サメの慟哭

 それからまた、月日は流れ――逆戟の脱出宣言を、鮫神が忘れかけた頃だった。

 島が寝静まった夜更け。突如けたたましい警報音が鳴り響き、常ならば青白い建物内に赤い光が駆け巡った。

 誰もが飛び起きた。それは昼間、散々働かされて疲れ果て、部屋に戻ってくるなり床に倒れ込んで爆睡していた鮫神も例外ではなかった。

「何だァッ」

 硝子の壁際に駆け寄る。銃を持ってドカドカと通路を駆けてゆく警備員たちの足音が、サイレンと共にめちゃくちゃな旋律を奏でる。一体何が起こっているのか、しかし鮫神にはバイオメトリックスによるロックを解除し、外に出ることはできない。開かぬ扉を前に、ただ壁に貼り付いて辺りを見回すことしかできなかった。

 こんな警報など終ぞ聞いたことはない。何かとんでもない事態が進行しているということだけは確かだった。

 心を掻き乱す耳障りな音は鳴り止まない。チカチカと明滅しては目を眩ませる攻撃的な光が鬱陶しい。情報は何も与えられない。

 もどかしさにいても立ってもいられなくなったとき、ふと、狂騒の合間に遠い叫び声を聞いた。

『逃げた』

 耳をそばだてた。今度ははっきりと聞こえた。


『逆戟が逃げた!!』


 一気に周囲の音が遠くなった。

 脳裏に浮かぶのは、あの不思議な笑み。『海で待ってるぜ、兄弟』という台詞が何度も何度も蘇る。近くで飽きるほど聞いた、重厚なバスバリトンで再生される。痺れるような痛みと共に――。

「おい、マジで……行きやがったのか、

 雷に打たれたように立ち尽くした。


 ◇


 結局、逆戟が如何にして鉄壁のセキュリティを潜り抜け、研究所を脱走したのかは明らかにされなかった。鮫神が目にすることができたのは、引き千切られた鉄条網に付着した血痕くらいだった。

 それから鮫神は以前にも増してやさぐれた。殊更に所員たちに暴言を吐き、時には流血沙汰まで引き起こすようになった。逆戟が点けた火は確実に燻り出したのだ。

 それは何も鮫神に限ったことではない。顔が広かった逆戟は、何人もの獣人に名前を付け、アイデンティティを認めさせ、自由を求める闘志を吹き込んだ。洗脳によって自我を奪われていない獣人たちのほとんどが、徐々に人間を憎み、抵抗を試み始めた。

 そして実質、彼の一番弟子であった鮫神は今、二人目の脱走者となったのである。



 ――白い胸が微かに上下する。咳も、混乱と動揺も既に引っ込んでいた。今、その胸の内を満たすのは別のものだった。

「やっぱり来たじゃねえか、俺を追って」

「違ぇよ。ただ、あそこが二度と戻りたくねぇ場所になっただけだ」

 軽くからかった逆戟だったが、鮫神がそれは強い厭悪を滲ませた口調で吐き捨てたので、即座に愛する弟分の傷心を察した。そして態度を翻した。

「そうか。話してみろ、ぶちまければ多少は楽になる」

 そう言って、横たわる鮫神の傍らに、少し距離を開けて座った。凄まじい形相で虚空を睨み、歯を軋らせていた鮫神だったが、やがて脱走までの経緯を語り始めた。


 聞くところによればこうだった。

 いつものように騒ぎを起こした鮫神は、罰則としてとある研究室で謹慎させられ、掃除を課された。水槽の掃除と、死体処理である。その部屋にいた実験体のほとんどは既に死んでいたが、汚れた大水槽の中に一体だけ生存している者がいた。

 それは人魚だった。と言っても、研究員曰く『失敗作』らしく、確かにその姿は一般的な人魚のイメージからかけ離れたものだった。ずっと放置されていたのだろう、酷くやせ細り、鱗は剥がれかけ、おまけに腕がなかった。顔も魚じみていてお世辞にも美しいとは言えなかった。

 しかし鮫神は彼女にスイと名前を付け、面倒を見た。彼女もまた、人間たちによって作り出され、一方的に蔑まれる存在であり、彼にとっては同類である。スイも無邪気に鮫神に懐いたし、異様な見た目にも慣れてしまえば愛嬌さえ感じるようになり、二人はとても仲良くなった。

 しかし、人間は何もかもを邪魔立てする。彼らの関係にさえ横槍を入れた。

 鮫神が検査のために連れて行かれ、スイのもとを離れていたときだ。鮫神の因縁の敵、研究員の水谷が彼女に囁いた。腕の移植手術を受けてみないかと。

 彼女はそれを受けた。そして失敗した。

 何日後かに鮫神が戻ってきたときには、既に壊死が進行していた。彼にスイを救う術はなかった。スイ自身もまた、助からぬことを悟っていた。

 そして鮫神はスイを食った。スイ自身が望んだことだった。少しでも鮫神と一緒にいたい、と――。

 血の海に沈んだ鮫神の理性は吹き飛んだ。どこからそんな力が湧いたのかは知らないが、大水槽を破壊して研究所を水浸しにし、水谷を殴り殺し、混乱に乗じて強行突破し、そして脱出してきた。

 と、いうことだった。


 今尚煮え滾る怒りを露わに、時折口ごもりながら鮫神は語った。逆戟ですら少し驚くほどの殺気を漂わせ、震える拳をかたくかたく握りしめながら。

 怒気に満ち、張り詰めた沈黙──しかしそれは、逆戟がふっと笑えば途端に和らいだ。

「何だ、俺より余程骨があるじゃねえか。流石だな、鮫神」

「……」

 何も言わぬ鮫神の横で逆戟は静かに微笑み、穏やかな視線でそっと彼を撫でた。

 波がさざめき、打ち寄せる。鮫神が運び込まれた逆戟の住処、青く美しい海食洞。それは、鮫神がスイと過ごした場所──深海のように青くて暗い水の牢獄を思い起こさせた。


 ぱしゃり。

 岩に当たる波音の中、スイが身を翻す音が聞こえる気がする。

 ぱしゃっ、ぱしゃんっ。

 くるくると嬉しそうに泳ぎ回って、小さな水飛沫を上げる彼女が──


 そこにいる、はずはない。

 彼女は既に腹の中だ。


「……畜生」

 何かを必死に堪えるように引きつっていた鮫神の顔が、遂にぐしゃりと歪んだ。

「畜生……ッ!!」

 何とか口に出せた言葉は、それだけ。

 怒りが。憎しみが。悔しさが。悲しみが。砕けるほど強く噛み締めた歯の奥から、声にならぬ叫びとなって迸る。

 逆戟はただそこにいた。その存在だけで、鮫神の心の傷口から、溜まった膿を押し出させた。

 そして、ボロボロになったサメの、魂の慟哭を聞いていた。

 血の涙を、見ていた。

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