第86話 逃げる者、降伏する者

「若殿! 新しい槍を!」

「すまん、助かる」


 兵士に投げてもらった槍をキャッチした。

 振り返ってみたが、関羽の背中はすでに遠い。


「お怪我は?」

「大丈夫だ。目が覚めるような一撃だった。かつて父上に稽古をつけてもらったが、似たような圧力を感じた」


 戦場を眺めてみる。

 勝敗は一目瞭然だった。

 勝ったのは呂布軍である。


 まだ交戦しているのは夏侯惇くらいで、夏侯淵、曹仁、曹洪の三将は騎兵だけ率いて曹操の救援に向かっている。


「きっと父上と関羽がぶつかる。我らも追いかけるぞ」


 曹操の本陣に突入する。

 猛スピードで接近してくる一団がおり、どこの敵かと身構えていたら、味方の張遼隊だった。


「平気か、張遼」

「かすり傷です。先ほど関羽が戦場にやってきたと聞きました。陳宮の言葉が真実なのか、この目で確かめようと思います」

「さっき関羽と手合わせした。一合だけな。確実に斬られたと思った。しかし生きていた」

「なんと⁉︎」


 互いの軍勢を一つにする。

 逃げていく敵は無理に討つな、と命じておいた。


「いました! あそこです!」


 呂布と関羽が睨み合っていた。

 数合だけ武器をぶつけ、また睨み合う。


「呂布将軍、今日のところは曹操殿を見逃してくれぬか?」

「できるか。曹操は漢王朝に逆らった賊将だ。お前も賊の仲間入りをしたいのか」

「そうか。話し合いでは無理か」


 関羽の後ろには曹操がいる。

 馬を失っており、肩と腕に矢が刺さっている。

 そこに夏侯淵がやってきて自分の馬を差し出した。


「退却されよ、曹操殿。この関雲長が時間を稼ぎましょう。その代わり兵士を少々お借りしたい」

「恩に着るぞ、関羽」


 曹操は馬上の人となった。


「死ぬなよ」


 夏侯淵、曹仁、曹洪の三将は残る。

 関羽を援護せよ、というのが曹操の命令だった。


 敵兵の目の色が変わる。

 死を覚悟した人間のソレである。

 道連れにしてでも敵を殺す、という気概が伝わってくる。


「やめだ」


 呂布は画戟を引っ込めた。


「兵法にいう。死兵を攻撃してはならぬと。こんな場所で部下を殺せるか。不毛も不毛だ」


 関羽も大刀を引っ込めた。


「かたじけない、呂布将軍」

「関羽に一つ問いたい。お前は曹操に恩があるから逃がした。もし敵味方双方に恩ができたら、一体どう振る舞うのだ?」

「そうですな。戦局が煮詰まった時に仲裁役を買って出ましょう」

「言ったな。その約束、忘れるなよ」

「天地神明に誓いましょう」


 曹操は関羽の人となりを愛したと伝わる。

 その理由が垣間見えるやり取りだった。


 ……。

 …………。


 この後、すべての曹操軍が逃げるか捕虜になった。

 抵抗を続ける部隊もいたが、曹操が去ったことを知ったら素直に武器を捨てた。


「呂青殿、あちらに抵抗を続ける者が……」

「まだいるのか。何人だ?」

「それが一人です」

「まさか……」


 その男は岩場で戦っていた。

 全身傷だらけになっているが、両手に持った戟には威力がある。


 典韋てんいだった。

 曹操の親衛隊長である。

 主君とはぐれたらしい。


 兵士らが武器を奪おうとするが上手くいかない。

 仕方なく弓兵を並べて典韋を射殺そうとした。


「やめるのだ!」


 呂青は岩場に降り立った。

 典韋が打ちかかってきたが槍で押し返した。


「曹操は逃げた。降伏しろ、典韋殿」

「二君には仕えぬ。命ある限り闘うのみ」

「戦って死ぬことだけが忠義じゃないだろう」


 呂青は槍を巻き上げる。

 典韋の戟を一本飛ばした。


「曹操の妻子を捕まえている」

「ッ……⁉︎」

「この後、長安へ送られるだろう。護衛がいないと心細いと思う。典韋殿が守ってくれないだろうか」

「だが……しかし……」

「関羽殿は主君の妻子のために降伏した。決して恥ずかしい行為ではない。それに命を捨てるのは今日じゃなくてもいいだろう」


 典韋は残った一本の戟を地面に突き刺した。


「分かりました。大人しく縛につきましょう。その代わり曹操様の家族に会わせてください」

「約束する。しかし酷い怪我だ。まずは手当てされよ」

「ああ……」


 ようやく手脚の傷に気づいたのか、典韋が少し照れる。


「将軍のお名前を教えてください」

「呂奉先の息子、呂青だ。今は将軍位になく一介の部将に過ぎない」

「生きる理由を与えてくれたことに感謝します、呂青殿」


 勇士の命を一つ、散らせずに済んだ。

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