第1章 アンナローグ起動編

【来訪】


 時計は、午後8時を回った。

 午後から崩れ始めた天気の影響か、今日はいつもより早く暗くなった気がする。

 窓越しに外を眺めていた少女は、束ねた髪のほつれを手で直すと、薄暗い廊下の奥に目線を戻した。


 そこは、山奥に建てられた洋風の館。

 街から遠く離れ、周辺には民家なども全くない。

 明らかに人目を避けるように建てられたようなこの館は、まるで何かの昔話に出てくるような佇まいだ。

 白と黒を基調としたメイド服をまとった少女は、ため息を吐き出すと、誰も居ない廊下を黙々と掃除していく。

 まだまだ先は長い。

 しかし、少女は嫌がるような素振りは見せず、モップの柄を握る手に力を込めた。


「愛美、お疲れ!」


 不意に、視界の端にモップとローラーの付いたバケツを持った、短髪の少女が飛び込んでくる。

 “愛美”と呼ばれた少女は、小さく驚きの声を上げた。


「もえぎさん?」


「手助けに来たよ!」


 何故かモップを横向きに構える“もえぎ”という少女に、愛美は申し訳なさそうな顔を向けた。


「そ、そんな! もえぎさんまで巻き添えにする訳には参りません!」


「何言ってんの水臭い。

 いくら罰だからって、こんなバカ長い廊下を一人で掃除だなんて、ありえないって」


「でも、理紗さんのお言いつけでは、絶対に一人でやれって」


「アイツの言う事、まともに聞いちゃダメだよ。

 第一、難癖じゃんかあんなの。

 ランドリーの棚の補強なんて、絶対言ってなかったって」


「た、確かにそうですけど」


「アイツ、なんかアンタを目の敵にしてるっぽいしさぁ」


「は、はあ」


「とにかく、とっとと終わらせて早く休もうよ。

 明日はホラ、忙しくなるんだしさ」


「……はい、分かりました。

 申し訳ありません、もえぎさん!」


 そう言うと、愛美は90度近い角度で深々と頭を下げた。

 照れくさそうな態度でそれを制すと、もえぎは勢い良くバケツを床に置いた。


「よし、そうと決まれば、とっとと終わらせるよ!

 半分ずつやろうか。

 愛美、どこまでやったの?」


「はい、ホールまで行けばあと半分くらいです」


「えっ?! も、もうそんなにやったの?」


「は、はい!」


「じゃあ、反対側の廊下はあたしやるからね!

 ホールで合流しよう」


「あ、ありがとうございます!」


 もえぎは再びバケツを持ち上げ、廊下の反対側まで移動していく。

 結構な量の水が入っていたのを見止め、愛美は、彼女が本気で手助けに来てくれたことを実感し、感謝した。


 それから十分ほど経った頃。

 玄関前のホールをモップで拭いていた愛美は、突然鳴り響いた音に足を止めた。


 それは、玄関のドアを叩く音だ。

 外は暗いとはいえ、特に雨風が強く吹き付けているわけではない。

 明らかに、誰かが外から叩いている音だ。

 咄嗟に玄関ホールにある大きな柱時計を確認すると、もう午後9時に近い。


(こんな時間に、お客様?)


 ノックに気付いたのは自分だけのようで、もえぎは相変わらず、廊下の向こうで懸命にモップを操っている。

 妙な違和感と恐怖感を覚えながら、愛美は恐る恐る、ドアに近づいた。


 分厚いドア越しに、愛美は“来訪者”に声をかける。


「はい。どちら様でしょうか?」


『あ~良かった! 人が居たぁ!!』


 ドア越しに微かに聞こえてきたのは、妙に明るいノリの男の声だった。

 一瞬呆気に取られたが、愛美は気を取り直して再度呼びかけた。


「あの、こんな時間に、どのようなご用件でしょうか?」


『あっ、あっ! ちょ、良く聞こえないんだけどぉ~』


「え? あ、あの、ですから!

 どーいう、ご用件、で、しょおかー?」


『あー、あー聞こえた!

 すんません、説明するんで、ちょいドア開けてもらっていいですか?!

 ここ、声、すっげぇ聞こえづらいんですよぉ』


 相変わらず不信感が拭えなかったが、話がしづらいなら仕方ない。

 やむなく愛美は、分厚く古めかしい錠を開くと、玄関のドアを少しだけ開けた。

 と同時に、隙間からサングラスらしきものをかけた男の顔が覗く。


「きゃっ?!」


『おぉ! メイドさんだ! しかも可愛い!!』


「えっ? えっ?」


『山の奥のお屋敷に、可愛いメイドさん!

 こりゃまた、二十年くらい前のエロゲーみたいな展開ですなー!』


「?? ???」


 訳のわからない物言いに戸惑い、愛美は思わずドアを閉めようとする。

 だが男は、ハンディカメラのようなものを無理やり挟み込み、それを阻んだ。


『いやすんません! 怪しいもんじゃないんですよぉ!』


「と、とても怪しいのですけど……」


『ひぃ! メイドさんに不審者呼ばわりされた?!

 参ったな、こりゃタイトル変更か?

 “山奥の館でメイドさんに罵倒されてあわや遭難?!”みたいなー』


「え、ちょ……な、何ですか?!」


 戸惑う愛美の声を聞きつけたか、廊下の向こうからもえぎが駆け寄る足音が響く。

 ドアの向こうの男は、一旦カメラを引き下げると、今度は一枚の名詞のようなものを取り出した。


『あ、マジで失礼しました!

 俺、実はこういう者でしてぇ』


 受け取ろうとした瞬間、横から伸びて来た手が名詞を奪い取る。


「YOUTUVER……北条、凱……?」


「もえぎさん!」


「YOUTUVERが、こんな時間にこんなとこで、何してんのよ!?」


『あっ、可愛いメイドさん一人追加っ?!』


 妙にテンションが高い態度を改める様子もなく、“北条凱”を名乗った男は、更に身を寄せようとする。

 片足が隙間に差し込まれ、ドアが閉じられないようにされてる事に、愛美はその時ようやく気がついた。


『実はね、動画の撮影に来たんですよぉ。

 んで、道に迷っちゃって、全然麓に降りられなくなっちゃいましてぇ!』


「動画? YOUTUVEの? 今時ぃ?!」


 いぶかしげな態度のもえぎは、あからさまに怪訝な表情を浮かべて凱を睨む。

 だが愛美は、彼女達が何を言っているのか、全く理解出来なかった。


「んで? ココに来てどうしたいの?」


『た、旅の者です……どうか、一夜の宿を…って奴ですわ!』


「何処の昔話よ!」


「え、え~と、あの……もえぎさん、どうしましょう?」


 予想外の展開に愛美は、先輩メイドのもえぎに意見を求めるしかない。

 ふぅ、と呆れたため息を吐くと、もえぎは「仕方ないなあ」と呟いた。


「先輩達に、伺いを立ててくる。

 悪いけど愛美、この人を待たせておいて」


「え? あ、はい!」


 「すぐ戻る!」 と言うが早いか、もえぎは素早く二階への階段を駆け上っていった。

 心細くなった愛美は、まるで檻の向こうの猛獣を見つめるように、凱へ目線を向ける。


『へぇ、いきなりビンゴ』


「え?」


『あ、いや、こっちのこと』


 凱の口調から、先ほどまでの妙な明るさが、一瞬途絶えた気がした。


 もえぎが戻るまでの間、凱は、ドア越しに愛美へ色々な質問を振って来た。

 いつからここで働いているのか、どんな仕事をしているのか、他に働いている人はいるのか、など。

 愛美は弱々しい口調で、無難な回答を返すしかない。

 あまり外部の人間との接触経験がなかった愛美は、ここから離れたい気持ちを必死に抑えて、凱が勝手に中に入らないように見張り続けるしかない。

 だがそんな彼女の気持ちを察してなのか、凱は無理やりに入ろうとまではしなかった。


 北条凱は、インターネットの動画サイトにて、自主撮影した動画を公開して広告収入を得ている者だと自己紹介した。

 かつては一大ブームでもあった動画サイトの需要は今や薄れて久しい。

 彼のような活動を続けている者は既にかなり減少しているらしいが、その分、一旦注目を集めた時の反響は凄まじいものになるそうだ。

 そんな活動をしていると懸命に説明する凱だったが、あいにく愛美には、その内容の半分も理解出来ていなかった。


 しかし、少なくとも彼が何かしらの悪意を以ってここに来ているわけではなさそうだ、という気配を感じてもいた。


 しばらくして、もえぎが、もう一人のメイドを連れて玄関へ駆けつけた。

 愛美やもえぎより少し背が高く、メイド服では隠し切れないボディラインが特徴的な、セミロングの女性。

 彼女はドアの向こうに居る凱を一瞥すると、何故かニヤリと微笑んだ。


「あ、あの、夢乃さん?」


 恐る恐る見上げるように顔色を窺う愛美に、夢乃と呼ばれた三人目のメイドは、今度は優しい微笑みを彼女に向けて来た。


「愛美、もえぎ。

 この方を、中に入れて差し上げて」


「えっ?」


「よろしいのでしょうか?」


 頭の上にハテナを浮かべてるような二人の後輩に、夢乃はやれやれなポーズを取りながら言った。


「だって、もうこんなに遅い時間よ?

 麓の町まで歩いたって一時間以上かかるんだし、ましてこんな夜じゃあ危険じゃない」


『そ、そうそう! わかってらっしゃる!』


 どこか眠たそうな目つきの夢乃は、ドアの向こうから応援する凱に冷ややかな目線を向けると、愛美の肩をポンと叩いた。


「私から、奥様と先輩達には説明しておくから。

 愛美、掃除は切り上げてこの方をおもてなしして。

 もえぎも、愛美をフォローしてあげてね!」


「は、はい!」


「ありがとうございます、夢乃さん!」


『やったぁ、お宿にありつけたぁ♪ あざーす、あざーす!』


 はしゃぐ凱を中に招き入れると、夢乃は愛美に、使っていい部屋を指示する。

 率先して掃除道具の片付けに向かったもえぎの後ろ姿を一瞥すると、夢乃は未だ不安げな愛美に優しく声をかけた。


「大丈夫、何か変なことをされそうになったら、大声を上げてすぐに逃げなさい」


「えっ?! は、はぁ」


「いやちょっと待って夢乃チャン!

 俺、そういうことする奴に見える?!」


「初対面の人間に、いきなり馴れ馴れしくチャン付けするような人は、気をつけるに越したことないわよー」


「ひ、ひでぇ!」


 夢乃と凱の、妙に呼吸の合ったやりとりに、愛美は思わず吹き出しそうになる。 


 ぐうぅ~……


 そして、続けて鳴り響いた凱の腹の虫の音で、愛美はとうとう耐え切れなかった。





 愛美は、夢乃に教わった二階の客室へ、凱を案内した。

 二つの部屋が連結した構造で、専用の洗面所バス・トイレも付いている。

 更に、ベッドルームは奥の部屋に分けられており、リビングにあたる空間もかなり広い。

 まるでちょっとしたホテルの一室のような、豪華な部屋。

 軽く興奮した凱は、取り出したカメラで早速室内の撮影を始めようとした。


「うっひょおー! こんないい部屋貸して貰えるなんてラッキー!

 あざーす!」


「あ、あの! 撮影は困ります!」


「え? あ、ダメなの?」


「はい、このお屋敷は個人のお宅ですので、その、

 よその方が観られるようなところに出されては……」


「ああ、そうだね、了解」


 愛美の言葉に、凱は素直に従う。

 揉めるかもしれないと身構えていた愛美は、そんな凱の態度に拍子抜けした。


「北条様、とお呼びしてよろしかったでしょうか?」


「ああ、“凱”でいいよ!」


「えっと、では……凱、様?」


「様、はなくて良いって!

 俺、堅苦しいのは苦手でさ」


「あ、はい。では、凱さんと呼ばせて頂きますね」


「想像以上に、物腰が丁寧だなあ、愛美ちゃんて」


「え? あ、ありがとうございます」


 思わぬ言葉に、頬を赤らめる。

 そんな愛美の態度に、凱は思わず微笑んだ。


 愛美は、荷物を降ろしてソファに腰を下ろした凱に向かって、説明を始めた。


 この館は、「婦人」なる人物が所有する邸宅であること。

 彼女は現在療養中で、ここから反対側に当たる一階の寝室で寝たきりになっていること。

 婦人の世話をする為、この館内には、愛美を含めて五人のメイドが住み込み勤務をしていること。

 滞在中は、この部屋のものを自由に使っても良いが、他の部屋には絶対に行かないで欲しいこと。


 それらの事情を告げた上で、更に付け加える。


「何かありましたら、いつでもお声をかけてください」


「はいよ! 愛美ちゃん了解!」


 勢い良く敬礼のポーズを取る凱に、愛美ははにかんだ笑顔を向け、深々と頭を下げる。


「それでは、失礼いたします」


 再び深く礼をすると、愛美は退室する。

 部屋に一人残された凱は、ふぅ、と息を吐くと、しばしの間を置き、廊下へのドアを開けた。

 廊下に誰も居ないことを確認すると、剴は腕時計を口元に寄せる。


「――今のが、“千葉愛美”だ。

 ナイトシェイド、そこからトレス出来るか」


 凱の言葉に反応するように、腕時計の文字盤に『OK』の文字が浮かび上がった。




 三十分程して、愛美は凱の為に作った料理をワゴンに載せると、廊下に出ようとする。

 そこに、もえぎが姿を現した。


「愛美、わざわざご飯まで作ってあげたの?」


「あ、はい!

 凱さん、お腹が空いておられるようでしたので」


「なに、いきなり親しげな呼び方になってんの」


「ち、違います!

 これは、あのお客様のご要望で……」


 顔を真っ赤にして否定する愛美をジト目で見つめると、もえぎはハァと息をついた。


「まぁいいけど、あんな怪しい奴に、そこまでしてやらなくてもいいじゃん。

 朝になったら、とっとと追い出してさあ」


 そこまで呟いた時、不意に、背後からのノック音が聞こえて来た。

 振り返ると、キッチンの入り口に夢乃が立っていた。


「もえぎ、そりゃあいくらなんでも可哀想だって」


「で、でも」


「奥様と先輩達には報告したし、承諾も取っといたわ。

 一応、あんなんでもお客様扱いだから、それなりの対応をしてやってね」


 夢乃の言葉に頷きを返す愛美と、不満そうなもえぎ。


「夢乃先輩、いいんですか、本当に?」


「いいのよ。

 逆にいい加減な対応をして追い出したら、ネットでどんな話を吹聴されるかわかったもんじゃないじゃん」


「あ、そーか! そういうことね」


 ようやく納得したのか、もえぎは手をポンと叩く。

 だが、愛美はまた置いてけぼりだ。


「あ、あの、い、いんたぁねっと……というものですか?

 私、よくわかってないのですが」


「ああ、愛美はインターネット、やったことないんだよね」


「今時珍しい子だよね、アンタって」


「す、すみません! 今度、勉強して参ります!」


「いいのいいの。

 どうせ、ここには回線もWi-fiもないし、携帯の電波も届かないんだから」


 呆れるようなジェスチュアをする夢乃に、もえぎも腕組みしながら頷く。

 

「まあそれに、明日は奥様の大事な日なんだから。

 下手にトラブルに発展するようなことは、避けなきゃ……ね」


「はい、そうでしたね!」


 大きく頷く愛美に満面の笑みを返す。

 だがそんな夢乃に、もえぎは眉をしかめて尋ねた。


「それなんですけどぉ、夢乃先輩。

 明日、いったい何をやるんですか?

 奥様のお誕生日……でもないし」


「わ、私も、その話を知りたかったんです!

 夢乃さん、いったい何が行われるのですか?」


 もえぎと愛美の突然の質問に、夢乃は少々詰まる。

 しばしの間を置き、彼女は声を潜めて話し出した。


「明日はね……」


「は、はい」

「な、何でしょう?」


「実はね……」


「ゴクリ……」

「……」


「――私も知らないんだな、これが!」


 どてっ!×2


 二人は、同時にずっこけた。


「な、なんなんですか、それー!」


「いや、だってさ!

 私だって聞かされてないんだから、しょうがないじゃんか!

 ねぇ、愛美ぃ?」


「え? あ、はい!」


「どうしても知りたかったら、もえぎ、あんたが聞いてきてよ。

 梓センパイと、理沙センパイにぃ~」


「うぇっ?!」


 二人の先輩の名を聞いたもえぎの表情が強張る。

 その様子に、夢乃は何故か愉快そうに微笑んだ。


 そして、そんな二人のやりとりに、愛美はまたも付いて行けなくなっていた。


「あの、すみません!

 私、お食事を運んで参ります!」


「いってら~」


「襲われそうになったら、すぐあたしらを呼ぶのよ~!」


 心配しているんだかしてないんだか、よくわからない声に見送られ、愛美は食事の乗ったワゴンを押して廊下へと出た。

 もうすぐ凱の部屋へたどり着くというところで、突然背後に人の気配を感じ、愛美は思わず足を止めた。


「――あら、食事?」


「ひっ?! あ、梓さん?!」


「ごめんなさいね、脅かしてしまって」


 いつの間にか愛美の背後に立っていたのは、愛美にとって一番上の先輩にあたるメイド・梓だった。

 切れ長で何処となく色香を感じさせる眼差しが、上から注がれる。

 

「こんな時間にお客なんて、珍しいと思って。

 ごめんなさい、邪魔してしまったみたいね」


「い、いえ、そんなことは!」


「遅い時間まで、貴女に面倒をかけて悪いわね」


 そう呟くと、細く長い梓の指が、愛美の顎を優しく撫でる。

 一瞬、愛美は息が止まりそうになった。

 まるで口づけをするかのように顔を寄せた梓は、そのまま愛美の耳元に唇を寄せた。


「適当にもてなしたら、明日は早めに山を降りるように、お客さんに伝えてね」


「は……はい、わかりました」


「明日は、奥様にも、私達にも、大事な日になるのだから。

 その為にも……ね?」


 顔を離す直前、梓の吐息が、愛美の耳にかかる。

 その瞬間、ぞくっという感覚が彼女の背筋を駆け抜けた。


「後はお願いね、愛美」


「は……はい」


 呆然とした愛美は、梓が二階への階段に消えるまで、その後姿を見送った。


(び、びっくりした。いつ、ここに来たんだろう?)


 胸がまだ、どきどきしている。

 だが、すぐにやるべきことを思い返し、愛美は凱の客室へと向かった。



 コンコン


 ドアをノックすると、中から少々慌て気味に声が返ってくる。

 愛美はワゴンと共に入室すると、深々とお辞儀をした。

 リュックの中身をぶちまけていた凱は、申し訳なさそうに向き直った。

 

「ごめんごめん、ここ携帯の電波届かないんだよね!

 暇だからもう寝ようかなと……って、おっ?! まさか、食べ物?」


 思わず身を乗り出す凱に、愛美は少々たじろいだ。


「はい、お腹が空いてらっしゃるかと思いまして。

 簡単なもので恐縮ですが」


 そう言いながら、ワゴンの上に載せられた料理をテーブルの上に運び、クローシュを取る。

 その中から、綺麗に盛り付けられたスパゲティが姿を現した。

 

「ありがとう! 助かるよっっ!!

 おお、ミートソース?! 美味そう!」


「ボロネーゼですね。

 申し訳ありません、こういったものしか用意できなくて」


 恐縮している愛美だったが、料理は見た目・ボリューム共に、凱には申し分ないレベルだった。

 平麺のパスタに、沢山の挽肉と野菜を使ったソースがたっぷりと載っている。

 控えめに粉チーズもかけられ、冷水を入れた小型のピッチャーまで用意されている。

 それは、とても飛び込みの客をもてなすランクの料理ではない。

 凱は料理の香りを嗅ぐと、感嘆の声を漏らした。


「ありがとう、愛美ちゃん。

 まさか、ここまでもてなしてもらえるなんて。

 君は、本当に優しい良い子なんだね」


「お、お褒めに預かり、光栄です!」


 顔を真っ赤にしながら、愛美は慌てて料理を勧めた。

 ピッチャーを手に取り、凱の傍に立ちグラスに水を注ぐために待機までする。

 あっという間に料理をたいらげ、水をゴクゴク飲み干してご馳走様をすると、凱は愛美に話しかけた。


「なあ、愛美ちゃん」


「はい、何でしょうか」


「実は俺、ある噂を聞いてここに来たんだけどさ。

 何か知ってたら、教えてくれないかな」


「噂、ですか?」


 凱は、先ほどまでの無闇に明るい態度ではなく、落ち着いた口調で語り始める。

 先ほどまでとのギャップに戸惑いはしたものの、愛美は何となく、彼の言葉に耳を傾けたくなった。


 凱によると、噂とはこういうものだった。


 この山の付近で、以前、大きな動物の姿を見たという者が現れた。

 ここからそう遠く離れていないところにある登山道で、野犬でも熊でもない、もっと大きな生物の影のようなものを目撃したとの話で、それはUMAなのではないかとも噂された。

 当然、インターネット上でもその噂は広まったのだが、いつまで経っても噂が検証されることはなかった。

 そしてやがて、その噂もいつしか囁かれることがなくなり、人々の記憶から消えていった。


「――でさ、なんで、噂の検証がされなかったか、わかるかい?」


「いえ、想像もつきませんが」


「実は、検証しようとした連中はいたんだよ。それも、結構な人数がね」


「えっと、それも、いんたぁねっと……という何かの集まりなのでしょうか?」


「え?」


「はい?」


 凱の話は続く。

 彼のように、動画サイトで自主撮影した動画をアップしてアクセス数や収入を稼ごうとする者達の中に、そういった噂話の実態を探ろうと試みる者が当然のように現れた。

 そして、実際に検証を行う為に、その登山道へ向かっていったのだ。

 だが、いまだにその検証動画が上げられた兆しはないという。


「ええっ? ど、どうしてなんですか?」


 不思議そうに尋ねる愛美に、凱は、何処か辛そうな表情を浮かべて静かに呟く。


「みんな、帰って来なかったんだ」


「え」


「みんな行方不明になった。一人残らずな」


「そ、そんな!

 どうしてなんですか?!」


「それがいまだに謎って訳さ。

 だから、俺みたいなのg――」


 凱がそこまで呟いた時、突然、ドアが勢い良く開かれた。


「はいはい、消灯時間ーっ!!

 お客さん、もう22時ですよー! あたし達も今日はこれで営業終了でーす!」


 声の主は、もえぎだった。

 少々苛立ち気味の声で、荒々しく呼びかける。


「うえっ?! ここ、消灯時間あるの?!」


「そーなんです! 本日決まりました!」


「ええっ?! は、初耳ですよ、もえぎさん?」


「そんなご無体な! 今、大事な話をしてたのに」


 残念そうに呟く凱を無視して、もえぎはさっさと食器とピッチャーを片付けると、ワゴンを押して愛美と共に部屋を出て行こうとする。


「そ、それでは、また明日の朝に。

 おやすみなさいませ」


「うぃ~、お疲れ様っしたぁ!

 愛美ちゃん、メシありがとう!」


「は、はい!

 明日も、朝食をお持ちしますので」


「うっひょぉ! そこまでしてもらえるの! 感激だぜぇ!」


「あ~、時代遅れのYOUTUVERは煩い!」


 バン! と強くドアを閉じ、もえぎは愛美を引っ張るように出て行ってしまった。

 即座にドアに聞き耳を立て、足音が遠ざかったのを確認すると、凱はリュックの中から小さなポーチを取り出し、腰に固定した。


「ま、好都合なんだけどね」


 凱は、更にいくつかの道具を取り出し、羽織っていたベストの内側にしまいこむと、腕時計を壁に翳した。


「ナイトシェイド。

 この館のマップを出せるか?」


“作成します”


 腕時計から、女性の声が響く。

 と同時に、壁にプロジェクターの映像のようなものが映し出された。





 午後11時を回り、館の中は静まり返っている。

 キッチンの片付けを終え、暗い中で廊下の残り部分をモップがけしていた愛美は、妙な違和感を覚えて手を止めた。


(あれ? 外から物音?)


 愛美は手近な窓から外を眺めてみるが、暗闇が広がるだけで何も見えない。

 しばし考えた後、愛美は意を決して、玄関の錠を外した。


(何かが落ちるような音が、確かこっちの方から?)


 玄関のドアを開け、愛美は音を感じた左手の方に目を凝らす。

 特に、異常のようなものは見えない。

 外に出た愛美は、館の外周に沿うように歩いていくと、あることに気付いた。


(足跡……?)


 地面の一部に、靴で土を蹴ったような痕跡がある。

 見上げた愛美は、小さな嗚咽を漏らした。


(この上は――凱さんのお部屋?!)


 愛美は、慌てて屋敷内に駆け戻った。


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