第25話 さくらとひかる
光は警官を突き飛ばすと商店街の続く街道を全力で逃げた。後ろで警官の怒鳴り声と、起き上がる気配を感じながら、そこそこ人の多い街道をかき分け走り続けた。サイレンの音は断続的になり続けた。
あまりにも重い荷物のせいで最初の数秒は思うように走れなかったが、勢いがつくとそれなりの速さで走ることはでき、空を見上げた数人の通行人にぶつかりながらも逃げ続けた。数十メートルを走りきり、本屋の角を右に曲がった時には後を追いかける警官の気配は感じなくなっていたが、光は振り返らずにひた走り、右に左に重い荷物によろめきながら小道を逃げ回った。
どこをどう走ったか方向感覚もなくなり、一キロ近く走っただろうか、全力疾走に息の上がった光は、見つけた神社の本堂の影に飛び込んだ。
「なんでいつも逃げてばっかりなんだ」
息を整え、悪態をつきながら光は荷物を下ろし、仰向けに横たわった。本堂の屋根の庇と木々の間から見える空はまた少し日が傾きはじめていた。
「どうしよう」
光は空を見たまま、リュックサックのポケットから水筒を取り出し、汗の滲む額を腕で拭いながら中の水を飲み干した。警官はなんとか巻いたようだった。もっとも、警官も空襲警報で避難したのかもしれなかった。桜はどうなったんだろうと思ったが、探しに戻るのは危険な気がした。そもそもこの辺りは彼女の方がよく知っているだろうし、大丈夫だろう。
たっぷり三十分は休んでから光はよろよろと体をおこした。右手に持ったままだった水筒をリュックサックのポケットに収めた。
「帰るか・・・」
光は呟き、時計の時間と太陽の位置で大体の方角を確認すると、とりあえず北に向かって歩き出した。そのまま元の浦和駅に戻るのは危険な気がして、一駅分先に行くことにしたのだった。
しばらくの間、小さな木造住宅が続く街並みを、下校する小学生や白い割烹着を着た主婦に紛れて歩き続けた。ちょっとだけ北に向かった後に少し東側に歩くと、予想通り京浜線の線路に当たった。そそしてそのまま北に向かって三十分ほど歩くと、”北”浦和駅の前にたどり着いた。
光はほっとしながら日の落ち始めた駅前の様子を伺い、警官がいないのを確認した。なるべく堂々とした態度をとりながらこじんまりとした駅舎に入り、窓口で上野までの切符を買った。
「お金もらっておいてよかった」
光は呟きながら改札で切符を切ってもらい、ホームで電車を待った。待つ間も警官が来るのではないかとハラハラしていたが、上りの電車はすぐにやってきた。行きとは打って変わってほぼ満員の電車は、光のように背中に大荷物を背負い、手には袋を下げた人々でいっぱいだった。決死の覚悟で電車に押し入り、とはいえ光は普段の通学電車で慣れたものではあったので、体を適当に交わしながら上野駅までの間を耐え抜いた。
上野からの都電(桜たちは市電と呼んでいたが)をなんとか探し当てた頃にはすっかり日が暮れ、相変わらず街頭の消えた真っ暗な街中を歩いた。途中で鳴り始めた空きっ腹を抱えながら菅野家へとなんとかたどり着いた。
今となっては見慣れて懐かしさすら感じる、青い屋根に白い壁の洋館を前に、光は安堵のため息をついた。扉を開けようとドアノブに手を伸ばしたが、鍵はかかってるかもしれないと思い、呼び鈴を鳴らした。そもそも、家の鍵は桜が持っていて、今日は誠一郎も雪も居ない。ということは桜が万が一帰っていなければ光は締め出し、ということだった。
しかし呼び鈴の音が鳴るとすぐに、ドタドタと家の中から音がして、ドアが開いた。
「あ、あ・・・」
桜が目を丸くして驚愕の表情で立っていた。
「ただいま」
光は照れ臭そうに答え、頭をかいた。
「大丈夫?あの警官に捕まらなかった?殴られたりしてない?」
「あ、ええと大丈夫、俺って逃げるのは得意みたい」
「よかった、よかった」
桜は安堵の表情になり、そのままうなだれた。その時、光の腹の鳴る音が、暗くなった玄関に響いた。
「ご飯できてるから、荷物はそこに置いていいから早く上がって」
光が玄関に座って靴を脱ぎダイニングに行く途中、桜はポツリといった。
「ありがとう」
「え?」
夕食は桜の荷物に入っていた豚肉の生姜焼きに味噌汁とご飯だった。光は一言も発せずに黙々と食べた。お代わりのご飯を食べ切り人心地のついた光は、あのあと桜はどうなったのか聞こうと思い、話しかけた。
「えーと、菅野さん」
桜は怪訝そうな顔で返した。
「その菅野さんてやめてくれない?」
光は焦った。
「え・・どうすれば・・・」
「菅野さんじゃうちには四人いるし、紛らわしいのよね。ちょっと不本意とはいえ、同じ家に住んでるのにそんな他人行儀なの、私はイヤ」
「えーと」
「サクラでいいわよ。私も君のことヒカルって呼ぶから、それでおあいこ、いい?」
「わ、わかったよ、さくら」
「あらためて、よろしくね、ひかる」
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