第41話 人生で一番の誇り

 後頭部の痛みで意識を取り戻した。


 目の奥がクラクラしている。

 いつもより視野が狭く、物の輪郭がボヤけている。


 天井に見覚えがあった。

 呂青が寝起きしている部屋だ。


 つまり屋敷だろう。

 あるいは死後の世界か。


「いててて……」


 枕元に置かれている剣を目にした瞬間、走馬灯のように一連のシーンが蘇った。


 小さな村で皇帝を見つけた。

 劉協から何個か質問された。


 人々が噂していた通り、劉協は利発な少年だった。

 この人が皇帝に即位すれば漢王朝は変わるだろう、と期待させるだけの何かを内包していた。


 それから軍を見かけた。

 呂布の騎馬隊かと期待したが、やってきたのは董卓の部隊だった。


 あの瞬間、呂青の運は尽きたといえる。


 わざわざ董卓が出てきた。

 斬りかかってやろうと思ったが、取り巻きの十人くらいに叩き潰された。


『粋がるなよ、小僧』


 董卓はゾッとするほど冷たい目の持ち主だった。

 乱世を生き延びてきた男にふさわしく、隆々とした筋肉、無数の古傷、人並外れた巨躯を持ち合わせていた。


 精悍な殺し屋は表情一つ変えずに呂青の背中を踏みつけた。


『人間、死ねるのは一度きりだ。アホな奴ほど簡単に死にたがる。まさに愚の骨頂』


 董卓は日本刀のように反りのある剣を抜いた。

 刃渡りが七十センチあったと記憶している。


 呂青は生きている。

 なぜ殺されなかったのか。


「兄上!」


 呂琳がいた。


「琳は無事だったか」

「うん、私は平気。他の兵士たちも。でもね……天子様がね……」

「董卓に連れていかれたか」

「うん」


 張り詰めていた緊張の糸がぷつんと切れた。

 すると溜まっていた疲れが一気に噴き出た。


「そうか。運がなかったな」


 命はある。

 前向きに解釈するならギリギリ負けていない。


「董卓の側近たちに叩き潰された場面まで覚えている。董卓が剣を抜いたから、絶対に首をねられると思った」


 仲裁に入ったのは劉協らしい。

『ここにいる兵士を傷つけることは許さない』

 そう発言する姿は堂々としており、さしもの董卓もひれ伏した。


 二百人の命が救われた。

 呂青は台車で洛陽まで運ばれた。


 すべてを語ってくれた呂琳の目元は真っ赤になっている。


「お祖父様と父上はいるか?」

「奥の部屋で話している」

「そうか。母上たちは?」

「それがね、いないの」

「いない? 妙だな」


 洛陽は混乱しているから、英姫が娘たちを連れ出すとは思えなかった。


「使用人に行き先を告げていないのか?」

「慌てて出ていったって。高順と張遼が兵を連れて探している」


 答えは意外なところからやってきた。


 激しく門を叩く音がした。

 呂布が対応に出ると同年代の男が立っていた。


「呂布! 大変なことになった!」

「なんだ、李粛りしゅくか」


 李粛は董卓に従軍しているが、呂布とは古くからの友人である。


「お前の妻子が董卓軍にさらわれた」

「何だと⁉︎」

「今朝のことだ」

「とりあえず中に入ってくれ」


 一つの部屋に呂布、丁原、李粛、呂青、呂琳が集まる。


「呂布が大怪我した。そう嘘をついて奥方たちを連れていった」

「英姫たちは無事なのか?」

「今のところは」


 李粛は悔しそうに唇を噛んだ。


「人質に取られた。俺は奥方を知っているから気づけた。小さな子供二人も一緒だった」

「并州軍が降伏しなければ俺の家族を殺すと?」

「董卓は兵士を欲しがっている」


 呂布が壁を殴りつけると大きな穴が空いた。


「おのれっ! 卑怯な!」

「俺なら軟禁場所を調べられる。取り返すなら早い方がいい」


 丁原はさっきから目を閉じている。


「親父、董卓と決戦しよう。万に一つくらいの勝ち目はあるだろう」


 呂布がそう言えば、


「丁原殿、私も協力する。一千の兵なら動かせる。今回のことで董卓の本性が分かった」


 李粛も董卓からの離反を申し出た。


「血迷うな、奉先。妻子のみならず五千の兵まで殺す気か。李粛殿も一緒だ。勇気があることと、友人のために死ぬことは違う」

「董卓に降伏しろというのか⁉︎ 親父はそれでいいのか⁉︎」

「よくない。董卓は巨悪だ。倒すべき相手だ」

「だったら……」


 丁原は自室から愛用の剣を持ってきた。


「奉先にこの剣をやる。俺の首を斬るのだ。董卓のところへ持っていけ」

「いきなり何を言い出すのだ⁉︎」

「董卓は猜疑心さいぎしんが強い男だ。俺が降伏したところで信用しないだろう。でも俺の首を持っていけば話は別だ。并州軍のことを重用するようになる」

「できるわけないだろう⁉︎」

「だからこそだ!」


 呂布と丁原が口論する姿を呂青は初めて目にした。


「俺は董卓の首が欲しい。そのために自分の首を差し出す。これは俺と董卓の勝負でもある」

「分かってたまるか! そんな理屈!」

「丁原が決戦を主張した。周りは止めようとした。最終的に殺すしかなかった。董卓にはそう説明しろ。李粛殿が証人になってくれる」


 呂布が泣いた。

 李粛も泣いた。

 そんな二人を丁原は抱きしめた。


「俺はもう五十年生きた。孫四人の年齢を足した分より長い。これからはお前たちの時代だ」


 呂青と呂琳も抱きしめられた。


「自慢の息子夫婦と孫たちに恵まれた。これに優る人生の喜びがあろうか。たとえ血はつながっていなくても一つの家族だ」


 丁原は好々爺の顔になった。

 悲壮な空気は微塵もまとっておらず、機嫌が良い時の丁原そのものだった。


「すまないな、奉先。お前には父親殺しの罪を背負わせることになる」

「拾ってもらった恩に比べたら大したことじゃない」


 剣の鞘が払われる。

 呂布は両手を添えて、大きく振りかぶった。


「呂布奉先という男を養子に迎えた。俺の人生で一番の誇りだったよ」


 それが丁原の最後の言葉だった。


 呂琳は首のない丁原の体に抱きつき号泣した。

 床を殴りつける呂青の頬にも光るものが伝った。


『アホな奴ほど簡単に死にたがる』

 丁原のことをコケにされたみたいで無性に悔しかった。


「いいか、李粛、青、琳。俺はこの剣で必ず董卓を斬る。必ずだ」


 この夜、洛陽には赤い月が浮いていた。

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