シャチの弾劾

 やがて海食洞には波音の静けさが戻った。

「鮫神」

 その名を呼んでくれる人が、一人消えた。入れ替わりに一人、再び現れた。それがせめてもの救いだった。

「鮫神。起きられるか」

「……ああ」

 緩慢に頭をもたげる鮫神──酷く疲れた声と血走った目。無造作に投げ出した足に波が当たる。あいも変わらず寄せては返す波が、何だか薄情に、冷たいものに思われる。

「さて。折角だ、俺から一つ、素直じゃない鮫神くんに忠告しておこう」

 逆戟は距離を詰め、鮫神の正面に居直った。

「ハッ……何だよ」

 真面目な話は御免だ、と言わんばかりに鮫神は力なく白けた笑みを浮かべた。対して逆戟からはすっと表情が消えた。

「辛いのは分かる。それは恥じることでも隠すことでもない。だが、囚われるべきもんじゃない」

 そうだ、外面こそ気負って取り繕っているが、鮫神は意外に純粋な心の持ち主なのだ。他人ひとの前では虚勢を張り、何でもない風に振る舞う。が、逆戟は見抜いている。それが精一杯の「平気なふり」なのだと。

割ってしまった硝子細工を接着剤で継ぎ接ぎし、箱に隠す子供と同じだ。露呈することを恐れるが故に無駄な意地を張り、余計に血を流す。しかも鮫神自身は気付いていない。

 それが逆戟の憂う理由だ。

「鮫神。お前は、身体は無駄に丈夫だが中身は別だ。悔やもうが憎もうが全く構わんが、俺とは正反対、お前はそれを内側に向けすぎる。他人より己を責め苛む。違うか?」

「……知るか、そんなこと」

「俺は知っている。誰よりもな」

 突き付けられる指──その1本を前にして、鮫神はまるでそれが刃物の切っ先であるかのようにたじろいだ。

 逆戟が、必死の防御に刃を突き立ててくる。砕けそうな心を繋ぎ止めるための装甲を切り裂いてくる。脆弱な中身を抉り出そうと──。

「苦しいんだろう、その女の子を死なせたことが。何もしてやれなかったことが悔しいんだろう。泣きたいほどやるせないだろう?」

「……」

「水谷を殺した、だがそれが何になった? 気が晴れたか? 晴れんだろう。責める相手が己一人になっただけだ。怒りが自分に向かうだけだ。守れなかった、救えなかった、と。俺が殺した、と」

 糾弾するかのように言い募る逆戟。ぐっと奥歯を噛み締めた鮫神がやっと苛立たしげに声を絞り出す。

「……ああ、そうだ。そうだよ、アンタの言う通りだ。で、それがどうした? アンタには1ミリも関係ねぇだろうが。首突っ込んで来るんじゃねぇよ、放っといてくれりゃいいんだ。忠告だァ? 要らねぇんだよそんなもんは!! さっきから訳の分からねぇことばっか言いやがって……余計な世話だって言ってんだよ、俺はッ」

 遂に噛み付いた。しかし、逆戟は全く動じなかった。ただ厳然と対峙するだけだった。

「よく吼える。いいぞ、気が済むまで喚き散らせばいい」

「テメェ……ッ」

 余裕に満ちた笑みがこれでもかと言わんばかりに鮫神を煽った。逆戟の思惑通りだと分かってはいても、掴みかからずにはいられなかった。勝手に手が白い喉元へ伸びた。

 顔を突き合わせて吐き捨てる。

「昔から気に食わねぇんだよ、その澄ましたツラが。下で何考えてんのかこれっぽっちも分からねぇ。気色悪ィったらありゃしねぇ。こちとらテメェのことなんざほとんど知らねぇっていうのに、テメェだけは俺の心の中をいつも知ってやがる」

「それで俺が言うことに反論の余地がないから余計むかつくんだろう」

「ああそうだ。全部お見通しだって言うんだろ。そんなに俺を虐めるのが楽しいか、え? 何が楽しいんだよ。何がしてぇんだよ。吐けよ、クソッタレ!!」

「虐めているつもりはないさ。構いたくなるだけだ」

「この野郎……」

 こんなことでむきになったところで仕方がないというのはよく分かっていた。それでも、持て余していた怒りは一度矛先を定めると止まらなかった。逆戟の思うままに「怒らされている」というのが堪らなく悔しい。そしてそれが更に怒りを増幅させる。逆戟の掌の上でいよいよ激しく踊り狂うだけで、決して逃げ出せはしない。

「いい加減にしやがれッ」

 頭に血が上ると口が上手く回らなくなるものだ。故に罵倒は拳に変わる。

「殴りたきゃ殴れ。思いっきり俺に八つ当たりすればいい」

「うるせぇ!!」

 怪我のことも忘れ、飛びかかって逆戟の横っ面に拳を叩き込んだ。よろめく彼の顎にすかさず一発、脇腹にも一発。ごつごつした岩の地面の上に蹴り倒す。

 鮫神が身体でぶつかりあって勝てる相手ではない。いつも必ずぶちのめされた。それなのに逆戟は今、一向に反撃せず、ただ黙って殴られているだけだ。情けをかけられているようで、癪に障ることこの上ない。

「殴れよ、テメェもよォッ!!」

 ひりつく痛みが心を苛む。軋むプライド、限界に達した苛立たしさ。既に理性は吹き飛んでいた。

「やれやれ、随分元気な怪我人だな……そこまで言うならお望み通りにしてやろう」

 血の滲む口元に鮫神が振り下ろした拳を、逆戟はしかし呆気なく受け止める。  

「後で後悔しても知らねえぞ」

 常の柔らかさを残しながらもドスの利いた低い声でなされた宣告。

 と同時に鮫神は、組み敷いていたはずの逆戟に跳ね飛ばされていた。

 一瞬にして上下が逆になった。


 それからは嵐のような猛攻が彼を襲った。

 やはり逆戟は強かった。我を忘れ、闇雲に暴れる鮫神など敵ではなかった。今度は鮫神が一方的に殴られる番だった。しかも逆戟はほとんど、手加減というものをしてはくれなかった。

 強烈なボディブロー。じわりと広がり、内から身を焼く灼熱の痛み。惜しげもなく注がれる全体重、悲鳴を上げる骨。みしりと身体の軋む嫌な音が脳を竦ませ、捻じ伏せられた関節が戦慄く。

 首を絞める腕に噛みつく。己と彼と、血が口の中でどろりと混ざり合う。心做しか少しだけ甘いような──と思えば歯を折り飛ばす勢いで顎に炸裂するアッパー、フラッシュする視界、強かに地面に叩きつけられる頭。喰いちぎった肉が喉に引っかかる。

 口元に手を伸ばす暇もない。肉を打ち内腑を穿つ鈍い音、殴打、殴打、ただひたすらに殴打──。

 拳がめり込めば血を噴く鮫神を見下ろしながら、白斑は変わらずにやりと笑っている。黒い肌に隠れた本当の目が何を映しているのかは、定かでない。

 巨体の下敷きにされ、じたばたと暴れ狂っていた四肢はやがて力なく投げ出され、抵抗は痙攣となり、そして止んだ。

 研究所から脱出してきたときよりも更に酷い有様で、完敗を喫した鮫神は腹を波打たせていた。


「どうだ、このくらいでいいか?」

 馬乗りになったままで返り血も鮮やかに、飄々と逆戟は言う。そう、このシャチ、実は悠然と恐ろしいことをやってのける。穏やかに見えるが、笑いながら人を殴れる男である。

 十分だ畜生、という言葉は湿った咳に変わった。文句を言おうとした鮫神だったが、すぐには喋れそうになかった。

「結構参ってるようだな。目が死んだ……それでいい、一旦全部忘れろ。ほら、深呼吸だ深呼吸」

 逆らう気力は残っておらず、言われるがままに息を吸い込んだ。すると、ひんやりとした空気が潮の香りとともに巡り、焼け付いた喉と火照った身を少し冷やしてくれた。

「どうだ、効いたか? お前みたいな奴にはぴったりだろう」

「……何……て荒療治だ、この鬼畜野郎」

「はっはっは。効果抜群だな」

「効きすぎだ、アホ……ちったぁ加減をしやがれ加減を。というかまず降りろや」

 加減? したぞ、と嘯いて、やっと逆戟が退く。潰されていた血管が広がり、今度こそ身体に空気が行き渡った気がした。

「……それにしてもアンタ、しばらく薬打ってねぇ割には全然衰えてねぇな」

「サバイバル生活だからな。それに薬なんぞ打たない方が余程調子がいいぞ」

「そういうもんか」

 アナボリックステロイド、成長ホルモン剤、インスリン――研究所にいた頃は毎日のように何かしらの薬剤を注射されていた。得体の知れないものも多数あった。いつ死んでもおかしくない量を投与されているのだ、確かに今の逆戟の生活のほうが健康的と言えば健康的だろう。

「最初のうちは禁断症状が出るかもしれんがな。すぐ慣れるさ……ところで鮫神」

 逆戟はぐいと身を乗り出した。

「どうせその怪我も大したことはないだろう。泳がないか」

「今か?」

「そうだ。気が紛れるぞ」

 感情を解放することは心の治療になりうるが、暫し副作用が残るのも事実。リハビリは必要だ。

 そして彼には今、逆戟という、甲斐甲斐しく面倒を見てくれる兄貴分がいる。

「……まァ、そうかもな」

 出血は止まっていたが、無茶もいいところだ。しかしそんなことを気にする逆戟と鮫神ではない。二人はすぐに、揺らめく青い水面の下へ滑り込んでいった。

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