第8話 勉強をスタートさせる

 五歳になった。

 一番大きな変化は二人目の妹が産まれたことだ。


 名を呂蓮りょれんという。

 今は生後二ヶ月だから、英姫のおっぱいを夢中で吸っている。


 呂琳は姉になれたことが嬉しくて毎日がお祭りといった様子だった。

『妹ができた! 妹ができた!』と走り回っては、勝手に転んで『イタタタタッ……』とすねを抱えていた。


 呂青はヒマを持て余す毎日だった。

 この時代には幼稚園や小学校といった代物はない。

 私塾のようなものなら存在するが、さすがに五歳じゃ門前払いを食らうのがオチだろう。


 う〜ん、文字の読み書きを覚えるべきか……。

 でも、独学じゃ厳しいだろな……。


 この時代を生きる人にしては珍しく、呂布も英姫も文字を理解していた。

 つまり英姫は豪族の娘ということになるし、呂布も丁原に拾われてすぐ学問を叩き込まれたことになる。


 やるか、勉強。

 いつか向き合う運命だしな。


 幸いなことに呂布の家には常に書物が置かれていた。

 知り合いから借りてきているらしく、ラインナップは季節と共に変わる。


 この時代、書物といえば四書ししょ五経ごきょうが有名だろう。


 四書というのは『論語ろんご』『大学だいがく』『中庸ちゅうよう』『孟子もうし』の四つ。

 五経というのは『易経えききょう』『書経しょきょう』『詩経しきょう』『礼記らいき』『春秋しゅんじゅう』の五つ。


 いずれも儒学者が身につけるべき学問とされている。

 他にも有名な書はたくさんあって『戦国策せんごくさく』や『史記しき』などが後世に伝わっている。


 ちなみに今呂布が読んでいるのは『春秋しゅんじゅう左氏伝さしでん』だった。

 一口に『春秋』といっても複数バージョンあり、もっとも面白いのが『左氏伝』とされている。


 左氏伝で秀逸なのは戦争シーンだろう。

 大小七十二回の戦争が登場するわけであるが、勝った負けたの結果にとどまらず、決着に至るまでのプロセスが記載されていたりする。


 ん? 待てよ。

 ここまで詳しいってことは、前世で読んだ経験があるのだろう。


 さっそく開いてみた。

 この時代の本は紙じゃない。

 竹をつなぎ合わせた巻物である。

 紙は高価すぎるのだ。


 呂青は庭に出ると、木の枝を拾って地面に文字を書き写していった。

 せいとかという国名は懐かしいし、管仲かんちゅう鮑叔牙ほうしゅくがのエピソードも当然のように知っていた。


 これはもしや……。

 神童が誕生したかもしれない。


 一度書き出すと止まらなかった。

 書くスペースが尽きたら全部消して、また庭の隅っこから文字を書き写していった。


 これは最強の退屈しのぎだった。

 知識の習得にもなるから一石二鳥だろう。


「十年、春、王の正月、公、斉の師を長勺ちょうしゃくに敗る」


 長勺の戦い。

 これは小国の魯が大国の斉に勝利したすごい合戦だ。

 しかも当時の斉を治めていたのは桓公かんこう(春秋五覇の筆頭。名君の一人。太公望の子孫)だから、五十年に一回くらいの番狂わせじゃないだろうか。


「むむむ……子供の手だと文字を書きにくいな……」


 目の前の作業に熱中していた呂青は近づいてくる足音に気づかなかった。

 手元が暗くなったので、ハッとして振り返ると、真後ろに呂布が立っていたのである。


「その文章は春秋か。まさか青、文字が読めるのか?」


 やばっ⁉︎

 ごにょごにょ発音している姿を父に見られちゃった⁉︎


「あっ……いや……これはですね、父上」

「かまわない、続けていろ。文字は書いて覚えるのが一番いい」


 呂布は地面に残されている文字を一通りチェックした。

 間違っている箇所には正しい文字を添えてくれる。


「正しく書き写したつもりですが……」

「書が間違っている。誤植だな。一巻一巻人の手で書き写すから、たびたび字の誤りが含まれてしまう」


 この日以降、呂布はヒマがあれば呂青に読み書きを教えてくれるようになった。

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