海淵

戦ノ白夜

プロローグ 再会

 朧気な光が頭上に揺蕩っていた。月光──だろうか、或いは脱走者を炙り出さんとするサーチライトだろうか。

『逃げろ。泳げ』

 の頭の中にはそれしかなかった。尾ひれで水を打ち、鋭いストロークで水を掻きつつ、ひたすら陸から遠ざかる。

 血の臭いに敵が群がる前に泳ぎ去らねばならない。手負いのサメに、海はそれほど寛大ではない。人間の手からは守ってくれるかもしれないが、果たして生かしてくれるかといったら、どうだろう。

 だが、陸で死ぬのだけは嫌だった。生きたまま連れ戻されるのも絶対に嫌だった。己の身体が人間に弄ばれるのは、もう許せなかった。そんなことならば海の藻屑となった方が何百倍もマシだと思った。

 ひとまず人間からは何が何でも逃れたい。たとえ逃げ切った先に死が待っていたとしても、魚に喰らわれ、海に還ることができたなら彼の勝ちだ。

 光の届かぬ場所へ。人の預かり知らぬ、深い海の世界へ。怒りと悲しみと憎しみと、滾る負の感情を原動力として、執念で身体を鞭打ち、泳ぐ。

 水が重く纏わりつく。水圧が骨を軋ませる。

 暗い藍、そして黒へと染まってゆく視界。体内から漏れ出ては、すぐに闇へ溶ける紅。

(泳げ、早く。早く──)

 やがて完全にブラックアウトした。


 ◇


 ぼんやりと光が灯った。

 あれは何の光だろう。どこから来る光だろう。もしかすると天国とかいうやつだろうか、しかしそこは生前に善行を積んだ者だけが招かれるのではなかったか。地獄の炎か、いや、それにしては涼やかすぎる光だ。

 捕まったのだろうか?


 ──不意に胸骨を押され、肺に空気を吹き込まれた。


 途端に咳込んだ彼の口から水が溢れ出た。 どうやら生きていたようだ。

 地面が見える。硬い岩の地面が。

 腹を強く押され更に水を吐き出す。もういい、自力で呼吸できる、と、顎に添えられた手を払い除け、起き上がりかけたときだった。

「寝てろ、阿呆」

 そう言われ、肩を押さえられた。僅かな渋みと艶を帯びた、身体の芯に響く、低く重量感のある声だ。どこかで聞いたことがあるような声だった。

 訝しんで薄目を開ければ、目に飛び込んできたのは黒い顔。さながらにやりと笑う目のような白斑。

「……逆戟サカマタ?」

 彼を覗き込んでいたのは、かつての同胞──シャチの姿をしただった。

「久し振りだな、鮫神サメガミ。覚えていてくれたようで何よりだ……しかしどうした、そのザマは?」

 鮫神と呼ばれた彼。そう、彼はサメの姿をしただった。

 残りの水を吐き出し、荒い息をつく鮫神──その筋肉質な肉体はほぼ人のようで、所々から生えるひれと臀の太い尾、そして尖った鼻面が、彼が鮫人シャーカンであることを物語る。左肩から腕にかけて彫られた、波をモチーフにしたのであろう見事な刺青。顎から左目を貫いて額へと走る二条の傷痕を初めとし、全身に瘡痕と新たな怪我とを負いながらも目だけは鋭くぎらついていた。

 対する鯱人オルカン、逆戟はといえば、鮫神よりも一回りか二回り大柄なだけで似たような格好をしている。これも鮫神と同様に注射痕や弾痕、手術痕、火傷など様々な古傷が逞しい体躯に刻まれていた。

 彼ら二人が並々ならぬ事情を持つ男であることは一目瞭然だろう。ゲームのフィールドから抜け出して来たかのような姿形に加え、物々しい傷の数々。殊に鮫神などは、今も頭からどくどくと血を流している始末だった。

「まあいい。暫く動くな、話はいつでも聞ける」

「そんな暇はねぇ、奴らが俺を……」

「落ち着け。見つからんさ、ここはあの場所から120キロは離れた無人島だぞ。第一、俺がここへ来て5年になるが、未だ一人の人間とも会ったことがない。追手の気配も一切ない」

 逆戟に宥められ、鮫神の張り詰めた表情が少し緩んだ。確かにそれだけ距離を稼げばそうそう見つからないだろう。手がかりとなるものも何も残っていないはずであるから。海中に足跡は残らない。

「お前と会うのも5年ぶりだ。ちょっとは成長したかと思っていたが、溺れかけるようじゃまだまだだな。サメのくせに溺れる奴がいるか、えぇ?」

「……うるせぇな」

 鮫神は憮然とした様子でぼそりと呟いた。そんな彼を見つめる逆戟の目は、昔を懐かしむように細められていた。そっぽを向いた鮫神もまた、かつて逆戟と共にいた頃のことを思い出していた。

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