第20話 麦踏み

 清水と名乗った桜の叔母、三十代後半くらいの女性は、二人を和室の居間に案内すると自分は台所に入って行った。光は桜に促されて一緒に掘り炬燵こたつに座った。程なく桜の叔母がお茶を持って戻ってきて三人分入れ、彼女も炬燵に腰掛けた。

「そういえばあの中学生、なんて名前だっけ、今日も勤労奉仕で何人かで来てくれてるけど、桜ちゃんにって本置いていったわよ」

「!?」

 桜は飲みかけたお茶を吹き出しそうになり、慌てて口を押さえた。

「そこに置いてある本」

 光と桜は部屋の隅に置かれた本を見た。裏返っていてタイトルは見えなかったが、文庫らしき二冊だった。

「思い出した、深澤君。いい子よねぇ、なかなかの美男子だし。あの子いいんじゃないの?」

「やめてよおばさん!そんなんじゃないんだから!」

 桜は湯飲みを置き、大袈裟に手を振って否定した。

「あらー、私は悪く無いと思うけどねぇ、何が気に入らないの?」

「れ、玲子ちゃんにどうぞ!」

「あの子もダメなのよねぇ、今日だって残って手伝ってけって言ったのに。工場なんかよりよっぽど大事なのにねぇ」

 本気だか冗談だかわからない口調で叔母は笑い、桜は顔を赤くしてそっぽを向いた。謎の成り行きに、光は飲みかけたお茶を持ったまま呆然とするしかなかった。

「桜ちゃん、お茶飲み終わったらお昼ご飯手伝ってくれる?守田さんのところに来てる子たちの分も頼まれちゃってねぇ。それと早水さんは畑で麦踏み手伝ってもらってもいいかしら。おじいさんと雪さんの方に行って欲しいのよ」

「は、はい」

 いきなり話を振られて、光はとりあえず返事をしたが・・・。

(麦踏み!?)

「教えないと知らないわよ、多分」

 桜が澄ました顔で言った。

「あら、そしたら最初は私が一緒に行きましょうかね。桜ちゃん、かまどのご飯の方お願いできる?」

「はーい」

 返事をすると、桜は立ち上がり、台所のほうに向かっていく。


 桜の叔母は光を連れて敷地の隅に立っていた納屋に向かった。光は足袋を渡されてローファーと履き替え、二人で畑に向かう。日が昇り、いくらか暖かくなってきた畑では、雪と桜の祖父がすでに麦踏みを始めていた。

 光が生まれて初めて聞いた「麦踏み」は、秋に捲いて生えてきた麦の茎を踏みつけて行く作業のことだった。そんなことしたら枯れるんじゃないか、と光は聞いたが、寒さに強くして丈夫に育てるために必要らしい。少し離れた畑をあてがわれた光は、桜の叔母に教えられて麦踏みを始めた。足袋をはいた足で麦の茎を踏みながら、カニ歩きのように横に歩いていく。桜の叔母は少しのあいだ光の様子を見ていたが「はじめてにしてはなかなかね!」の言葉とともに家に戻っていった。作業は簡単だが、ひたすら横歩きで畑の麦を踏みつける作業は単調で結構な重労働だった。


 光がしばらく麦踏みをしてると、隣の畑で黒い学生服にゲートルをまいた少年たちが同じ作業をしていることに気が付いた。彼らが「勤労奉仕」できている中学生なのだと光は思った。こちらの「中学生」ということは光と同世代ということだ。麦を踏みながら畑の端で折り返して行くと、彼らの一人にだんだんと近づいていく。


「やぁ、おつかれさん」

 数メートルほどに近づいたとき、少年の一人にいきなり話しかけられ、光は焦った。

「あ、どうも」

 挙動不審な受け答えになり、光は自分自身に狼狽した。

「僕は深澤省吾。よろしく!」

 こいつが深澤君か、と光は思った。光より少し背が高く、学生帽の下は短髪だったが、確かに割とイケメンだった。

「君は?」

「早水光。ええと、中学五年です」

「同い年なんだ!冬晴れの畑はいいよね、僕らも秋からずっと薄暗い工場で働いていたから、たまに外に出られるとせいせいするよ。君もやっぱり勤労奉仕?」

「あ、ええと中学はお休みしてて、今は菅野さんのお宅で書生をしてて、手伝いで来たんだ」

 勤労奉仕がどういうものか、光にはわからなかった。手伝いは成り行きだったが、とりあえずそう言っておいたほうがよさそうだと、光は思った。

 深澤はなぜか驚いたような顔で答えた。

「へぇ、そうなんだ、それはそれで大変だね。ところで、ここが終わったら隣の畑だ、光君も一緒にやろう!」

 初対面から馴れ馴れしい奴だ、と光は思った。

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