第7話 新聞

「あ!」

「おいこら待て!」

 一瞬空気が止まった後、光が逃げ出したことに気がついた警官と二人の兵士が同時に叫んだ。しかし待てと言われて待つ逃亡者はいない。光は後ろを振り返らずに全力で走った。

 ローファーで疾走するのは不便だったが、カバンがどこかに行っていて手ぶらだったおかげで、自分史上最速の逃げ足だと光は思った。

 通行人を避けて必死に走り、朝来たはずの言問橋西の角を曲がる。道は同じだが風景が全然違っていたのは気にしないことにした。そしてそのまま車のあまり走っていない言問通りをクラクションを鳴らされながら突っ切り、同じような長屋の続く住宅街の小道に入ると、さらに角をいくつか曲がり、そのまましばらく走り続けた。十分ほども走り続け、後ろを追ってくる気配がなくなったのを感じると、光は小さな空き地に材木が積み上げて置かれているのを見つけ、そのまま材木を飛び越え、陰に隠れた。


 荒い息を必死に抑えながら呼吸を整える。バクバクする心臓と冬の冷たい空気にキリキリと痛む肺が少し落ち着きはじめると、今度は心を落ち着かせるために、震える手を胸で押さえつけながら、首に適当に巻いたネクタイを緩めた。冷や汗がどっと吹き出してきた。

 走ってきた道を思い出し、すれ違う驚いた表情の通行人を思い出し、言問通りを通っていた黒いクラシックな車を思い出し、周囲の小さな家々の屋根を見て、光は朝ドラのセットみたいだと思った。全てが昔風だが、新しかった。

 ネクタイを締めた後、しばらく放心状態で空を眺めていると、光は積み上げられた別の材木の向こう側に大きいトタン板が立てかけられ、隠れるのに都合の良さそうなちょっとした隙間を見つけ、よろよろと潜り込んだ。もう誰も追ってきてはいなさそうだが、人に見られるのはまずい気がした。

 光はポケットの中のスマートフォンを取り出してみた。どこかに行ってしまったカバンとは違い、幸いなことにそれはまだあった。

 しかし予想していた通り、ロックを解除するまでもなく表示は圏外だった。画面の時計は十二時を過ぎようとしていた。ロックを解除し、地図アプリを開いたがやはり地図は表示されない。メッセージアプリで友人にメッセージを送ってみるが、送信すらされなかった。当然、電話をかけてもどこにも繋がらない。


 たっぷり三十分くらいは放心していただろうか、体も心も落ち着くと、今度は空腹感に気がついた。いつの間にかもう十二時なのだ。時間があっているかはわからないが。

 もともと学食で食べる予定だったから弁当は持っていなかったが、そもそもカバンがどこかに行ってしまい今は無い。ポケットを探ると、たまたま去年から入れっぱなしだったと思われる、のど飴がでてきた。光は飴を舐めながら途方にくれた。

 脱力した光はそのまま材木にもたれかかった。ふと横を見ると材木の間に新聞が挟まっているのが見え、何気なく引っ張り出した。

「聞新日朝 日九十二月十年九十和昭・・・いや違う、右から読むのか、って昭和十九年十月二九日!!」

 新聞は明らかに今日のものという感じではなかったが、かと言って昔の新聞という古さではなく、ちょうど荷物の緩衝材に手近にあったものを詰めた、くらいの古さだった。光はそのまま文面を読んでいく。

「敵艦隊を捕捉し、必死必中の体当り」

「豊田連合艦隊司令長官 殊勲を全軍に布告」

 頭がクラクラすると、今度は猛烈な眠気が襲ってきて、そしてそのまままた意識がなくなった。

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