【潜入】

 井村邸。

 この館は、その存在を知るごく一部の者達によって、そう呼称されることがある。


 館には全部で六人の人間が住んでおり、そのうち五人が家政婦である。

 主人である“井村依子”の下、


 赤坂梓

 青山理沙

 元町夢乃

 立川もえぎ


 そして、千葉愛美。


 この五人のメイド達が住み込みで勤務し、井村依子の生活を支えている。

 病に臥せり、寝室に篭り切りになってしまっている依子に、メイド達は献身的に奉仕に努めている。


 愛美は、この館で働き始めて、もうすぐ一年になろうという新人だった。


 彼女が館に来て最初の半年ほどの間は、依子は今よりも体調が良く、庭に出る機会も多かった。

 また、彼女を訪ね遠方から来る客の数もそれなりに多く、メイド達はその対応に追われることも多かった。


 依子がどういう経緯でこんな所に、身寄りも置かずに一人で住んでいるのか、愛美には細かい事情は全く知らされていない。

 また、彼女の許にやって来る客人達の素性も、何もかも知る由はない。

 それでも、気品があって誰にでも優しく接する依子はメイド達にとても好かれており、愛美も彼女の人柄に尊敬の念を抱いていた。


 だが、それも――





 懐中電灯を持って外から二階の窓を照らしたが、特に異常は見当たらない。

 続けて二階に向かった愛美は、凱の部屋のドアに鍵がかかっていることを確認した。


(気のせい……だったのかな?)


 小首を傾げながら階下に戻ろうとする愛美の前に、突然何者かがひょこっと姿を現した。


「愛美?」


「あ、もえぎさん!?」


「あんた、まだ寝てなかったの?

 明日辛いよ?」


「もえぎさんこそ、こんな時間にどうなさったんです?」


「うん、ちょっとラジオをね。

 ここだと、それくらいしか楽しみないからさー」


「そ、そうですか」


 彼女が、聞こえ難いラジオに文句を言いながら、様々な場所に移動して聞こえやすい所を探索していたことを思い出す。

 恐らく小腹が空いたので、夕飯の残り物をつまみに部屋を出てきたのだろう。

 もえぎらしい、いつものことだと納得した愛美は、先ほどのことを伝えた。


「マジで?! じゃあアイツ、何処行ったわけよ?」


「いえ、もしかしたら私の気のせいかもしれないので、まだなんとも」

 

「盗撮だよ、盗撮! ここ、女しかいないじゃん?!

 きっと、隠し撮りしようとしてんだよアイツ!」


「と、トウサツって、何ですか?」


「そ、そこからか……

 あのね、男が、女の子のえっちな姿をナイショで撮影したりすること」


「ええっ?! それって、いかがわしい事なのではないでしょうか?」


「ガチいかがわしい事だし、犯罪だよ!

 ケーサツ来るよケーサツ!」


「ひえっ! あ、あの方がそんな悪いことを!?」


「まだわからんけど、もし本当にそうだったら、捕まえてとっちめよう!」



「誰を、捕まえるって?」



 突然、男の声が割り込む。

 見ると、いつの間にかドアが開かれ、眠そうな顔つきの凱が覗き込んでいた。


「へ?」


「が、ががが、凱さん?!」


「なんか話し声がするからさぁ~。何かあったの~?」


 思わず両手で口を塞ぐもえぎと、ぶんぶん手を振って誤魔化そうとする愛美。


「い、いえいえ、何もないです!

 た、大変失礼いたしました!

 も、もえぎさん、参りましょう!」


「あ、ちょ、ちょっとぉ!」


 もえぎの手を掴み、愛美は慌ててその場を離れた。

 その様子を窺っていた凱は、ドアを閉めると、フゥと息を吐いた。


(やべぇやべぇ、思ってたより勘が鋭いな、あの娘)


 半開きになった窓を閉じ、足首に装着していたベルト付きの機械を取り外すと、凱は先ほどのソファーにどっかと腰を下ろした。









 翌朝、午前6時。


 既に起床したメイド達は、朝の仕事を始めていた。

 一階の食堂には、愛美ともえぎ、夢乃、そして先輩の理沙が集っていた。

 恒例の朝礼だ。

 一番の先輩である梓が、今朝に限って姿を見せていないことに、愛美は疑問を覚えた。


 おはようございます、と全員が声を揃えて挨拶すると、理沙が一歩前に出る。

 何故か愛美ともえぎをジロリと睨みつけ、不機嫌そうな声で話し出す。


「昨日の夜、飛び込みで入って来た男性客。

 幸い、本日は天候も良いみたいなので、早急に山を降りるように促すこと。

 ――愛美、あんたの仕事よ」


「は、はい! 分かりました」


 毎度のように、きつい口調で指示を出す。

 これのせいで、愛美は、毎朝良い気分になれた試しがない。

 理沙は、続けてもえぎと夢乃にも指示を出し、次に自分の仕事を説明する。

 当たりはきついが、仕事に対する姿勢は真面目かつ的確なものがあり、愛美は、そこについては理沙に敬意を抱いていた。


 朝礼が終わり、朝食の準備を開始というタイミングで、食堂入り口のドアが開かれる。

 目を向けたメイド達は、揃って感嘆の声を上げた。


「奥様!」

「えっ?! 奥様?!」

「奥様!! お、おはようございます!」

「……」


 入り口に姿を現したのは、梓が手押す車椅子に乗った、初老の婦人だった。

 パジャマ姿ではなく、最近には珍しく普段着を身に着けており、少し調髪や化粧も施したいるようだ。

 やせ細り、お世辞にも健康そうとは云えない顔色と姿勢は、メイド達の不安を煽る。

 だがそんな様相に反し、婦人は、凛とした張りのある声で呼びかけた。


「おはよう、みんな。

 今日はとてもいい天気ね、清々しいわ」


「お、奥様、お部屋から出られて、大丈夫でしょうか?」


 心配そうに、夢乃が尋ねる。

 その横では、何故か腕組をした理沙が無言で佇む。

 メイド達に力ない微笑みを向けると、婦人は続けた。


「私は、大丈夫です。

 ――いえ、今は、そうとは言えないかもしれないわね」


「……?」


「皆も知っている通り、今夜は、私達にとって大事なことがあります。

 午後十時になったら、全員、私の寝室に集まって頂戴」


 婦人の言葉に、全員が姿勢を正す。

 しかし夢乃ともえぎ、そして愛美は、その言葉に更なる疑問が膨らんだ。


「あ、あの、奥様?」


「何かしら、もえぎ」


「今夜、いったい、何があるんでしょうか?」


 もえぎの質問は、三人のメイド達の総意であった。

 おおまかな予定だけは聞かされていたものの、具体的な内容は全く知らされていない。

 咄嗟に理沙が言葉を挟もうとするが、婦人は手を掲げ、それを制した。


「そうね、そろそろ説明しても、いいでしょう」


「奥様、それは――」


「構いませんよ、理沙。

 ねえ? 梓」


「そうですね」


 背後に立つ梓に少し顔を向けると、婦人はやや上機嫌気味に語り出した。


「皆が知っての通り、私は重い病気を煩っています。

 この地で療養をと思い、これまで静かに生活を送りましたが……

 私は、残念ながらもう長くはありません」


 その言葉に、愛美達は驚愕した。

 否、心のどこかで、誰もが予想していた「いつかは聞くだろう言葉」ではあった。

 だが、とはいえ。


 咄嗟に言葉を紡ごうとする愛美達よりも早く、婦人は続ける。


「だけどね、安心して頂戴。

 私は今夜、新しい人生を歩み出すのです」


(……?)


 婦人は、とても晴れ晴れとした表情で、更に続けた。


「あることから、私は、今の自分を変える方法を知ることが出来ました。

 そうすることで、この病気とも、この醜く衰えた肉体とも、永遠に決別することが出来るのです」


「え? あ……それって」


「もえぎ、黙って」


 理沙の短い一喝で、言葉が止められる。

 愛美は、元気そうに話す婦人の様子にはじめこそ安堵したが、同時に言い知れぬ不安を感じ始めてもいた。


「あなた達には、日々とても感謝しています。

 だからこそ、これからも……そう、これからも、私はあなた達と共に、ここで生活を続けたいと思っているのです。

 そう、それは、私達にとっての、新しい生活!

 それについて、今夜、皆に伝えたい話があるの。

 きっと皆は、理解を示してくれると私は信じているわ」


 声高にそう告げると同時に、咳き込む。

 梓が、咄嗟に彼女の背をさすった。


「お、奥様――」


「ちょっと、しゃべり過ぎたみたいね。

 梓、悪いけど、お願い」


「かしこまりました」


 更に軽く咳き込むと、婦人は梓に促し、食堂を退出しようとする。

 その姿を見つめ、愛美ともえぎ、夢乃と理沙は、それぞれ複雑な表情を浮かべていた。


「詳しい話は、今夜よ。

 だから皆、それまでに各自のやるべきことを、きっちり済ませるように。

 いいわね?」


「は、はい」


 梓の言葉に力ない返事を返す三人と、それに対して何も返さない理沙。

 朝礼は、表現し難い不可思議な雰囲気に包まれたまま、終了した。




 朝食を準備し、まずは凱の部屋へ届ける。

 しかし、ワゴンを押しながら廊下を進む愛美の頭の中では、先ほどの婦人の言葉が繰り返されていた。


(奥様は、いったい、何を言いたかったんだろう?

 私達の、新しい生活って、どういうことなんだろう?)


 いつしか、歩みが止まる。

 廊下の真ん中に佇んだまま、愛美は、答えの出ない問いを、何度も自身に投げかけていた。


「どうしたの、愛美ちゃん?」


「ひぇっ?!」


「ひぇっ、て! さっきから声かけてたのに~」


「え? も、申し訳ありません!

 おはようございます、凱さん!」


「おっはよ~!

 あ、もしかしてこれ、朝飯ですかぁ? あざーす!!」


 飛び上がるような勢いで喜ぶ凱を尻目に、愛美は未だ戸惑いを隠せずにいた。



「ごっそーさんでした! いやー美味かったよ!

 愛美ちゃん、本当にありがとう」


「どういたしまして。

 お口に合って何よりです」


 本当に美味しそうな凱の食べっぷりに、愛美はつい微笑んでしまう。

 そんなひとときが、先の思いを少しだけ洗い流してくれた気がした。


 食器を片付けながら、愛美は、理沙に命じられていたことを凱に伝える。

 

「おおぅ、退去勧告かぁ」


「そういうつもりではないのですが」


「でも、そうだよね。

 いきなり見ず知らずの者が来て一泊させろー、なんて非常識だもんね。

 わかった、準備整えたらすぐここを出るから」


「ご理解頂きまして、ありがとうございます、凱さん!」


 深々と頭を下げる愛美に、凱は、急に真面目な顔つきになって話しかけた。


「急な話ですまないが、愛美ちゃん」


「はい、なんでしょうか?」


「俺と一緒に、ここを出ないか?」


「――えっ?!」


 突然の申し出に、一瞬パニックになる。

 まん丸く目を剥いて驚く愛美の表情に、凱はつい苦笑した。


「そ、それは、どういう意味でしょうか?」


「実は、君のことをずっと捜してる人が居るんだ」


「わ、私をですか?

 いったい、何処に?」


「東京」


「とう……きょう……」


「君のフルネームは、千葉愛美――間違いないよね?」


「どうして、私の苗字をご存知なんですか?!」


 質問には答えず、凱は肩をすくめて「さぁね?」という態度を見せる。


「今すぐ、この場で答えてくれとは言わない。

 だけど、考えてくれ。

 君には、実はとても大事な使命がある。

 そして俺には、それを伝える義務がある」


「お、仰っている意味が、分かりかねます」


 先ほどまでのチャラけた雰囲気が消失し、凱は、まるで別人のような態度で愛美に呼びかけた。

 とても、冗談で言っているようには思えない。

 その時愛美は、朝礼での婦人の言葉を思い出した。


「わ、私にも、ここで奥様のお世話をする義務がございます。

 ですので、凱さんと一緒に東京へ行くことは出来かねます」


「そうか」


「今のお話は、聞かなかったことにいたします。

 では――」


 ワゴンを押し、逃げるように部屋を飛び出す。

 凱は、無言で愛美の後ろ姿を見送った。


(どういうことだろう?

 私に、この屋敷を出ろって……そ、そんなこと、絶対に出来ない!

 でも、どうして凱さんは、そんな話をいきなり?

 私の、使命って……?)


 廊下の途中で立ち止まり、先程の凱の言葉を思い返した。





 一時間後。


「どうも、お世話になりゃーしたぁ!

 本当にありがとうございます!

 ね、ね、山奥のメイド館の出来事、動画ん中で話しちゃダメ?」


「ダメ! いいから、とっとと行きなさいよ!」


「冷たいなあ、もえぎちゃんはぁ」


「馴れ馴れしく呼ばないでったら!」


 玄関口で愛美ともえぎ、夢乃に見送られ、凱は出て行こうとしていた。


「じゃあ、また遊びにくるよ♪」


「いや、それは……」


「じゃあ、今度来る時は手土産でも持って来てよ。

 って、あっそうそう、土産といえば、ハイこれ!」


 そう言うと、夢乃は小さな紙袋を取り出し、凱に突きつけた。


「これ、何? まさか本当にお土産くれんの?」


「あんたが使った部屋の脱衣場に落ちてたもの」


「しまった! 俺のパンツかぁ!」


 二人の掛け合いに、もえぎと愛美は、つい吹き出してしまう。

 そんなこんなで適当な挨拶を交わした後、凱は割と素直に、麓へ向かう道へと向かって行った。

 彼の姿が見えなくなったと同時に、三人は、ため息を吐いた。


「とんだお客だったわね~」


「困ったもんですよ、ホントにもう!

 アイツ、マジで何しに来たのよ」


「でも、これで無事にご帰宅出来るでしょうから、良かったですね」


「愛美、あんたって、本当にお人好しよね~」


「そ、そうなんですか?!」


 しばらく談笑した後、三人は館の中へと戻っていった。

 その途中、夢乃が凱の去っていった方を振り向いているのに気付き、愛美は声をかけた。


「どうされたのですか?」


「え? ううん、なんでもない」


「あの、つかぬことをおうかがいしても?」


「何よ、あらたまって」


「夢乃さん、凱さんと、お知り合いなんですか?」


「えっ? どうして?」


「いえ、何といいますか……初めて会った者同士という気がしなくって」


「昔ね、ちょっとだけ一緒に暮らしてたことがあるの」


「 え え っ ?! 」


 驚きの声があまりに大き過ぎ、夢乃は慌てて愛美の口を手で塞いだ。


「冗談、冗談だって!

 あんなおチャラけ野郎と知り合いなんて、とんだ願い下げだよ!」


「あ、ああ、そうなんですかぁ。

 もう、びっくりさせないでください~」


「びっくりしたのは、こっちだってば」


 玄関ホールでの立ち話を終え、二人はそれぞれの持ち場へと移動を始める。

 井村邸の一日が、本格的に始まろうとしていた。


 だが愛美の心の中には、先程凱に言われた言葉が、何度もリフレインしていた。



『俺と一緒に、ここを出ないか?』



(でも、凱さんは何故、初対面の私にあんなことを……?)







「――もういいぞ。

 光学迷彩、解除」


 館の姿が見えなくなった辺りで、凱は、何もない林の陰に向かって声をかける。

 すると、突然空間の一部が歪み始めた。

 やがて、そこには一台の漆黒の車が姿を現す。

 それはまるで、虚空から湧き出て来たかのようだ。


 周囲を見回すと、凱は素早く運転席側のドアを開け、身を滑り込ませる。

 それを合図にしたかのように、車内各所に配されたモニターや計器、様々な色のライトが点灯した。


“お疲れ様でした、マスター。

 今後の指示を、お願いします”


 車内に、女性のボイスが響く。

 だが、中には凱以外に誰も乗っていない。


 フロントウィンドウが瞬時に暗転し、そこに3Dマップのようなものが表示される。

 それは、先程まで凱が居た館のものだ。

 真上から見たらほぼ正方形、同じく正方形型の中庭を囲むように、東西南北にほぼ同じ大きさの棟が建てられている構造だ。

 凱達が訪れたのは、南側の棟。

 そこから、まるでゲームのオートマッピングのように、空間が北方面に向かって広がっている。

 しかし、東側・北側の棟は、ブラックアウトしたままだ。


「館の内部からは、北と東の棟には行けそうにないな。

 東棟はでっかい扉で入り口が塞がれてたし、西側には別なメイドが近くに常駐しているから、入れやしねぇ」


 マップを指で辿りながら、凱は少し悔しそうに呟く。


「おまけに、北の棟には外側に向いた窓が一切ない。

 南棟以外には、誰も入らせたくないって意図を感じるな」


“南棟廊下と西棟入り口の付近に監視カメラを確認しています。

 ジャマーで、マスターの姿を消した映像情報を送信しました”


「助かるぜ、ナイトシェイド。

 ――さて、と」


 そう呟くと、凱は欠伸をしながらシートを倒した。


「“地下迷宮(ダンジョン)”に、連絡は?」


“蛭田様の方から先に衛星通信が届きましたので、その際に報告いたしました。

 千葉愛美の各種データをご確認頂けたそうです”


「勇次の奴、なんて言ってた?」


“事は早急を要する。

 本日中に、千葉愛美を奪還せよ、との事でした”


「あの野郎、人任せの癖に、エラそーに」


“あと、これを千葉愛美に渡すようにとの事です”


 女性の声がそう言うと同時に、コンソールパネルの一部が自動的に開く。

 窪んだ部分には、薄蒼色の光を放つ、宝石のようなものが入っていた。


「おいおい、ブラックボックス解禁かよ!」


 驚いた表情で、凱はコンソールの中から宝石のようなものを取り出した。

 それは、金色の金属に周囲を覆われた、直径4センチ程度の半球型の宝石――というより、ブローチのようなものだった。

 濃い藍色の宝石の内側には、光の加減で白い模様のようなものがうっすらと見える。


「うまく、渡せるといいんだがな」


 大きさの割にずっしりとした手応えのあるそれをポケットに突っ込むと、コンソールの蓋が自動的に閉じた。


「これを解禁するってことは、それなりの危機感を覚えてるってことか。

 “地下迷宮(ダンジョン)”の連中は。

 つか、いいけどよ。本当に使えるのか、これ?」


“私の装備では、こちらの解析は不可能です”


「ああ悪い、そういう意味じゃないんだ。悪かった」


 疲れたため息を吐き出すと、凱は助手席に置いたリュックから愛用のアイマスクを取り出し、“女性の声の何か”に更に話しかけた。


「よし、今夜再潜入だ。

 行動開始時間は、後でこちらから指示する」


“任務(ミッション)了解”


「ナイトシェイド、もう一度光学迷彩だ。

 そのまま館の監視を続けろ」


“了解。

 変化があれば報告します”


「ああ、頼む。

 悪いが、夜に備えて俺はちょっと寝るぜ」


“Have a good nap.”   


 横たわり目を閉じるのと同時に、黒い車は再び、空間に溶け込むように姿を消した。




 夕刻が過ぎ、夜の帳が降り始める。

 夕食時を過ぎた辺りから、空模様が少々怪しくなり始めたようだ。

 遠くで、雷の音がする。


「奥様の話って、いったいなんだと思う?」


 キッチンの片付けをした後、もえぎが不意に尋ねた。

 皿を収めた棚の戸を閉めた愛美の手が、止まる。


「正直なところ、良くわかっておりません」


「だよね。もしかしたらさぁ、カルト宗教っての?

 そういうところに入信しましょう! みたいな話されるのかなー」


「カル……ト? えっと、お湯で温める」


「それ、レトルト」


「はぅっ?!」


「もしそういう話だったら、あたしココ辞めようかな」


「えっ、そんな!

 私、もえぎさんが居なくなるなんて、絶対イヤです!」


「え? あ、ああ、ありがとう……」


 予想外の反応だったのか、もえぎは顔を赤らめ、恥ずかしそうに頭を掻いた。


「奥様のお話がどんなものか、まずは伺ってみましょうよ。

 きっと奥様は、私達には及ばないような、何か深いお考えがあるのではないでしょうか」


「そ、そうかな~」


 不満げなもえぎだが、彼女の気持ちは理解できた。

 確かに、今朝の婦人の様子は、いつもと違っていた。

 今にも死んでしまいそうなほど、自身の身体のことや病気のことを先日まで嘆いていたのに、今朝は全く正反対の態度だった。

 愛美には、そこまで彼女を急変させる要因が、全く思いつかない。


 約束の時間まで、あと二時間。

 いつもより早くやるべきことを終えたメイド達は、集合時間まで自由にして良いという指示を受け、それぞれの時間を過ごしていた。

 もえぎは自室に戻り、愛美は一人、館の戸締りの確認を自主的に行っていた。

 外は雨が少しずつ降り出しており、時折稲光が周囲を照らす。

 愛美は傘を持ってくると、外に出しっ放しになっている道具などがないかを、点検しようと考えた。


 

(えっと、確か、芝刈り機が)


 今日の昼間、もえぎが芝刈りを担当していた際、理沙に呼ばれて中断していたことを思い出す。

 外に出てみると、案の定、芝生の上に手押し芝刈り機が野ざらしになっていた。

 半身を雨に濡らしながら、芝刈り機を道具小屋に収めた愛美は、勝手口に向かおうとして、はたと足を止めた。


(……車?)


 玄関の方から、車のブレーキ音が聞こえた気がした。

 また急な来客かと、急いで玄関の方に向かうが、そこには変わったものは何もない。


(雨の音で、何かと聞き間違えたのかな?)


 だが踵を返そうとしたその時、今度は明らかに、車のドアの閉じられる音がした。

 改めて玄関前を見るが、強まってきた降りのせいで視界が悪く、はっきりとは見えない。

 車の姿は相変わらず見えなかったが、代わりに、誰かが玄関前に立っているように感じた。

 そう、まるで、突然何処かから現れたかのように。


 その人影は、傘も差さずに愛美とは反対の方向へ走っていく。

 無意識にその後を追おうとしたが、その時、玄関からまた別な誰かが出て来た。

 影しか見えないので、誰かはわからない。

 

(誰だろう? メイド服じゃないみたいだけど?)


 愛美達のまとうメイド服は、脛の中央辺りまで丈のあるロングスカートタイプなのだが、その影はスカートではなくパンツスタイルのようで、両脚の形がはっきり見えた。

 

(も、も、もしかして、どどど、泥棒さん?!)


 慌てた愛美は、助けを求めに、急いで中に戻った。




「――うん、わ、わかった!」


 フンスと鼻息を荒げ、もえぎは、何故かモップを肩に担いで“武装”した。

 梓と理沙は婦人の部屋に篭り切りのようで、とても入り込む雰囲気ではない。

 夢乃は、何処にいるのかわからない。

 頼れるのは、愛美の一個先輩にして大親友でもある、もえぎだけだ。

 ただその本人も、泥棒という言葉にすくんでいるようで、よく見ると脚が震えている。

 愛美は懐中電灯と、何故か長ネギを一本携え、神妙な面持ちで“影の消えていった方角”へ向かうことにした。


 外の雨は、先程より更に強さを増している。

 もはや傘は役に立たず、二人はレインコートを羽織って臨むことにした。

 



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