情

 悠々と尾びれをくねらせて逆戟は潜ってゆく。鮫神も後に続き、翻る光のカーテンの裾をくぐり抜ける。

 深く、深く、青の中へ沈んでゆく。泡沫は輪舞し、銀白の海面へと立ち上る。

 静謐な世界。水は心地よい圧力と冷たさとで、鮫神を柔らかに包み込んだ。ああ、やはり海は俺たちの味方だった、と、このとき彼は感謝した。

 どこまでゆくつもりなのだろう。シャチはサメと違って哺乳類だ──息継ぎのために浮かび上がらなければならないはずなのに、前をゆく逆戟は一向にそんな素振りを見せず泳ぎ続けている。時が来れば上がってゆくのだろうが。

 怪我を気遣ってか否か、逆戟はゆったりと泳いでいる。おかげで到底回復しきっていない鮫神でも難なくついてゆくことができた。肌に当たる水が、滲み出る疲労も負の感情も、全てを拭い去ってゆくように思える。

 すっと追いついて横に並んだ。色は違えど、そうしてみると本当に兄弟のようだった。

「……なァ」

「うん?」

 逆戟が横目で鮫神を見やる。しかし彼は何やら言いにくそうに、視線を前方に彷徨わせていた。

「何だ、その……アンタのおかげで助かった。恩に着る」

「ほお。やけに殊勝だな、珍しい」

「うるせぇな、悪いかよ」

 照れ隠しのように尾ひれをびゅんと振り、彼は鼻面を上に向けた。逆戟も続く──光の射す方へ浮き上がる。

「嬉しいぜ、俺は。またお前の悪態が聞けて」

 逆戟は歯を見せてにっと笑った。鮫神は何なんだよと呟きつつ、逆戟と共に水を裂いて上昇した。


 海面に顔を出せば、太陽が爽やかな光を振りまいていた。

「いい天気だ……眩しすぎるな」

 ふうと息をついて逆戟は辺りを見回す。彼の住処である島の影が、遠方の水平線から覗いていた。

「意外と長く潜ってられるんだな、アンタ」

「そりゃ鍛えたからな」

 鮫神が唯一、逆戟に勝てることといえば潜水だった。そもそも身体のつくりが違うのだから張り合っても仕方がないが。サメと人間のハーフである彼は、肺でもエラでも呼吸できるのだ。

「しかしサメでも溺れるとはなあ」

「……まだ引きずるのかよ。勘弁してくれや」

 少しでもからかったり皮肉ったりすれば、きちんと仕返ししてくるのがまた逆戟らしかった。すぐにやり込められてしまう鮫神であるが、こんなやりとりも実に5年ぶり。再び不毛な言い合いができることを喜ばしく思っていなかったわけではないだろう。良薬は苦い。

「さて、と」

 呼吸を整えた逆戟は空を振り仰ぎ、鮫神の方を向いて意味ありげに笑った。

「お前の傷心を慰めてやるとするか」

「ハァ? 別に俺は……おい」

 唐突に潜って旋回したかと思うと、逆戟の巨体は海面を突き破って飛び出し、高く舞った。きらきらと輝く雫を纏い、太陽を背に空を黒々と切り取って──。

 思わず見蕩れた。シャチと言うにはあまりにも歪すぎるシルエットだった、しかし溢れ出るパワーと重量感は十分だった。

(自由だな、アンタは)

 鮫神はそんな彼を眩しそうに見上げた。

 黒い影はずっと頭上に留まるかに見えたが、それも束の間。

 空中で身を翻した逆戟は鮫神に手を伸ばし──豪快な白い飛沫と共に鮫神に突っ込み、彼を海へと引きずり込んだ。


「馬鹿野郎ッ、急に何しやがる」

 逆戟の手が首にかけられる。ゴボッと吐いた泡の塊が瞬く間に遠ざかってゆく。

「おい、放しやがれ。放せや」

 頭を下に沈んでゆきながら喉元の腕を引き剥がそうとするも、逆戟はびくともしない。喚き散らす鮫神に構いもしない。首を絞められている訳ではないのだが、息が苦しくなった。

「何のつもりだ、テメェ」

 歯を剥き出して睨め上げるサメ──至って涼しい顔、どこ吹く風で相手を沈めるシャチ。

「ごちゃごちゃ言うな。怪我人は大人しくしてろ」

 口調こそ穏やかに宥めつつも、抵抗を抑え込む膂力は容赦ない。

「あぁ? それが怪我人にすることかよ」

「優しい方がいいか?」

「ハァ? 何言ってんだ……」

 驚愕が苛立ちへ、苛立ちが困惑へと変わる。逆戟はそんな鮫神を余所に、ならそうしよう、と一言、あっけなく手を解いた。

 ふわりと海中に放り出される。もう、大分深い。宵闇のように閑やかな暗い青の帳の中だ。

 この隙に泳ぎ去ってやろうかと思ったが、何故か身体からは力が抜けていた。

 水に身を任せ、ゆらり、ゆらりと沈んでゆく。貫くように、真っ直ぐ己に向けられたシャチの鼻先を見ながら。

「……で、さっきから何がしてぇんだ、アンタはよ」

 逆戟はと言えば、彼もまたゆらゆらと沈んでくる。

「治療だ。心の方のな」

「治療だァ? 馬鹿言うな。どこがだ」

「阿呆、まだ何もしとらん。お前が暴れるから」

「それはアンタがいきなり飛びついてくるからだろうがよ」

 それはそうだ、ジャンプしたシャチがあの勢いで突っ込んでくれば焦るに違いない。

「殺しやしないんだから大人しくしてりゃいいんだ。まあいい、ちょっと静かにしてろ」

「だから何を……」

 一向に意図を明らかにしない逆戟を問い詰めようとした鮫神だったが、しかし、叶わなかった。言葉がまだ喉元にあるうちに口を無理やり閉じられたのだ。まるで接吻でもするように、顎を掴まれて。

「無駄に喋らせるな。俺の息が持たん」

 低く呟いて、逆戟は軽く鮫神の鼻面を殴った。途端に何とも言えないぞわぞわとした感じに襲われる。サメの鼻先は感覚器官が集中している場所なのだ、軽い衝撃でもそれなりに混乱する。加えて、急に近付いた逆戟の顔の黒が、深海の青いフィルターのせいか知らないが、妙に普段よりも艶やかに、匂い立って見えた。ますます混乱に拍車がかかる。

「忘れちまえ、全部。折角俺のところへ来たんだから……俺のことだけ考えてりゃいい」

「いや、おかしいだろ。アンタと会ったのはたまたまだ、それにアンタはスイの代わりにはならねぇだろうが」

「お前って奴は……ここにいる奴の前で、いない奴のことを語ってどうする。俺を見ろ、俺を」

 鼻面を撫でられる。ぞくぞくと震えが走る。抗いようのない生理現象だ――だがきっと、それだけではない。そのまま滑ってきて頭を包み込む手を、払い除けようとは思わない。

「……我儘だよなァ、アンタは。いつだってとんでもねぇ自己中だ」

「ああ、そうさ。俺は我儘だ、欲が深い。だから何が何でも手に入れる」

 普段は肌と同化して目立たぬ黒い目が、ぎら、と存在感を増した。そうして鮫神の瞳の奥をまさぐった。

「お前は怒るかもしれんがな。鮫神、俺はお前が可愛くて仕方がないのさ。無理に尖って、それでいて中身は脆い。思わず手を伸ばしたくなる」

 首に手を回される。引き寄せられて、逆戟の肩に顎を乗せる格好になる。

「……だったら」

 頬が触れ合わんばかりに近い。逆戟の顔が真横にあり、目が合わないのをいいことに鮫神は言った。

「何で俺を置いてった? なんにも言わねぇで、急に飛び出してったじゃねぇか」

 そう絞り出す声は、怒りと悲しみを帯びて震えていた。逆戟が研究所を飛び出した5年前から、向ける相手を失ったままに、ずっと繰り返してきた言葉だった。

「失って初めて、それがどれだけ大切であったか分かる、って言うだろう。幾ら鈍感なお前でも流石に気付くだろうと思ってな。お前は俺を追ってくると確信していたから飛び出したが、正直、後悔したぞ。いつまで経ってもお前が来てくれないから」

「……んだよ。早く言えよ、そういうこたぁ……」

 舌打ちしながら、鮫神もしがみつくようにして逆戟を抱き竦めた。

 逆戟は満足げに口端を緩めた。

「5年も、いや10年近く待たされたが……俺はずっと」

 誰もいない、閉ざされた世界。暗く、冷たく、そして孤独な、しかし美しい水底。

 ああ、俺を今飲み込もうとしているこのシャチ野郎の心はきっと、こんな風なんだろう。道理で俺なんかには到底解し得ないが、心地良いわけだ――などという考えが、漠然と泡のように浮かんでは消えていった。


 ◇


 浮きつ沈みつ、もつれ合った。

 傷を舐め合い、空虚な心の隙間を粗暴な快楽で満たそうとするように求め合った。

 波間に見出したダークブルーの感情に痺れた。それは痛くも優しく、虚しくも狂おしい甘美な愛だった。

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