水獄の記憶

 紺碧の海にぽつりと浮かぶ島がある。一見したところただの島だが、実はその島全体が巨大な施設だった。

 獣人開発研究所。そこが彼らの生み出された場所、そして彼らが捨ててきた場所だった。


「L292-99、O511-01、S159-04。投薬の時間です、至急第2特別医療室まで来るように。繰り返します、L292−99、O511-01、S159-04……」

 モノクロの世界、照明だけが青白い建物内に無機質なアナウンスが響く。呼び出されたのは研究所きっての厄介者3人──竜花タツハナ 蜥蜴シャクヤク逆戟サカマタ マガネ、そして鮫神サメガミ 海浜カイヒンだった。

「……面倒くせぇな、クソッタレ」

 そういえば3時までには来るように言われていたな、と思いつつ、時計の針を見ながら部屋で昼寝を始め、スピーカーからの声に起こされて現在3時15分。折角気持ちよく寝てたのによ、と悪態をつきながら、彼──後の鮫神は仕方なく起き上がって部屋を出た。

 ここは生体実験によって強化生物を作り出す研究所だ。今呼び出された三人は、度重なる手術と投薬、そして厳しいトレーニングに耐え得る相当優秀な個体だった。が、研究者たちからすれば、彼らには洗脳が効かないという致命的な欠陥があったのだ。呼び出しに応じないのはいつものことである。彼らの傍若無人な振る舞いには研究者たちの頭痛の種だった。

 外に出るなりレーザー銃を抱えた男たちが無言でわらわらと寄ってくる。近頃暴れすぎたのが悪かったのか、どこへ行くにも厳重護送されるようになってしまった鮫神だった。

「……ったくよ、鬱陶しいったらありゃしねぇ」

 派手な舌打ちと共に、作業着のポケットに両手を突っ込みながら気怠げに歩いてゆくさまは、人間の半グレ青年と何ら変わりなかった。


「おう、噂の問題児。なかなかいい面構えだな」

 医療室に入るなり、逆戟は鮫神に向かって手を挙げた。それに応えて軽く会釈し、隣に座る。竜花は彼にちらと視線を投げかけただけだった。

 管理番号L292-99、自称、竜花蜥蜴。その名の通り人間とトカゲのハイブリッド、しかしカナヘビのような華奢さとは無縁で、どちらかと言うとオオトカゲを想起させるいかつさだ。無口で気儘、決して気性が荒いわけではないが、どことなく近寄り難い。戦闘員として作られた個体で、特に狙撃の腕は超一流と評判だった。暇さえあれば銃を弄っているとのことだ。鮫神と面識こそあるが、深い関わりはなかった。

 そして管理番号O511−01、自称、逆戟鐵。体格のよい鯱人で、身長は優に2mを超える。こちらも戦闘員、ずば抜けた身体能力を誇り、間違いなく研究所で生み出された獣人たちの中でトップクラスの力を持つ個体だろう。それなりの荒くれ者で、人間を嫌い、一人で泳いでいることが多いという噂だった。鮫神とキャラこそ似ているが、こちらとも交友関係はない。

「いかした刺青だ。ところでお前、名前はあるか?」

「名前? ねぇが」

「番号じゃ味気ないだろう。ちゃんとお前に考えてきた、今日からお前は鮫神海浜だ。受け取れ」

「……そりゃまた微妙なネーミングセンスだな。そのままじゃねぇか」

「サメなんだからいいだろう。嫌なら考え直してやるが」

「ハッ……貰っとくぜ」

 これが鮫神と逆戟の、最初の会話だった。そう、彼の名付け親は逆戟だったのである。ちなみに、竜花の名付け親もまた逆戟である――人間嫌いの逆戟は、『人間に管理されるな』と警鐘を鳴らすべく、番号で呼ばれる獣人たちに名前を付けていたのだった。支配を嫌い我が道をゆく革命家だった。

「いい身体だな。今晩、竜花と俺とお前で風呂でもどうだ。仲良くしようじゃないか、厄介者同士」

「……どーも」

 竜花は相変わらず逆戟の奥でじっと座している。二人とも鮫神とさして年齢は変わらないはずなのだが無駄に貫禄があり、加えて逆戟はやけに親しげに話しかけてくるので、些か気圧されて神妙に黙り込む鮫神であった。

「貴方達、静かにしなさい。始めますよ」

 それから3人はそれぞれ手術台の上に乗せられ、がんじがらめに拘束具を取り付けられて、何本も注射針を突き刺されたのだった。


 ◇


 それから鮫神は二人と、主に逆戟とつるむようになった。と言っても本人にはそこまで仲良くしている気はなく、絡んでくる逆戟を適当にいなしているくらいの感覚だったのだが。

 正直言って、彼ら二人のことは得意ではなかった。体格ではどう足掻いても勝てなかったし、竜花は孤高の老兵じみており、逆戟は大人の余裕に満ちたアウトロー。若者らしく血気盛んな鮫神がペースを崩されるのも無理はない。

 加えて逆戟とは何を競っても敵わなかった。取っ組み合いで負け、泳ぐ速さでも負け、更には頭脳戦でも負ける。『俺は強い』という鮫神の自負が、『俺は強いが上はいる』と改められる程度には打ちのめされたようである。

 それも致し方ないことかもしれない。自然界においてサメとシャチが戦えば、軍配が上がるのは圧倒的に後者だ。体長は大体のサメより大きく、泳ぐ速度は倍近くにもなり、おまけに狡猾。シャチはサメの肝臓を好物としているが、軟骨魚類であるサメは肋骨を持たないため、シャチに腹から突き上げられれば簡単に内臓破裂を起こして死に至る。そして腹を食い破られたサメの死骸が大量に浜に流れ着く、という訳だ。白い死神とあだ名されるホホジロザメでさえ、シャチ──Orcinus Orca冥界からの魔物には恐れをなして逃げ去る。生物学上、シャチには天敵が存在しない。海の覇者はサメではなくシャチである。

 人間と混ぜられて強化生物となってもその力関係は覆せなかったらしい。ただ、鮫神は逆戟を恐れるでもなく、かと言って対抗心を燃やすのでもなく、どちらかと言えば尊敬していたようだった。後輩として可愛がられていたようだし、逆戟はいい兄貴分だったのかもしれない──仮にそう思っていたにしろ、ただでさえガサツで素直でない鮫神の態度からは読み取れなかったかもしれないが。

 しかし、竜花と逆戟の2人が鮫神の貴重な同胞であったことには変わりない。反人間同盟とでも言おうか、彼らを作り出し、弄び、虐げる人間たちに抱く憎悪の情が、間違いなく強固に3人を結びつけていた。


 そうして妙に大人びた先輩2人と共に肉体強化に勤しみ、時折暴れて謹慎をくらい、更なる手術や投薬を強制されつつ過ごしていた鮫神だった。

「なあ、鮫神」

「あぁ?」

 ある日、逆戟と泳ぎに来ていたときだった。水から上がってプールサイドに並んで腰掛けると、逆戟は肩に手を回して呼びかける。何だよ暑苦しい野郎だな、と内心では思いながらも、鮫神はその手を振り払おうとはしない。逆戟の絡みにも大分慣れてきた彼である。

「俺は飽きた」

「ハァ? アンタが連れてきたんだろうが、まだ幾らも泳いでねぇぞ」

「違う。いや、違わんか……ここでの生活に、だ」

 いきなり何を言い出すかと思えばただの愚痴か、と鮫神は肩を竦めた。それはそうだ、飽きもするだろう。生まれたときから島に閉じ込められ、常に人間と監視カメラの視線の元に窮屈な生活を送っているのだから。できることすら限られている。運動するか、仕事をこなすか、寝るか、そのくらいしかすることが、いや、するのを許されていることがない。

「お前も飽き飽きだろう。我々をヤク漬けにしようとする人間共にも、四六時中向けられる銃口にも、エゴに満ちた奴らの顔面とつまらない景色にもな」

「……別に、今に始まったことじゃねぇだろォよ」

 鮫神はすぐ近くで優美な線を描く白い顎から喉へ、LEDの光を受けて青く透き通りながら伝ってゆく雫を横目で眺めていた。明かりの下だと、逆戟の白黒の肌は思わず触れてしまいたくなるような鮮やかさで艶めく。鮫神とはまた違った滑らかさとハリがある皮膚だった。

「お前はずっとここにいるつもりか?」

「逆にどこに行くってんだよ。おかに俺らの居場所はねぇ」

「当たり前だ、誰が陸に行くか。海に決まってるだろう」

「……」

 海。彼らのいる研究所は、四方を海に囲まれている。にも関わらず、実際に海へ入ったこともなければ、その目で見たことすらほとんどない。かなりいかがわしい施設であるから、通りかかった船や飛行機に怪しまれぬよう無人島を装い、建築物が巧妙に隠されているのだ。建物の大半は地下にあった。

 鮫神と逆戟。このサメとシャチにとっては、海は故郷でも何でもない。未知の外界だ。

「そりゃ陸より海の方がいいに決まってらァ。だけどよ、ここを出りゃそれこそ命懸けだぜ。どうせ追われて捕まるか、適応しきれずに死ぬかどっちかだろ」

「意気地のねえサメだな」

 逆戟はハッと笑った。そっぽを向いた鮫神の顔には諦めじみた色と、少しの羨望が滲んだ。

「勇気と蛮勇は違ぇぞ」

「何だお前、外見そとみの割に理屈屋か?」

「うるせぇな。俺だってただ威勢がいいだけのバカじゃねぇんだ」

 うざったそうに鮫神は言った――人間たちによる抑圧的な生活が、彼の内面をニヒルな男にした。彼自身も知らぬ間に、賢く生きるつもりが実際には牙を削り取られている。

 しかし逆戟は気付いていたのだろう。鮫神の心の奥底に澱んでいる鬱屈、未だ完全には失われていない叛逆の心、革命の精神に。その、妙な力強さを覗わせる不敵な瞳で、見抜いていたのだろう。鮫神が本当は軛から逃れたがっていることを。

「そうか。俺は出るぞ」

「ハァ!? ……本気か?」

 逆戟があまりにさらりと言ったもので、思わず鮫神は頓狂に叫び、そして声を低めた。この先輩のシャチは大胆なのかそれとも阿呆なのかと呆れることは多々あったが、今回は格別である。特級の阿呆だと思った。

 研究所から脱出する――限りなく不可能に近いことと思えた。厳重な生体認証システム、24時間365日緩められることのない監視の目、加えて彼らの身体に埋め込まれた位置情報の発信機。これら全てをかいくぐって逃走することが誰にできるだろうか。

 それでも逆戟は、事もなげに言うのだ。

「ああ。お前も後で来い」

「無茶言うな。万が一アンタが上手く脱出しちまったとしても、俺はアンタほど利口でもねぇし器用でもねぇんだぞ。一緒にすんな」

「ほう。つくづくつれないな、鮫神は」

「そういう話じゃねぇだろ」

 相変わらず、得体の知れぬ微笑の仮面を被る逆戟。その内面を疑る鮫神。空回りしているのは、完全に鮫神の方だった。

「海で待ってるぞ、兄弟」

「いつから俺がアンタの弟になった」

 鮫神の背中をバンバンと叩き、彼のツッコミなどまるで無視してするりと腕を解き、プールに飛び込む。盛大に水飛沫を浴びてやれやれと頭を振る鮫神だったが、やがて負けず劣らず派手な水柱を立てて逆戟の後を追った。



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