【疑問】


 アンナパラディンとアンナローグは、西新宿・東京都庁の第一本庁舎、北側の屋上ヘリポートに降り立った。

 地上243メートルの高さから見下ろす大都会の夜景は、息を呑む程に美しく、アンナローグは改めて目を奪われた。


「追いかけるのに苦労したわよ。

 インフラビジョン(熱源探知)がなかったら、追いつけなかったわ」


 いつものように、事務的でやや高圧的に言い放つ。

 アンナパラディンの言葉は、今のアンナローグには、いつも以上にきつく感じられる。


「本当に、申し訳ありません」


「あなたにもしもの事があったら、蛭田博士、責任を感じて押しつぶされちゃうかもしれないわ」


「そ、そんな!」


「ブレイザーも、心配してさっきまで付いて来てくれてたのよ。

 あなたが思っている以上に、皆に心配をかけている事を自覚しなさい」


「はい……わかりました」


「あの家に、知り合いがいるの?」


 自分から何も言おうとしないローグの態度を見越してかパラディンは単刀直入に尋ねる。

 アンナローグは、覚悟を決めたように、はっきりと答え始めた。


「はい。

 ちづるさんといって、小学生の女の子なんです。

 でもお病気なので、ここ数日はお会いしてないんです」


「そうなの」


 小学生の女の子と聞いて、アンナパラディンは少しだけ頬を緩ませる。


「私達、いろんな事をお話したんです。

 好きな事とか、趣味の事とか。

 ちづるさんは、私に色々な事を教えてくださいました」


 悲しそうに俯きながらも、真剣に想いを語る。

 そう、自分にとって、ちづるはもうただの友達ではない。

 これまで一度も口にした事がない「親友」という言葉。

 たとえるなら、それが一番近い表現なのだろう。

 そんなことを、思った。



「心配する気持ちはわかるわ。

 だけど、どうしてその子に、アンナローグの姿のままで会っていたの?」


「あ、あの、それはつまり……」


「あれだけ蛭田博士に言われたのに、忘れてたの?

 他の人に見られてはいけないって」


「す、すみません」


 静かに、しかしはっきりと言い放たれる未来の叱咤に、返す言葉もない。 

 ただ押し黙るだけのローグに、アンナパラディンは、目を細めてゆっくりと語りかける。


「私達、アンナセイヴァーの存在は絶対に秘密でなければならない。

 その理由が、まだ呑み込めていないようね」


「申し訳ありません」


「もう、夜に会うのは止めなさい」


「え……」


 彼女にあえて視線を向けず、遠い空を眺めながら呟く。

 ふぅと息を吐き出すと、アンナパラディンは、まるで独り言を呟くように話す。


「明日、一緒に行ってみましょう」


「えっ?」


「交通手段、わからないでしょ?

 私が一緒に行くから、明るいうちに、堂々とお見舞いに行きましょう」


「未来さん……」


 思わず、コードネームで呼ぶのを失念してしまう。

 てっきり、もっと叱られると思っていたのに。

 アンナローグは、思わず泣き出しそうになった。


「は、はい! ありがとう……ございます」


「何も、泣く事はないでしょう。もう」


 堪えたつもりが、零れてしまったようだ。

 突然の涙に少しだけ慌てたアンナパラディンは、咄嗟に、アンナローグの頭を撫でた。


「……」


「今日は、もう帰りましょう」


「は、はい!

 ありがとうございます! ありがとうございます!!」


 地上243メートルで行われる、秒速五回の高速お辞儀。

 弱り顔のパラディンは、ポリポリと頭を掻きながら、夜空を見上げた。


「あの、パラディン」


「どうしたの?」


「この、とても綺麗な夜景なんですけど」


 アンナローグは、足元に広がる無数の光を見つめながら、静かに囁く。


「この光のあるところに、それぞれ沢山の人がいるのですね?」


「そうね。

 だけど、光が見えないところにも、実際は沢山の人が生活しているのよ」


 そう言いながら、ローグの肩に手を置く。

 アンナローグは、はっとしてアンナパラディンの顔を見上げた。


「明るいところにも、暗いところにも、それぞれ違う形で人々の生活があるわ。

 私達は、その全てを知ることは出来ないけど。

 それでも、こんなに広い人々の世界を、守らなきゃならないんだって、私は思う。

 ――アンナセイヴァーに、なった以上は」


「アンナ、セイヴァー……」


「今はまだ、ピンと来ないかもしれない。

 でもね、ローグ。

 自分がやるべきことが、いつかわかる日がきっと来るわ」


「……」


 遥か上空から見下ろす景色は、地上に星があり、空には見えない。

 かつて良く見ていた夜の景色と真逆の光景が、今の視界に広がっている。


 アンナローグは、なんだか言葉では言い表せない、不思議な気持ちに包まれた。






 一方その頃、アンナブレイザーは、二人が去った後の“向坂家”付近に留まっていた。

 場所は、あの街灯の真下。

 凱から借りたジャケットを羽織り、メイド服姿を隠しながら、静かにその場に立ち尽くしていた。

 視界の端に、デジタル表示の時計が表示されている。


(そろそろ、犯行時刻か)


 この時間になると、この小路周辺の人通りはほぼ皆無だ。

 また周囲の家も、明かりが殆ど消えている。

 まさに、この街灯だけが唯一の明かりとなり、ライトの照らし切れない所は完全な闇だ。

 アンナユニットに搭乗しているとはいえ、アンナブレイザーのマーカーカメラも、街灯の方に照度が合わされているため、暗闇部分を暗視することは出来ない。


(絶好のスポットライトじゃん。

 こんなところで不意に襲われたら、何の対処もできねぇよな)


 と、そんな事を考えていた時。

 突然、真上から何かが猛スピードで落下して来た。


「?!」


 咄嗟に側転し、“何か”の強襲をかわす。

 だが、左側頭部から背中にかけて、何か硬いものが掠ったのを感じた。

 ガンッ! という、鈍い打撃音が鳴り響き、衝撃が身体に伝わる。


「い、いきなり来やがった?!」


 反射的にかわすのが精一杯。

 慌てて身を翻すも、攻撃を加えた“何か”の姿は、結局全く視認することが出来なかった。

 気配も、もはや感じ取ることが出来ない。


「まさか、一瞬で逃げ切った……?!

 ウソだろ?!」


 あまりに素早すぎる撤退に、アンナブレイザーはただ呆然とするしかなかった。



 後に判明した事だが、謎の不意打ち攻撃によるアンナブレイザーのダメージは、幸いにもほぼゼロだった。

 少々外装に細かい傷が入りはしたが、簡単に修復出来るものだ。

 無論、搭乗者のありさにも、何の影響も及んでいない。


 だが凱のジャケットは、右肩から背中にかけて大きく裂けてしまっていた。









「……で、最後に、ここか」


 モニタ上に展開した地図に赤い丸マークをつけ、凱は、ふぅとため息を漏らした。


 七つの丸と何本もの線の記された地図は、豊島区目白のものだ。

 凱は、注意深くそれを見つめ、再び難しそうな表情を浮かべる。

 これは、前回出現したXENO“サーベルタイガー”により、被害者が出た地点を示したものだ。


 一見、何の法則性もない点と線だが、凱は、何かが引っかかって仕方なかった。


「どうも、奇妙なんだよなあ」


「何がですか?」


 舞衣が、顔を近づけながら尋ねる。

 

「この七箇所のポイントなんだけどな。

 最初は、ただサーベルタイガーの行動範囲がランダムなんだとばかり思ってたんだが。

 この、四箇所を見てくれ」


 そう言いながら、凱はマウスを操作し、画面の一部をくるりと囲むようにカーソルを動かした。


「言われてみれば、この四箇所だけ、妙に集中していますね。

 こうやって囲むと、ここだけ緩い円のようになりますし」


 舞衣が手を伸ばし、凱の手ごとマウスを動かす。

 重心が動いたため、凱は、咄嗟に舞衣の腰を支えた。 

 「あんっ」という、短い嗚咽の声が漏れる。


「一件目が、目白五丁目23番、二件目が目白四丁目23番、三件目が同じく34……。

 一番離れてるのが、西池袋四丁目か。

 舞衣、サーベルタイガーの元ネタは、野良猫って分析だったよな?」


「ええ、そうです」


「野良猫のおおまかな活動範囲は、だいたい500メートルから一キロ弱くらいだ。

 現場地点が、目白四丁目から五丁目にかけて集中しているのは、猫(オリジナル)の習性を見込めば、さほど違和感はない範疇だな」


 そう呟きながら、凱はまたマウスを操作する。

 舞衣の左腕が肩にかけられ、大きな胸の感触が、凱の右胸に押し付けられる。

 薄布一枚だけを隔てて伝わるぬくもりに、凱は、平静さを保つのが聊か苦しくなり始めた。


「そうなると、この目白四丁目23番付近にだけ、四箇所も集中しているのは、違和感がありますね」


「ああそうだ。

 参ったな、こうやって見直していくと、おかしな事がどんどん出てくるな」


 神出鬼没で暗躍する、サーベルタイガー。

 通常は普通の猫に擬態し、広範囲移動かつ狭い箇所への潜入もこなし、その上獲物を襲う瞬間にだけ正体を現すため、発見には非常に困難が伴った。

 こんな厄介な存在であるサーベルタイガーに散々振り回されたため、メンバーは無意識に、この界隈の事件を全て一つに結び付けて捉えてしまっていた。

 それが仇となり、発生地点のムラまでは気が回っていなかったというのが、正直なところだ。

 

「その上で、昨日のここか」


 凱が指し示した地点を、ストリートビューで開く。

 そこは、夕べ調査の為に舞衣達が出向いた、あの街灯のある場所だった。

 集中している四箇所のエリア内に、しっかり含まれている。


「やっぱり、あの場所も……」


「お前の言った通り、あの場所はヤツにとって、絶好の狩場になるかもしれないな」


「どうしましょう、お兄様……」


 舞衣が、凱に抱きつく。

 怯える彼女の頭を優しく撫でながら、凱は、耳元でそっと囁いた。


「今夜は、未来とありさちゃんが現場検証に行ってくれている。

 あの子らに任せて、今日はもう休もう。

 悪かったな、こんな遅い時間までつき合わせて」


「そんな、大丈夫です。

 私、もっとお兄様の手助けをしたいですから」


「ありがとな、舞衣。

 でも、しっかり休むのも任務のうちだぞ」


「わかりました……」


――チュッ


 凱の頬に、温かな感触が伝わる。


「あっ、こら」


「ふふ♪

 お兄様、じゃあ、そろそろ」


「そうだな、じゃあ先に、ベッドに――」


 そう言った瞬間、机の端に置かれた腕時計から、コール音が響いた。

 文字盤には、蛭田勇次からの通信と示されている。

 凱は舌打ちをすると、膝の上からそっと舞衣を下ろした。


「なんだ、こんな時間に?」


 出来るだけ怒りを露にしないよう、声を抑える。

 しかし、向こうはかなり焦った様子だ。


『凱、今すぐ地下迷宮(ダンジョン)に来れるか?』


「はぁ?! 俺は、これから寝かしつk」

『アンナブレイザーが、XENOの襲撃を受けた!』


「なに?!」


 腕時計を掴みながら、寝室のドアの前に立つ舞衣を見つめる。

 とても悲しそうな表情を浮かべる彼女に、凱は申し訳なさそうに呟いた。


「ごめん、舞衣。

 ちょっと行ってくる、お前は先に休んでてくれ」


「――わかりました」


「何かあったら、お前達の協力が必要だからな。

 今はとにかく、少しでも身体を休めておいてくれ」


「はい、お兄様」


 白いネグリジェ姿の舞衣を抱き寄せ、額に軽くキスをすると、凱は大急ぎで部屋を飛び出していく。

 取り残された舞衣は、辛そうな顔で、手近な壁をポンポンと叩いた。




 地下迷宮(ダンジョン)に駆けつけた凱に伝えられたのは、アンナブレイザーの報告内容と、破損したジャケットの悲劇だった。


「うわぁ……これ、苦労して買ったのになあ」


「ご、ごめん、凱さん! 弁償するよ!」


 申し訳なさそうに頭を下げるありさに、凱は慌てて首を振る。


「いや、それはいいんだ。

 とにかく、無事でよかったよ」


「そのジャケット、ユニコロの特売で買った奴じゃなかったか?

 しかもサイズ間違えた奴」


「良く覚えてたな、勇次!」


 二人の妙な掛け合いに、ありさはつい吹き出してしまった。



 アンナブレイザーの視覚映像が、早速その場に居る主要スタッフによって確認された。

 しかし、回避行動によるブレが大きく、何が起きたのかは全く確認できない。

 

「なんか、自分の見ていたのを後から他人に見られるのって、なんかヤダなー」


 ブツブツ文句を言うありさに、凱は笑顔を向ける。


「まあまあ。状況が状況なんだし、仕方ないって」


「しかし、襲撃者の方を殆ど見ないでかわしてるみたいだね。

 ありさちゃん、殆ど野生の勘で避けてるじゃん、凄い!」


 今川が唸りながら画面を注視する。


 アンナブレイザーの装甲表面に付いた僅かなかすり傷と、凱のジャケットの裂け方、そして立ち位置を計算し、襲撃したものは、本当に真上からほぼ垂直に落下して来ただろう事が確定した。

 だが――


「ちょっと待って!

 あたしの頭の上、あの電灯があったよ?!」


「ありさちゃん、街灯」


「あ、それそれ。

 真上からなんて、絶対無理じゃん!」


「あ」


 勇次と凱、そして今川は、思わず顔を見合わせた。

 街灯の高さは、4.5メートルから5メートルという設置基準があり、ここの物も当然それに準拠している。

 ありさ及びアンナブレイザーの身長は160センチ。

 

「ってことは、XENOは、たった3メートル以内の高さから襲い掛かったってこと?!」


「うそだぁ!

 だって、そんな近くに接近したんなら、いくらなんでもわかるでしょ!」


 今川とありさの言葉には、勇次や凱も頷くしかない。

 街灯が破損したような様子もない以上、XENOは、アンナユニットの各種センサーに反応しないまま超至近距離まで接近し、急襲したことになるが、物理的に無理があるのは自明の理だ。


「テレポートでもしたんじゃないのか? XENOは」


「もしそうなら、もはや我々には対処のしようがない。

 だが――もし仮に、それ以外の可能性がないというなら、それを前提とした策を講じる必要が生じるな」


 勇次の言葉は、その場の全員の総意だった。 








 翌日。



「ここで間違いない?」


「はい、そうです」


 不安げな表情を浮かべ、愛美は“その家”の玄関前に立ち尽くした。


 午後二時。

 夕べの約束通り、愛美は未来と共に、ちづるの家を訪問した。


 こんな時間に訪れるちづるの家は、夜に見ていたものとはまた違った雰囲気を感じさせる。

 日中でもさほど人通りの多くないこの住宅街は、小綺麗ではあるものの、どことなく寂れたような印象が否めない。

 この家も、古い造りのせいか、あまり生気の感じられない寂しげな様子がある。

 小さな庭や塀の上には、鉢植えやプランターが並べられ、手入れも行き届いているようだ。


 「えっ」


 二階を見上げた愛美は、吃驚した。


「どうしたの?」


 心配そうに、未来が尋ねる。

 愛美は、震える手で二階を指差した。


「そ、そんな、どうして?!」


 二階の全ての窓は、分厚い雨戸で閉ざされている。

 勿論、ちづるの部屋も例外ではない。


「本当にこの家なの?

 昼間だから、間違えたんじゃないの?」


「いえ! 間違いありません!

 あの窓の手すりに、私は交換日記を置いていたんです!」


 隣に立つ未来は、まるでその光景をすべて目に焼き付けるかのように、じっくりと観察する。

 一方の愛美は、もうすぐちづるに会えるという気持ちを無理矢理に奮い立たせ、軽く頭を振った。


「とりあえず、行きましょう」


「は、はい」


 チャイムを押して、しばらく待つ。

 しばらく待つが、何のリアクションもない。

 未来が再度チャイムを押そうとした瞬間、ゆっくりと、玄関のドアが開いた。


「どなた?」


 中から出て来たのは、中年の女性だ。

 ずいぶんと生気のない顔で、まるで幽霊のような印象を覚えさせる人物だ。

 その、独特の気配に気圧されながらも、愛美は丁寧に頭を下げて挨拶した。


「突然申し訳ございません。

 私達は、こちらのお嬢様の知り合いの者なのですが」


 怪訝な表情を浮かべる女性の雰囲気を察し、未来が愛美に先んじて名乗り出る。

 だが、女性は彼女の言葉にカッと目を見開いた。


「む、娘?」


「はい、ちづるさんの。

 私は付き添いですが、この千葉愛美が、いつもお嬢様と仲良くしていただいておりまして」


「こ、こんにちは、初めまして!

 ちづるさんの、お母様でしょうか!

 わ、私、千葉愛美と申します!」


 ややこわばった表情のままで、無理矢理明るい口調で挨拶する。

 だが女性は、未来の言葉の直後から、身体をガタガタ震わせていた。

 その様子に気がつかないまま、愛美は更に続ける。


「実は、最近ちづるさんとお会い出来ないもので、心配しておりました。

 もしかして、お加減が優れないのかと思ったのですが、お見舞いにと思いましt――」


「か、帰ってください!!」


 愛美の言葉を遮るように、女性は怒鳴りつけると、バタンとドアを閉めてしまった。


「えっ?! ち、ちょっと待ってください!」


 あまりに予想外な態度に、愛美は、閉じられたドアにすがった。


「あの、夜遅くに会いに来ていた事はお詫びいたします!

 ですが、ですが、ちづるさんが心配なのは本当なんです!

 お願いですから、どうか―――」


『うちに娘などおりません! 何かの間違いです!』


 固く閉じられたドアの向こうから、異常に高ぶった女性の声が響く。

 その言葉に、二人の顔が強張った。


「そんな! 私、ずっとこちらでお会いしてたんです!

 あの窓で!」


 思わず声を荒げ、ちづるの部屋の方を見上げる。

 だが、そこは先程も確認したように、鉛色の雨戸によって完全に閉じられている。

 愛美の心の中に、焦燥と混乱、そして猛烈な悲しみの気持ちがこみ上げてきた。


「そんな事って……そんな事って!

 いったい、どうしてですか?!」


 自分でも信じられないくらいの大きな声を出しながら、愛美は、玄関のドアを両手で叩いた。

 すがるような気持ちで、必死に中の女性に呼びかけるが、もう何の反応もない。


「お願いです、ちづるさんに会わせてください!

 ちづるさんに、ちづるさんに、せめて一言伝えたい事があるんですっ!!」


「愛美、もうやめなさい」


 なおもすがろうとする愛美の両肩に、未来の手が置かれる。

 ゆっくりと、しかし力強く愛美を引き剥がすと、未来はドアの向こう側に声をかけた。


「すみません、こちらの思い違いだったようです。

 大変失礼致しました」


「未来さん!」


「いいから、ここは退きなさい」


 無理矢理外へと引っぱり出すと、未来は、小路から不思議そうに覗き込んでいる男性に一礼した。


「待って、待ってください!

 ちづるさんが、ちづるさんが!!」


 なおも食い下がろうとする愛美に向かって、近所の人と思われる初老の男性が、ぼそりと声を掛けてきた。


「あんた達、ここの千鶴ちゃんと知り合いだったの?」


「はい、そうです」


 とりあえず、取り乱している愛美に代わり、未来が返答する。

 すると、男性とその妻らしき中年女性が姿を現した。

 腕にはとても可愛らしい子猫を抱いており、やがて話に加わってくる。


「向坂さんの所の千鶴ちゃんでしょ?

 そりゃあんた、あの子はもう、ここにはいないよ」


「いないって、何処かへ行かれてるんですか?」


 未来が、平静な表情で夫婦に尋ねる。

 そんな彼女に、二人は、一瞬顔を見合わせてから語り出した。


「あの子ね、先月、亡くなったんだよ」

「急だったもんねえ、本当に可哀想にさぁ」


 女性の腕の中の子猫が目を開け、未来達をじっと見つめて「にゃーん」と鳴いた。

 





 呆然と虚空を見つめたまま、愛美は、未来に強引に手を引かれ、近くの寂れた公園までやって来ていた。

 向坂家の女性……恐らく千鶴の母親だろうが、彼女の言葉と、近所の人達が教えた事実は、確かに繋がった。

 と同時に、愛美の心には、とてつもなく大きなダメージが残った。


 ちづるが、死んだ?


 ちづるが、いない?


 しかも、一ヶ月前?


 深い悲しみがあったが、それ以前に、情報が整理出来ない。

 言葉を紡ぐ事も忘れ、愛美は、潤んだ瞳で少し曇り出した空を見つめた。



「先月に亡くなられたなんて、どういう事なの?」


 さすがの未来も、状況がうまく呑み込めないようだ。


 その後、向かいの家に住む夫婦から詳しい話を聞いた。

 向坂千鶴は、長年子供が出来なかった向坂夫婦が、やっと授かった一人娘だった。

 しかし生まれつき身体が弱く、いつも両親か母親と共に、病院に通ったり、時には入院もしていたという。

 それでも、精一杯元気で明るく振舞うため、向かいの夫婦もとても彼女を気に入っていた。

 また、夫婦の飼っている猫とも仲良しで、よく家に遊びに来ては遊んでいったらしい。


 だが先月、千鶴は急に体調を崩してしまい、そのまま――

 両親は彼女の死を大変悲しみ、その泣き声や呻き声は、夫婦の家にまで聞こえてきた程だったという。


 明らかに、愛美の話とかみ合っていない。

 しかし、向坂の母親の態度を見る限り、彼らの証言が嘘だとは到底思えなかった。



 愛美が嘘をつかない性格だという事はよくわかっているし、第一嘘をつく必要がない。

 これは、存在しない友人を作り上げての一人芝居や、虚言壁では決してない。

 それだけは、深く確信していた。

 だが少なくとも、現実と愛美の認識が大きくずれていることだけは、疑いようがない。



「ちづるさんは、間違いなく生きて……ちゃんと普通に生きていました!

 間違いありません!!」


 未来の呟きが耳に届いたのか、愛美が反論する。

 泣き声が混じり、かなり聞き取りにくいが、愛美はこれ以上ない程真剣な面持ちで、懸命に訴える。


 そう、あんなにしっかりと、はっきりと言葉を交わし、プレゼントも交換日記もしていたのだ。

 そんなちづるが、死んでいる訳がない。

 愛美の脳裏に、ちづるの姿が浮かぶ。

 にっこりと、あどけなく微笑む優しい表情を思い浮かべる彼女の姿を。


「愛美、もう少しだけ、私に付き合って」


 突然、何かを思いついたように未来が呟いた。






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