第12話 留守番
朝食の後、セーラー服に下はモンペ姿の桜が白いマフラーを巻いて家を出ていった。その後、スーツの上にコートを羽織り、誠一郎も出勤して行く。
しばらくして洗い物を終えた雪はキッチンを出ると、帆布のリュックサックを担いで2階から降りて来た。
「今日は桜さんが早めに帰ってくるので、それまで留守番お願いします。夕食はあの子が作りますが、お昼は戸棚にあるパンを食べていてくださいね」
光は焦った。まさか留守番をすることになるとは思わなかったのだ。昨日来たばかりなのに。
「はい、あの、どちらへ?」
「実家の浦和にしばらく行っています」
「は、はい」
雪を見送った後、光はダイニングテーブルの椅子に座り、最後に入れてもらったお茶を一口飲んだ。光には当然だが、行く学校はなかった。一瞬だけ学校が今もあるのか気になったが、そもそもどうやって電車に乗ればいいのかわからない。
何もすることのない光は誠一郎の置いて行った新聞を手に取った。内容はほとんど今、つまり昭和二十年だが、やっている戦争のことばかり、”敵船団リンガエン湾深く侵入”と書かれても光にはリンガエン湾がどこだかもわからなかった。音楽の放送も終わってしまったラジオの電源を切ると、静寂が訪れた。隣のキッチンの水道から落ちる水滴の音が響いた。
突然、玄関でガチャガチャ鍵を開ける音に、光は驚いて椅子から飛び上がった。
「なんで鍵空いてるの?」
若い女性の声が聞こえた。光が慌てて出ていくと、紺のワンピースの下にモンペを履いた若い女性が立っていた。年の頃は二十歳前後だろうか、光と同じくらいの背丈に長い髪、しかし丸い大きな瞳のどちらかと言うと可愛い方の美人だった。怪訝な顔をした女性は脱いだコートを手にしたまま、光に尋ねた。
「あなた誰?」
自分の方が聞きたい、と光は思った。
「早水光です。しょ、書生です」
光は目を逸らしながら、朝の説明を思い出して答えた。
「書生?そんなの私聞いてないんですが。怪しいな、ちょっと来なさい」
彼女はそのまま上がり込むと、光の襟首を掴んでグイグイと廊下を押し込んで行く。光は抵抗を諦めて引き摺られて行くに任せるしかなかった。そしてそのまま廊下にある黒い電話の前で光を壁に押し付けると、左手で受話器を取り、ダイヤルを回し始めた。
これが話に聞いたダイヤル式の固定電話か!と光は思った。しばらくして電話がつながったらしく、彼女は話し始めた。
「お仕事中に申し訳ございません、電気工学部の菅野教授のお宅で、あ、はい、そうです。申し訳、あ、いえいえ、お願い致します」
光は硬直したまま視線を彼女に向ける。
「あ、あの・・・」
「黙ってるの!」
そのまま、しばらくの時が流れた。彼女の声がいきなり1オクターブ上がる。
「あ、先生!・・・はい美沙子です。そうですそうです!・・・・えっ!・・・ええ・・そう言ってますけど・・そうなんですか、私びっくりしちゃいました!」
美沙子と名乗った女性は、光をちらっと見た。
「なるほどー、ではいろいろ仕込、じゃなくて教えてあげておいた方が良いですよね?・・はいもちろんですぅ」
美沙子は光を見たまま、ニヤリと笑い、光の襟首を離すと受話器を下ろした。
「ひ・か・る・くーん。本当に書生さんなのね、ごめんね疑ったりして。勉強は無理だけど家のお仕事は私が教えてあげる。それと・・・」
一呼吸置いて、美沙子は怪訝そうな顔になった。
「未来から来た話を聞いておくようにって言われたけど、どういうこと?」
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