飛行第一九一戦隊

第16話 陸軍赤羽飛行場

 東京の北の端、遮るものは何もなく寒風が吹き付ける陸軍赤羽飛行場のエプロンに、二十機ほどの三式戦闘機、飛燕が並んでいた。ほとんどの機体は工場を出たばかりの真新しい銀色塗装だったが、その中で二機だけ使い古した機体がある。エンジンからの排気炎で煤けた胴体に、ところどころの被弾跡をアルミ板のパッチで補修された主翼、上面緑色に塗装された機体に、有り合わせの塗料で外地標識の白帯を塗りつぶし、逆に翼と胴体の日の丸の周囲に白い縁取りを取っている。伊吹と本田がフィリピンの戦いから持ち帰った機体だった。


 飛行場の脇に立つ暖かい事務所の中で、その飛燕の操縦者、伊吹芳彦いぶきよしひこ中尉は椅子に座り、神妙な面持ちで電話を見つめていた。斜め向かいに座った軍属(軍に雇用されている軍人以外の身分の者)の若い女がちらっと彼を見ると、視線を感じた伊吹は慌てて上を向いた。

 しばらくして、当時の軍人基準からすると珍しい”長髪”の頭を掻くと、意を決したように伊吹は受話器を取り、ダイヤルを回して行く。

 その時、戦隊長の当番兵が伊吹の前に立った。

 伊吹は電話を切る。

「なんだ」

 当番兵は敬礼する。

「戦隊長殿がお呼びであります」

「そうか」

 伊吹は戦闘帽を取ると席を立った。


 しばらくして、伊吹が与えられた自分の小さな執務室に戻ってくると、本田史郎ほんだしろう軍曹がもう一つの椅子に背もたれを前にし、だらけて座っていた。机の上には羊羹の乗った皿がフォークを添えて置いてあった。

「なんだこれは」

 伊吹は本田に尋ねた。

「空中勤務者に特配の羊羹です。近所に菓子屋があるらしくて、たまに納品されるそうで、それ伊吹さんの分」

 伊吹は小さな机に備えられた椅子に座ると、羊羹をフォークで突き刺し、頬張った。

「甘いものが好きなわけじゃなかったが。腹にしみるな。何ヶ月ぶりだ」

 目をつぶったまましみじみと伊吹は言った。

「台湾で食って以来ですかね。ところで戦隊長殿の話って、どうでした?」

 伊吹は羊羹の隣に置いてあった湯飲みの茶をすすった。

「二つある。一つはルソン島に米軍が上陸した」

「そうですか」

 本田は下を向いた。伊吹もため息をつき、続けた。

「もう一つは、俺たちで三つ目の飛行隊を作ることになった」

「第三中隊?」

「まぁそういうことだ。で、新米ばかり押し付けられたが。お前がやりやすいだろうと思って、そこは全員小飛(少年飛行兵)にしてもらった。感謝しろよ」

「あはは」

 本田は苦笑いした。つまり、士官の操縦者は無しということだ。

「ありがとうございます。伊吹さんは信頼されてるんですね」

「どうかな。そういうのは古巣でやるもんだろう」

 伊吹と本田がフィリピンに分派される前、もともと所属していた飛行第七六戦隊は今もビルマで英空軍相手に戦っていた。撤退後は戻ることなく二人ともそのまま帝都防空の第一九一戦隊に異動になったのだ。

「まぁ確かに」

「そういえば連絡はしたんですか?」

 伊吹は少しうろたえた様子で答えた。

「呼び出される直前に電話してたが、出る前に戦隊長に呼ばれて切った」

「もう一回すればいいじゃないですか」

「いまから小牧に直談判に飛んでくる。今週来る奴らの機体が一機もない」

 本田は訝しげな顔をした。

「乗って来るのでは?」

「満州から使い古しの九七戦で飛んできて、そのまま返納するそうだ」

「なるほど」

 九七戦、正式名称九七式戦闘機は、伊吹達が使っている飛燕より三世代は前の旧式機だ。脚も引き込みでない固定式で、空冷九気筒のエンジンはパワーも段違いに低く、ほとんど半分以下の代物だ。六年前のノモンハン航空戦の頃では新鋭機だったが、昭和二十年の空ではほとんど役に立たないだろう。ましてや伊吹達が今戦おうとしているB29”超空の要塞”相手には。

 言い終わると伊吹は席を立った。

「人も飛行機も燃料も、何もかも足りない。いつものことだがな」

「愚痴ですか。らしくないですね」

「愚痴じゃない、本当のことだ」

 扉をノックする音が聞こえた。

「永野伍長であります」

 本田は慌てて逆さに座って背もたれに寄りかかった椅子を立ち、手を後ろに回して陸軍の軍人らしい直立不動の姿勢をとる。

「入れ」

 本田をチラッと見てから伊吹が言った。扉が開き、伊吹と本田の長髪とは対照的な毬栗頭の永野伍長が入室し、敬礼した。

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