【追求】


 まだ半泣きの愛美を連れ、未来は、手近な喫茶店に入った。

 一番奥の壁際の席に座り適当に紅茶を二つ注文すると、未来は、バッグから取り出したタブレットを愛美に見せた。


「ここに、アンナローグから取り出した映像データが入っているわ。

 愛美、一緒に観てもらってもいい?」


「は、はい! お願いします!」


 アンナローグ視点の映像なので、そこには千鶴の姿が間違いなく映っている筈だ。

 アプリケーションを立ち上げ、ファイルを読み込む。

 これは、最後に彼女と逢った日のものだ。


「ここです! ねっ? さっきのお宅でしょう?」


「うん、確かに」


 愛美の言う通り、映像の視点は、上空から向坂家の二階へまっすぐ降りていく。

 二階の窓には雨戸は閉められておらず、普通のガラス窓が見えている。

 やがて、窓が開かれ、逆光に浮かび上がる少女の影が映った。


「――これが、ちづるさん」


 七~八歳くらいだろうか、見た目の幼さに反して、結構大人びた喋り方をすることもわかる。

 アンナローグと楽しそうに世間話をして、持ち寄ったビーズアクセサリーを見せ合っている様子が続く。

 それだけ見れば、とても平和で微笑ましい光景だ。


「可愛い娘ね、とても元気そうだわ。

 どう見ても普通に生きてるし、幽霊には思えないわね」


 未来は一瞬身震いすると、頭をワシワシと掻き毟った。

 

「未来さん、信じて頂けましたか?

 ちづるさんは、間違いなくあのおうちの二階の部屋におられるんです」


「わかったわ、愛美。

 これを観た以上、私も信じる」


「ありがとうございます!」


 店内に響く大きな声で、愛美が礼を述べる。

 幸い、今は客が他にいなかったから良かったものの、カウンターの店長が、不思議そうな顔でこちらを見つめていた。


「でもね、愛美。

 私は、あのお母さん達が嘘を言ってるようにも思えないの」


「えっ」


 少し冷めかけた紅茶を一口すすると、未来は少し眉をひそめつつ、続けた。


「ちづるさんは、生きている。

 でも、お母さんは亡くなっていると言ってるし、ご近所の方も同じことを言ったわ。

 普通なら、どちらかが嘘をついてなければ成立しない筈よ」


「そうです、でも、どうしてお母様とお向かいさんは、あんなことを?」


 涙を拭い、オレンジジュースを一口飲むと、愛美は落ち着こうとして深呼吸を始めた。


「この時点で、普通ではない何かが起きているのよ」


「それは、どういうことでしょう?」


「聞いて、愛美」


 未来は、この付近で起こった出来事を説明した。

 凱達が行った調査と分析結果に加え、今朝方伝えられたばかりの、アンナブレイザーが襲われた件について。

 それが、向坂家のあるあの小路という、とても狭い場所を巡る話であるということを。


 愛美の顔色が、みるみる変わっていく。


「どういう……ことなのでしょうか?」


「私は、この一連の話が無関係だとは思えないの。

 まずは、千鶴さんが本当に亡くなられているのか、その裏を取る必要があるわ」


「未来さん、これから、私はどうすれば?」


 不安そうに見つめる愛美に、未来は、目を閉じながら軽く頷いた。


「こういう時のために、諜報班がいるの。

 ――凱さんに、相談しましょう」


 未来は、そう言いながらウィンクした。




 

 ここは、SVアークプレイスのミーティングルーム。

 午後になって、未来の依頼を受けた凱は、待ってましたとばかりにタブレットをテーブルの上に置いた。 そこには、何かのレポートのようなものがびっしりと書き込まれている。


「えっ? 何ですかこれ?」


「何ですかって、調査結果」


「たった今、お願いしたばかりですよ?」


「どうせお前らが聞いてくるだろうと思って、予め調べといたんだよ」


 そう言いながら、凱は眠たそうに欠伸をする。

 未来はタブレットを受け取ると、早速資料に目を通し始めた。


「なんつってな。

 実際はさ、俺が調べたかった事と、未来が聞きたかったことが、たまたま一致しただけだがな」


「それでも充分凄いですよ、凱さん!」


 不意に褒められ、凱は、少しだけ顔を赤らめた。


 数分後、資料を熟読した未来は、信じられないといった顔つきになった。


「――これ、本当ですか?」


「ああ、間違いない」


「でも、この通りだとしたら……」


 凱の報告書の内容は、先日の事件現場周辺の各家庭に関する調査結果だった。

 基本的に、どの家庭にもこれといった問題や疑問点はなかったが、たった一軒だけ奇妙な家がある。


 それが、向坂という世帯。


 ここは、主・孝義をはじめ、妻、娘の三人家族で、晩婚の為か、両親と子供の年齢はかなり離れているようだ。

 娘の向坂千鶴は七歳で、通院・手術歴は確認出来たものの、死亡に関する情報は一切ない。

 小学校を休みがちで、先月からは一切登校していないという情報もあった。

 一部、かみ合わない情報があるとはいえ、ここまではそんなにおかしなものは見当たらないように思える。


 しかし一方、父親の孝義については、気になる点があった。


「一ヶ月前から、出社してない?」


「ああ、しかも無断欠勤で、家族からもその理由は説明されていない。

 加えて、同じ頃から父親の姿を見たという人がいない。

 入院しているとか、そういった情報も見当たらない」


「失踪、ですか?」


「普通に考えたら、そうなるよな」


 一ヶ月前だとすると、向坂家の向かいの住人が言っていた、“千鶴が亡くなったとされる時期”と一致する。

 しかし、これが父親の訃報の誤りとは、考え辛い気がしてならない。

 更に、向坂家で葬儀が行われたという話もない。


(いくらなんでも、ここまで話が食い違ってるなんて)


 未来は、眼鏡のブリッジに指をあてながら、眉間に皺を寄せた。


「この場合、情報内容はともかく、向坂家に何か起きているというのは確定だな」


「そうですね。

 しかし、それと今回の件の繋がりは」


「俺は、XENOが何かしらの形で、この向坂家に絡んでいるんじゃないかと思ってる」


 腕組みをしながら、凱は呟く。

 未来も、その考えには同意だった。


「もしかして、向坂のご主人がXENOで、今回の件の犯人?」


「それはまだなんとも言えないが、XENOは間違いなく、今もどこかに潜伏している。

 今の時点では、繋げて考えるのもおかしなことじゃないな」


「ですよね……」


「それで未来、俺からも聞きたいことがある。

 その、千鶴って子のことなんだが」


 凱の質問に、未来は、愛美にも見せたアンナローグの視覚映像をタブレットで表示した。

 画面には、一生懸命アンナローグに話しかける、幼い少女の姿が映っている。

 凱は、僅かに顔をしかめた。


「なるほど、確かに千鶴って子は存在しているんだな。

 と、いう事は、もう一つの可能性が生じることになるのか」


「もう一つの可能性?

 それって――」


 未来がそこまで呟いた瞬間、突然、凱のスマホが鳴動した。

 勇次からの連絡だ。


「ああ、なんだ、どうした?」


 いつものように、少し面倒くさそうな態度で出る。

 勇次の声は、対面の未来にも聞こえてくるくらいの大音量だった。


『今すぐ、地下迷宮(ダンジョン)に来てくれ。

 とんでもないことがわかった』


「え? 何があった?」


 表情を引き締める凱に、思わず身を乗り出す未来。

 勇次の次の言葉を待つ。


『アンナブレイザーを襲ったXENOの映像が解析された』


 二人は、同時に立ち上がった。




 十数分後、地下迷宮(ダンジョン)の視聴覚室にて、いつものメインメンバーの大半が集められた。

 愛美を除いて――


 天井から吊り下げられたプロジェクタ用の大きなスクリーンには、遥か上空から撮影された目白四丁目のあの付近が映されている。

 後から駆けつけた凱、未来、舞衣と恵以外のメンバーは、既に先の映像を観ているようだが、どことなく表情が暗い。 


「この映像は?」


「これは、情報衛星(シェイドIII)によるものだ。

 アンナブレイザーの視覚映像では判別が困難だったが、彼女を監視していたアレが何かを掴んでいないかと思ってな。

 調べてみたら、ビンゴだったというわけだ」


 そう言いながら、勇次は人差し指を天井に向ける。

 それを見ていた恵は、釣られて天井を見上げ、「おお~」と呻いた。


 映像は進み、途中から解析映像に切り替わる。

 

「夜間なので非常に不鮮明なんだけど、3D映像分析で別角度からの視覚を擬似的に表してみたんだ」


 今川の説明に首を傾げる恵とありさに、勇次が更に補足する。


「衛星(シェイドIII)は地上分解度を0.5GSDまで高められる。

 これにより上空から写された複数の画像から、現場にあった物の形状や大きさを計算してだな――」


「ま、待て、勇次!

 益々判らなくなるから、そのまま進めてくれ!」


 戸惑う凱の制止につまらなそうな顔を向け、勇次はさらに映像を進める。

 スクリーンには、やや斜め上方から見下ろすような形で、アンナブレイザーと、その周辺の様子が映っている。

 腕組みをしながら佇んでいるブレイザーの真上に、煌々と輝く街灯の明かりが見える。

 だが、次の瞬間、


「「「「 ――えっ?! 」」」」


 未来をはじめ、後から来た全員が、目を剥いて驚きの声を上げた。


 アンナブレイザーの頭上、目測でおおよそ二メートル程の位置に、突然黒く巨大な物が、唐突に出現したのだ。

 それは横長の楕円形で、真っ黒な影の塊のように見える。

 この謎の物体は、そのまま垂直に落下していくが、途中で口と思われる器官を大きく展開する。

 しかし更に衝撃的なのは、その楕円形の影には“胴体”のようなものがあることだった。

 アンナブレイザーが咄嗟に身をかわそうと動き出した瞬間、楕円形の影は身体を伸ばしたのだ。

 まるで、空間に開けられた穴から上半身だけを覗かせたような――


 その後、アンナブレイザーに“腕”のようなものが振るい下ろされ、これがジャケットを引き裂いたようだ。

 しかし、身体を反転させて再び街灯の方に向き直るまでに、謎の影はスルスルと身体を引き戻し、完全に消えてしまった。

 この間、たった3秒未満の出来事である。


 一連の流れを見た後、しばしの沈黙が流れる。


「今のが、今回のXENO……?」


「ど、どこから出てきたのぉ?! あのおっきな影?」


「つか、何度見ても、こんなん良く避けられたなぁ我ながら、って思うわ」


 ため息混じりで呟くありさに、舞衣と恵は無言でウンウン頷いた。


「まさか、本当にテレポートしてきたっていうのかよ、おい」


「想像の斜め上を行きましたね。

 でも、これであの不思議な現場状況はおおよそ理解出来ました」


 それぞれの感想が述べられた後、勇次が咳払いをしながら話し出す。


「あまりにも非現実過ぎる状況だが、何かしらの能力で、今回のXENOは“空間を飛び越えての攻撃”が可能なタイプだと判断した方が、今は賢明のようだ。

 ならば、これを前提に対策を講じる必要があるな」


「でも、空間を飛び越えるような存在なんて、いったいどう対処すれば?」


 舞衣の不安の声に、今川が反応する。

 どこからともなく紙袋を取り出すと、中に手を突っ込みながらごそごそさせ始めた。


「これは完全な予想だけどさ。

 このXENOは、普段そんなに大きく動くようなことはしないと思うんだ」


「それは、何故でしょう?」


「単純に、物凄いエネルギーを使うからさ。

 アンナミスティックの“パワージグラット”ってあるだろ?

 あれも次元を飛び越えるものだけど、実際にはとんでもない量のエネルギーを消費してるんだ」


「へぇー、そうなの?

 それって、どのくらい?」


 舞衣とありさの素朴な疑問に、今川は片手をぱっと開いてみせる。


「大雑把に言えば、原子力発電所の半年フル稼働分に相当するくらい、かな?」


 今川の発言に、勇次も頷いて同意する。


「電量に換算すれば、だいたい19テラワット強程度だからな、そんなもんだろう」


 その回答に、未来を除く全員が、先程以上の驚愕の声を上げた。


「そ、そんなに?!」


「って! ええっ?! そんなに凄いものだったの? パワージグラットって?」


「そ、そんなとんでもないエネルギー、アンナミスティックの中に納まり切るわきゃないだろ?!」


「いやー、凱さん。

 何言ってんスか。アレのおかげで行けちゃうんですよ」


 そう言いながら、今川は指で「C」の形を作ってみせる。

 それを見た凱は、思わず口元を手で押さえた。


「“グレイスリング”って、そこまで無茶出来るのかよ!」


「出来るんですわ、これが。

 って、話逸れましたね。

 つまり、空間跳躍ってそれくらいエネルギーを大量に消費するんだよ。

 そのXENOが、どういう理屈でテレポートてるのかわからないけど、絶対にかなりの体力を使ってるって話さ」


 今川が、お目当てのハンバーガーを取り出しながら説明する。

 

「はぇ~、アンナミスティックって、すっごくスゴイんだね~!」


 当の本人が、大口を開けて驚く。

 それを見て、ありさは思わず吹き出した。

 

「つまり、出来るだけ自分は動かないようにしつつ、一瞬で離れた所にいる獲物を捕らえるようにしている、と」


「だろうな。

 だから、あんな短時間の襲撃しか行わないのかもしれん」

 

 未来と勇次の会話に、舞衣が加わる。


「だとしたら、XENOは普段からあの付近に居るということでしょうか?」


「今川さんの想定通りだとしたなら、XENOの本体は、恐らく現場を直接目視確認でき――」


 そこで、未来の言葉が止まる。


「み、未来さん? どうされたのですか?」


「う、ううん、なんでもないわ」


 明らかに顔色が青ざめる未来を、舞衣が心配そうに覗き込む。

 それを横目で見た凱は、その場を早めに切り上げようと考えた。


「概要は理解した。

 じゃあ、ここからのアンナセイヴァーの対応は、こちらで考える。

 勇次達は、このとんでもねえXENOの被害を止める対策を検討してくれ」


「いきなり無茶振りするなあ、凱さん」


「そうは言うがな、凱。

 このままでは――」


 未来が、すがるような目で凱を見つめている。

 その気配を悟り、凱は勇次達の言葉を、手をかざして制止した。


「悪いな、難しい話はまた次の機会に頼む」


「う、うむ……」


「みんな、場所を変えよう。

 アークプレイスに戻るぜ」


 そう言うと、凱は四人の少女達の顔を見回した。 







 その夜、愛美は再びアンナローグとなって、ちづるの家を目指した。



 ちづると、もう一度楽しい会話をしたかった。

 交換日記を交わし、日々の想いを伝え合いたかった。

 そして何より、病魔と闘う彼女を勇気付け、少しでも救ってあげたかった。


(お願い……お願いだから、そこにいて、ちづるさん!)


 何度も何度も、心の中で念じる。

 もはやそれ以外、頭に浮かんで来るものはない。

 ステルスモードをONにする事をも、忘れさせるほどに。



 見慣れた住宅街の上空に辿り着き、いつもの家を探す。

 向坂家の二階は、相変わらず雨戸が閉じられていたが、何故か一室だけ開かれていた。

 ちづるの部屋だ。


「ちづるさん!」


ローグは、何の躊躇もなく、その窓の中を覗きこんだ。


「お姉ちゃん!」


 懐かしい声が聞こえてきた。

 暗い部屋の中で、見慣れたパジャマ姿のちづるが佇んでいる。

 まるでアンナローグがやってくるのがわかっていたかのように、あらかじめ窓の方に視線を向けていた。

 その声を聞き、愛美の心に、温かなものが広がっていく。


「ああ、ちづるさん!

 良かった!! もう、お会いできないかと思っていました」


「ご、ごめんなさい!」


「いいえ、いいんです!

 ちづるさんがいらっしゃれば、それだけで」


「どうしたの? なんだか、とっても悲しそうな顔してるよ?」


「いえ、そんなことは」


 そう言いながらも、アンナローグは、今にも泣き出しそうな表情だ。


「ご、ごめんね?

 身体の具合が悪くて、しばらく会えなかったから、怒っちゃった?」


 不安げな表情を浮かべ、すがるように尋ねるちづるに、アンナローグはただ、首を横に振るのが精一杯だった。


「今日のお昼に、こちらにお邪魔しました」


「えっ」


 その言葉に、ちづるの表情が変わる。


「お母様にお会いしました。

 それで、ちづるさんの事を……伺いました」


 言葉が詰まりそうになるが、なんとか言い切る。

 

「ほ、本当に、来たの?

 私、眠ってたから気付かなかったよ!

 やだなあ、ママ、起こしてくれれば良かったのに……」


 懸命に明るくおどけようとするちづるの声が、だんだんか細くなっていく。

 俯くその仕草に、アンナローグは、更に言葉を詰まらせた。


「ちづるさん、一つだけ、答えて頂けますか?」


「う、うん、なぁに?」


「ちづるさんは、人を――襲ったことが、おありですか?」


「!」


 アンナローグの、常軌を逸した質問。

 普通であるならば、唐突にそんな事を尋ねられたら、困惑するか苦笑いを浮かべるか、或いは逆に尋ね返すだろう。

 「何故、そんなことを聞くのか?」と。

 それらの反応は、尋ねた本人が一番期待しているリアクションだ。

 だが、千鶴の反応は、そのどれでもなかった。


 言葉を失い、表情が強張る。


(ちづるさん、貴方は、やはり……)


 昼間に未来達が行ったミーティングの内容は、夕方になり、愛美にも伝えられている。

 未来が推測したことは、皮肉にも的中してしまったようだ。


「ちづるさん」


「う、うん?」


「貴方は、私にとって、本当のお友達です。

 私が、初めて自分だけの力で作れたお友達……大切な人でした」


「ど、どうしたの、お姉ちゃん?

 私も、そうだよ? お姉ちゃんが――」


「でも私は、お友達だから。

 お友達だからこそ、これ以上……貴方のことを知りたくない」


「お姉ちゃん?」


 アンナローグの言葉が、二人の間の空気を大きく変える。

 驚愕の表情で後ずさるちづるに、ただ無言で立ち尽くすしかない。

 それが、今の彼女にできる精一杯の反応だった。


「ママが言った事、本気にした?

 ママね、いつもあんななの。

 気に入らない人には、いつも適当なことを言っちゃうんだもん、困っちゃうよ」


 身振り手振りを加え、懸命にフォローを入れる。


「ホントだよ、私、ちゃんと生きてここにいるもん!

 ママには、私からちゃんと言っておくから!」


 千鶴のその言葉が、決定打だった。

 熱い涙が流れる。

 もう、止められなかった。


「貴方が亡くなられているとお母様から伺ったお話を、私、まだ……していません」


「あ」


 会話が、そこで途切れる。

 その瞬間、千鶴の雰囲気が、あからさまに豹変した。

 だがそれでも、アンナローグは恐怖と悲しみを振り切って、懸命に話しかけた。


「ちづるさんが、たとえ何であったとしても、私は……ずっと、貴方の友達です」


「待って」


「でも、出来ることなら、もっと早く、お逢いしたかったです」


「待ってよぅ」



「貴方がまだ生きている時に、逢いたかった」



それだけ言い残すと、アンナローグは、そのまま上空へ飛び去った。

 






「待って! 待って、千鶴!!」


ガシャ――ン!


 衝撃で、食器棚のガラスが割れる。

 おそらく中の食器も、何枚か割れてしまっただろう。


「どうして、お姉ちゃんにあんな事を言ったの?」


「千鶴……お前は、もう、もう人と会う事はできないのよ!

 そんな身体になってしまったのだから!!」


「わかってるよ。

 だから、夜に会ってたのに。

 お姉ちゃんが来るの、楽しみにしてたのに」


 うろたえる母親を追い詰め、千鶴は、益々殺気を漲らせる。


「千鶴、お願いだから聞いて頂戴!

 あなたはね、もう、普通の人じゃないんだから。

 誰かにに怪しまれたら、もうここで生活できなくなるのよ?!」


 その言葉に反応して、千鶴の右手が、突然倍の長さに伸びる。

 ムチのようにしなった腕が、母親の顔面を強く弾いた。


 バキィッ!!


「きゃあっ!!」


 もんどり打って倒れた母親は、千鶴の発する殺気に無理矢理意識を向かされ、一瞬のうちに激しい恐怖に支配された。


「あんなコと、言わなけレバ ヨカタ のに」


「ゆ、許して……ゆるして、ち、千鶴」


 どちゃっ! という鈍い音と共に、千鶴の右腕が更に倍に伸びる。


「お姉ちゃんがおうちのナカに来れば、ヨカったのに」


「千鶴……千鶴、わかったわ、わかったから。

 ごめんなさい、もう、二度とこんなことはしないから! ゆ、許して頂戴……」


「もう、ママ。

 食べちゃウ」


「や、やめて……止めて!

 ママまで、ママまで食べちゃったら、あんた、この先どうやって生きていくの?!」


 完全に腰が抜け、もう立てなくなってしまった母親は、それでも必死の想いで呼びかけた。


 だが――


「それは大丈夫だよ。

 あたし達が、なんとかしてあげるから♪」


 明かりの消えた廊下の方から、もう一人“別な少女の声”が聞こえてきた。


「お母さん?

 千鶴ちゃんはね、もう人間じゃないのよぉ?

 人間を、越えちゃったの♪

 だから、もう人間社会では、生きて行けないの☆

 あたし達みたいに、ね!」


 声の主は、この場にそぐわない異様な明るさで呼びかけてくる。

 その、あまりに場違いな態度が、逆に言い知れぬ程の不気味さを、母親に感じさせた。


 廊下から居間に入り込んできたのは、黒いパーカーをまとった少女だった。

 すっぽり被ったフードのせいで、目元はよくわからないが、この状況下で明らかに笑っている。


 少女は、親しげに千鶴の肩に手を置き、寄り添いながら話しかける。


「ねえお母さん?

 お父さんが持ってきたカプセル、見つかったぁ?」


 その質問に、母親は、震える手でキッチンのテーブルを指差した。

 そこには、蓋の開いた半透明の円筒型のケースが置かれている。

 それを見た少女の目が、フードの奥で赤く煌いた。


「よかったぁ、これこれ!

 ありがとうね、お母さん♪

 お礼に、命だけは助けてあげるよ。

 ――このまま、ずっと誰にも言わないでいたら、だけどね」


 最後の一言に、強い殺気を込めて威嚇する。

 もはや、母親は完全に怯え切り、何も言えなくなってしまった。

 そんな母親を、既に人間とは思えないような獰猛な目で睨みつけると、千鶴は黒いパーカーの少女の方を向いた。


「ねえ、千鶴?

 あんたが入ってたコレ、見つかったから!

 もう、この家に居る必要、なくなったねぇ~」


「そ、そんな……」


 恐怖に震えながらも、母親は、少女の言葉を否定しようとする。

 だが、当の本人は、



「お姉ちゃんが来れば……お姉ちゃんが、来てクレたら。

 おいシク 食べラレタのニイィィィいぃぃぃいいイイ!!!!」



 千鶴の声は、もはや、彼女のものではなくなっていた。

 野獣の咆哮にも似た、おぞましい怪物のそれと化している。

 その雄たけびを聞いていた黒いパーカーの少女は、満足そうに頷くと、携帯電話を取り出した。






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