第36話 地下鉄に乗って
次の日のお昼前、桜と光は地下鉄に乗っていた。
”書生服”は洗濯していたので、光は制服のブレザーにマフラーを巻き、桜はいつものセーラー服にモンペ姿だった。二人は狭い車内で吊り革に捕まり、真っ暗な窓を眺めていた。車窓からは定期的に見える灯りが、前から後ろに流れていった。窓に映った自分たちの姿を見て、21世紀の日本とほとんど変わらないのに、と光は思った。しかし、周囲に広がる地下鉄の車内の風景は、ゲートルを巻いた国民服の中年男性や、モンペ姿の女性など、戦時中の日本なのだった。そして肩から下げた二人の帆布の鞄には、重い鉄製のヘルメットが括り付けられていた。
「そろそろ髪切ったほうがいいかな」
窓に映った顔を少し左右に振り、ボブヘアを揺らしながら桜がつぶやき、チラッと光に視線を合わせた。
「あ、え、まだ、大丈夫じゃないかな」
光はなぜか焦って視線を外し、口籠った。
程なくして地下鉄はゆっくりと速度を落として停車しドアが開くと、ホームから若い女性の案内が聞こえてきた。
”銀座、銀座です”
切符を駅員に渡して改札を出るとどんどん進む桜の少し後をついて、光は人通りの多い地下通路の中を歩いていった。階段を登って地上に出て、桜に続いて振り返ると、目の前左手には見覚えのある和光の時計塔があった。そうすると向かいは三越なのかな、昭和二十年でも銀座は銀座なんだな、と光は思った。
空は昨日と同じようにどんよりと曇っており、冬の空気が指すような寒さだった。
「先に用事済ませちゃおう」
桜は元気よく言うと、歩き始めた。
「場所はわかるの?」
ポケットから昨日描いてもらった地図を取り出し、光は桜に聞いた。
「まぁ大体ね、最近来てないけど前はみんなで学校帰りに寄ってたしね。本当はダメなんだけど」
桜は笑いながら言った。
「でもこの一年くらいで一気に寂れちゃった。時局柄仕方がないんだろうけど。こことか、あそことか」
ぐるっと周囲を見渡し、閉店していたり、何とか工業協力工場といった看板の立つ元商店といった風情の店を桜は指差しながら言った。
とはいえ明るい表情で手を繋いで歩く親子や、連れ立って歩く若い男女など、以前に通った上野駅周辺に比べれば少しだけ華やかな雰囲気を光は感じたのだった。
地上に出てからしばらく歩き続けると、商店街からオフィス街といった街並みになっていき、小さな三階建てのビルの前で桜は足を止め、上を眺めて言った。
「ここかな。なんか見覚えがある。子供の頃に一度だけ父に連れられてきたような」
手に持った地図を確認してから光はうなずき、重厚な扉を開けてビルに入った。狭いフロアを見渡してもエレベータはなさそうだったので、左手にあった階段を登り始めた。暖房は入っていなかったが、少し歩いてきて体が温まり、寒さは感じなくなっていた。
目的の千代田電気商会は階段を登ったすぐ目の前にあった。会社名が書かれた擦りガラスの扉は開いていたので、光を先頭に二人はおずおずと中に入った。10人程度が座れそうな二列に向かい合って並べられたデスクの中央に一人だけ、頭の若干薄くなった恰幅の良いスーツ姿の中年男性が真剣な表情で書類を見比べているところだった。
「あの・・・」
光が声をかけようとした。と、同時に気がついた男は額にずり上げたメガネを下ろし、書類を机に置いて言った。
「菅野先生のお使いですね、話は聞いています。今お茶を入れましょう」
男は机の引き出しから茶封筒を取り出し、立ち上がった。
「ありがとうございます。でも次の用事がありますのでお構いなくです」
光が答えた。少し出るのが遅くなってしまい、もうすぐお昼の時間になろうとしていたのだった。
「そうですか。では先生によろしくお伝えください」
男は微笑むと首を傾げ、ずっしりと重い封筒を光に渡しながら言った。光は封筒を受け取ると鞄に収めた。そのまま頭を下げると、桜を促してドアを出た。
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