第5話 飛燕

 B-29の尾部銃手の双眼鏡の視線の先、トニーと呼ばれた二機の日本軍戦闘機は数分前からB-29を追っていた。上面を濃緑の単色で塗られ、胴体後方には外征部隊を示す白い識別帯をつけたままの陸軍の三式戦闘機、飛燕ひえんだった。

「追いつけない」

 二機のうち、斜め左を先行する一機のパイロット、伊吹芳彦いぶき よしひこ中尉は操縦席で呟いた。茶色の革の飛行帽にゴーグルを付け、更にゴム製の酸素マスクのせいで、外から彼の表情は鋭い目つきしか見えなかった。紺色のマフラーをのぞかせた、冬用の襟に毛皮の付いた分厚い飛行服は、B-29の搭乗員の軽装とは対照的な重装備だった。

 飛燕は空冷エンジンが主流の日本軍機の中では珍しく水冷エンジンを搭載し、そのためスマートに尖った機首を持つのが特徴だ。そのエンジンは彼らの基地である赤羽飛行場を離陸してからずっと快調に回り続け、澄んだ排気炎を断続的に吹き出し続けていた。操縦席に備えられた対気速度計は時速五八〇kmを示しており、追い風を受けて、対地速度ではさらに高速で進んでいるはずだったが、上層のジェット気流に乗ったB-29には追いつくどころか徐々に引き離されていた。

 伊吹は無線機の送信スイッチを入れ、地上に報告した。

「アサヒ、アサヒ。こちらタチバナ一三。高度八千にてB29を一機、目視にて確認。東に向かう、追跡中。送れ」

 少しの間をおいて、地上からの連絡が飛行帽の耳についたスピーカーから流れた。

”タチバナ一三、こちらアサヒ、捕捉し撃墜せよ。送れ”

 伊吹は憮然とした表情で、もちろん酸素マスクのせいで外からは見えないが、素っ気なく返信した。

「アサヒ、こちらタチバナ一三、了解。終わり」

“終わり!”

 最後の通信の後に続けて別の送信があった。伊吹は無線機の受信周波数を手早くずらす。

”簡単に言ってくれますね”

 伊吹の後方五十mで編隊を組んで飛行する、もう一機の飛燕に乗ったパイロット、本田史郎ほんだ しろう軍曹からの通信だった。こちらも高空用の重装備のせいで外からは目しか見えないが、澄んだ瞳の若者だった。飛行服のボアの襟元には白い絹のマフラーが覗く。もともとイギリス空軍のものだった四角く黒いサンシールド付きのゴーグルをずり上げると、やや諦めの目で前上方のB-29を見た。

 雑音混じりの本田の愚痴に、伊吹は諦め顔で苦笑いし、つぶやき返した。

「そうだな。それに比島帰りには寒さもきつい」

 高度八千mはヒマラヤの山頂並みの高さだ。空気も薄く、気温も低い。酸素マスクがなければ即座に気を失い、分厚い電熱式の飛行服がなければ命の危険のある寒さに凍えることになる高度だ。

「頑張ってもう少し高度をあげるぞ」

 伊吹は続けた。

”その間にさらに離されそうです”

 本田も返す。

 二人の飛燕はどんどんとB-29から引き離されていく。彼らの上空で飛行機雲を引くB-29は快調に速度を上げていた。

「残念だが今は追いつけない。出だしが悪かった。奴が投弾(爆弾投下)した後、南に変針する時が勝負だ」

 伊吹がふと後ろを見ると、海軍の零戦が3機、彼らと同じように食らいついて来ていた。しかしやはり同じように高度を維持することが精一杯のようだった。


 結局、伊吹と本田は勝負に負けた。

 東京に入ったB-29は阿佐ヶ谷上空で爆弾を三発だけ投下し、そのあとすぐに彼らの予想通り進路を南に取った。しかし追従して旋回するときに伊吹の飛燕は失速し、高度を一気に千m近く落とした。高度を維持したまま上手く旋回した本田は追撃を続けたが、本田にしても機関砲の射程まで追いつけることはなく、燃料ギリギリまで粘った上で引き返すことになった。

 高度を落としたとき、伊吹は地上を見た。隅田川のそばに煙の上がった爆煙は二つ。うち一発は不発のようだった。

「くそ、よりにもよって」

 伊吹は酸素マスクの中で悪態をついた。

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