第3話

 逃げ道を失った人間の顔に何が浮かんでくるか、亜美はよく知っていた。これまで順調に進んできた道が突然、行き止まりになる。どこかへ道をそれることも出来ず、かといって来た道を引き返すことも出来ない。そういう時、人間の顔には感情が無くなる。ドラマチックな呻吟や狼狽などない。つい先ほどまで持っていた感情がどんなものだったのか、思い出せないほど心は空っぽになってしまう。それは所謂絶望だった。

 当然、老人の顔にもそれが浮かび上がるだろうと亜美は思った。が、死の宣告を聞いた老人の顔には絶望が浮かび上がるどころか、目の奥には何らかの思惑を蓄えているような躍動があった。


「金が必要なら、私が出そう」

 亜美は一瞬、呆気にとられ老人の言葉を頭の中で反芻した。彼女は爪が食い込むほど掌を握りしめ、頬の肉を噛んだ。この期に及んで生に執着している老人に対して、ある種の嫌悪が沸いた。

「悪い提案ではないはずだ。このまま見逃してくれるのであれば、カシワギが提示した報酬の2倍だしていい」

 誰も殺さず、倍の報酬までもらえる。その合理的な提案は返って亜美の心を憤慨させた。

「ねぇ。情けないと思わないわけ?そんなに生きることに固執して。カシワギって人に聞いた。あなたは自分が死んだ後、会社を解体しようとしてるって。確かに自分の力で手に入れたものを誰にも渡したくないっていうのは分かる。でも、それはあまりにも傲慢じゃないの? あなたが会社を潰すことで、どれだけの人が迷惑するとか考えないわけ?」

 老人は静かに笑い、何度か瞬きをすると目を瞑った。

「お前に何が分かる……」


「ええ、分かるわけない。私はあなたのようにあらゆるものを手に入れて人生を謳歌してないから。私はこの体のせいで、あなたのように普通に生活することも、何かに向かって努力することも、そして人並みに失敗することだって出来ない。私には何もない。生きる意味も、希望も。だから……あなたの気持なんか分かりたくもない」

「ではなぜ、金がいる。金では君の身体は治らないぞ」

「……夫の命を救うの。…………このクソッタレみたいな人生で、夫は私の生きる意味だった。あの人のためなら、何だってしようと思えたし、あの人と一緒なら生きることも案外悪くはないんじゃないかって思えた。その夫は今病気に罹ってる。助けるにはお金がいる」

「ならば、私と取引して2倍の報酬で幸せに暮らせばいい」


 亜美は椅子の背もたれに身を預け、項垂れながら鼻で、その持ちかけを笑った。

「心配してくれなくても大丈夫。夫の手術が終わったら、私は離婚する。一緒には暮らさない。いや…………

 改めて口に出してみると、それがもたらす不快感は予想以上だった。腋下に気味の悪い寒気が走って、首筋がゾクゾクと蠢いた。


 ずっと前に決めた事。それはこの仕事を受ける前から決めていた事だった。

『旦那様の病気を治すためには、。それ以外の選択肢はありません』

 夫の主治医の言葉が頭の中に蘇る。

 医者が語る治療費や日程、執刀医のことは頭には入ってこなかった。

 ペースメーカー、それが何なのかは亜美でも知っている。電磁パルスで心臓の動きを助けてくれる機械。

 夫の命はそれによって補助されることで、助かる。機械が止まる時は、彼が死ぬ時だ。つまりそれは、もう二度と会えないことを意味する。そして、夫のいない人生に―

「生きていく意味はない。あの人と会えないなら、私の人生に生きていく意味なんてない。私、死ぬの。この仕事と夫の手術が終わったら。だから、あなたの取引になんか応じない。どうせ、あなたには分からないでしょうけどね、」

 人工呼吸器のバイタルモニターにノイズが走り、点灯していた青いランプが途切れ途切れに点滅を始めた。亜美は椅子に深く座り直し、顔を上げて鼻をすすった。


 午後の日差しをほんのわずかに受ける病室は沈黙に包まれ、老人の喘鳴と電子機器の作動音がその隙間を満たした。

「私にも、妻がいた」

 老人はゆっくりと目を開いていた。両目は白い無機質な天井を見つめていたが、光彩に反射する様々な色はそれ以上に多くの物を目の奥に揺蕩えているようだった。

「妻……?」

「ああ。もうずいぶん前に別れてしまったが…………誰かと競う事が私の人生だった。私にとって他人とは、自分を蹴落とそうとしている敵か、それともおこぼれを狙うハイエナだった。しかし、彼女だけは違った。彼女といるだけで心が満たされるのを感じ、地位や権力に固執する自分がとても馬鹿馬鹿しく思えた。金では買えない幸せ、そう言う言葉を私は詭弁だとばかり思っていた。しかし、彼女はそれを教えてくれた。彼女を幸せにするそれだけでいいのではないかと、私は本気で思ったよ」

「じゃあ、なぜ別れたりしたの」

「怖くなった。信じることがな。…………ある日突然、妻が自分の事を騙そうとしているのではないかという想像が頭から離れなくなった。彼女にそんな素振りはなかった。だが、それがかえって私の猜疑心を強くした。やがて、私は耐えられなくなり………妻を捨てた」

 亜美は窓の外でなびく白いシーツに目を移し、ため息を吐く。

「妻が私を追って、慰謝料や財産分与を迫ってくることを私は期待した。私の警戒が正しかったことを証明したかった。しかし、彼女は私には何も告げず、そして泣き言一つ言わず、私の前から姿を消した。彼女がいた痕跡は何も残らなかった。唯一残ったのは、後悔だけだ」

「でも、カシワギって人は生涯妻を取らなかったって。あの人はこのこと……」

「いや、知ってるとも。知ってるからこそ、私を殺そうとしているのだよ」

 亜美が眉を顰めると、老人は合図するように両眼で彼女を一瞥した。

「私が別れを切り出した時、妻の腹には子供がいた。私の子だ。生きていれば、君と同じかもう少し上くらいになっているはずだ」

「つまり、貴方はその子供に遺産を相続させようとしている……? でも、だったらなぜ会社を解散する必要が―」

 老人は亜美の言葉を鼻で一蹴した。

「相続できるような金は残っていない…………妻と別れた後、私は酷い後悔の念に苛まれた。誰しもが疑ってかかるべきとしていた信条を私は猛省し、人を信じることで自らの心を救おうとした。そして、私は全てを失った。カシワギを含む役員連中は私の遺産を全て、私の死後、会社に相続還元されるよう裏で手を回した。気が付いた時には私には社長であるという地位しか残っていなかった」

 だから、彼は社長でいることにあくまでこだわったのだ。これで合点がいった。彼には最早それ以外何も残っていない。彼が最も恐れていたハイエナ達の手によって、彼が獲得していたはずの獲物は骨の欠片一つ残さず奪われてしまった。


「つまり、長生きしてまで会社を解散させようとしているのは、復讐のためってわけ?」

「それだけじゃない。私は、謝りたい。どこかで生きているはずの妻と子供にすまなかったと一言謝りたい」

「謝りたい? ただ、それだけ?」

「ああ。本当なら、金でその誠意を示すところだが、生憎そんな金はない」

「謝りたいってだけだったら、カシワギって人に頼めばいいでしょ。どこにいるかぐらい、すぐに探せるでしょうし」

「もう、何度も……何度も頼んではいるさ。だが、あいつは決して私と妻とを合わしてはくれない」

「どうして、」

「何を企んでいるのか分からないからさ。渡せるものや与えてやれるものはもう何もないのだが。人を信用できんのさ、私のようにな」

 亜美は唇を噛んで言いかけた言葉を迂闊に漏らさぬよう熟考した。これが自分を騙そうとする虚言なのかそれとも情動に流された本音なのか、亜美は椅子の背もたれに身を預けてじっと考えた。


「昔から諦めが悪い方なんだ。無理だと分かっていても、生きていれば妻や子に一言、すまないという機会があるはずだと思っていた」

「でも待って、だからって私に報酬を渡して見逃して貰おうとしたって、そんなお金……」

 老人の口元がその時初めて笑みを含んだ。

「ああ、元からそんな金などない。君のような子は小切手といっても何も知らんだろうからな。ただの紙切れを渡して、小切手だと言い追い出すつもりだった。だが……ここまでだ」

 老人はぐるりと室内を見回し、呼吸器の中で酷い咳を2,3回漏らした。

「私は君に殺されることにする」

 亜美は乾いた唇を舐め、口ごもった。老人が自分を騙そうとしているようには見えない。本心でそう言い切る言葉の圧に亜美は紡ぐべき言葉が思いつかなかった。

「私の負けだ。君にも背負っているものがある。万策を尽くしたが、私に助かる道はない」

 部屋から逃げ出してしまおうかという気持ちが一瞬起こった。それを引き留めたのは、病室で眠っている夫の姿だった。秤にかけるにはどちらあまりあるほどの質量を持っていた。

「ま、待って、待ってよ。な、なんとか奥さんに連絡がつかないわけ? 電話とか、」

「どこにいるかも知らないんだぞ。心配はいらん。私はもう心を決めた」

「でも、そんな……」

「他に方法はない」

 亜美は椅子から立ち上がり、見下ろすような形で老人を見つめた。何かいい方法はないか― 亜美は必死で頭を巡らせ、考えた。一言、一言謝れればいい。老人の気持ちが伝われば。電話以外にコミュニケーションを取る方法なんていくらでもあるはずだ。

 例えば……例えば?―

『例えば………手紙とかさ』頭を過ったのは夫の言葉だった。



つづく

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