第2話

 生命維持装置。それがどういう仕組みで動き、人間を活かし続けているのか亜美は知らない。別に知る必要もなかった。大切なのは世の中には人工呼吸器だの、補助循環装置だの、血液浄化装置だのがあって、夫にはそれが必要だということ。そして、それに自分が近づけば、たちどころに停止してしまうということ。

 それは呪いだった。救いもなく、解くことも出来ない呪い。呪いが自分と夫を引き裂き、残酷な仕打ちを与える。だが、皮肉にもその呪いこそが、男の言う「仕事」には最も必要な力だった。


「現在、我々の会社は電子部品において、日本のみならず世界的に見てもトップシェアを占める大企業です。あなたには縁遠いかもしれませんが、スーパーコンピューターやスマートフォン、そして腕時計に至るまで我々の商品は世界規模のインフラを支えています。この会社の礎を築いたのが、“先生”です。先生は戦後の間もない頃、闇市での稼ぎを元手に小さな町工場をはじめ、たった一代でここまで成長させて来られたのです。当時、高度経済成長の真っ只中にあった日本には、言葉に出来ない異様な力が満ち満ち、大量消費、経済発展を謳う社会の陰には、どす黒い悪意と欲望が渦を巻いていました。多くの人が希望や野心を胸に抱きながらも、その渦に巻き込まれ、時代の藻屑と消えていきました。そんな中、先生がたった一人でここまで生き抜いて来られたのにはもちろん理由があります。

 先生は人を信用しなかったのです。言葉にするととても陳腐で簡単に聞こえますが、全く人を信用しないというのはなかなか出来る事ではありません。人間生きていれば、どこかで綻びが生まれ、誰かに頼り、すがりたくなるのが性分です。しかし、先生は誰一人として心を許すことはありませんでした。会社の役員はおろか、これまで妻を娶ること

も、子供を設けることもしていません。私は長い間先生の秘書をしてきましたが、この私にも先生は常に猜疑の眼を向けています。それほど、先生は孤高の人なのです。

 私は先生が憎いわけではありません。むしろ、その逆です。一人、努力と忍耐でその能力を練磨し会社を成長させるその一点のみに命を懸け仕事をしてきた先生は私の憧れです。私は先生を心の底か

ら尊敬しています。

 だから、だからこそ、先生を殺してほしいのです」


 カシワギはソファーから立ち、窓の外を見ながら語った。表情は読めなかったが、その口調は酷く落ち着いているようにも感じられた。


「先生は数年前、肺に大病を患いました。酷く悪性の病気で発見するのが遅く、寛解する見込みはほぼないというのが主治医の診断でした。我々としては、その結果に沈痛しましたが、同時にどこか区切りが出来たように思いました。先生は充分、もう充分やり切った。若い世代に会社を任せ、余生を自身の養生のために使ってもいいのではないかと。

 しかし、先生はそれを拒みました。先生はあくまで会社の長であることにこだわったのです。

昨年、病状が悪化してからは、もう自分で立つことや動くこともままならないほど弱り切ってしまいました。それでも、先生は一人、自ら手配した病院に閉じこもり、そこから会社の執務を行うと宣言しただけでなく、自らの死と共に会社を解体すると言い出したのです。

 先ほども申した通り、先生には妻も子もありません。社を継ぐのは役員の中だとばかり思っていた私たちは、先生の発言に動揺しました。もし、先生の言葉通り社の解体が決行されてしまえば、社員及びグループ各社約1万人以上が路頭に迷うことになります。

 先生は既に死後の処理の手続きを始めようとしています。手続きが完済する前に死亡が確定した場合のみ、役員の中から自動的に引継ぎを行うことが出来ます。その為にもあなたには先生の生命維持装置を壊していただきたいのです。

 これは、社員を守る為だけではありません。私は、私は悲しいのです。あれほど立派で、憧憬の的でもあった先生が偏執的で冷たい孤独な人間になっているのが。最近では人工呼吸器を使わなければ、満足に息をすることも出来ません。私はあんな先生の姿を見たくない。どうか、有終の美を語るように偉大なまま安らかに逝ってほしい。死後に無駄な遺恨など残してほしくないのです。

 どうか、どうかお願いします。先生の人工呼吸器を止めて、先生を殺してください」


 5日後、亜美は西生田のとある総合病院を訪れた。最早懐かしさを覚える病院独特の芳香を嗅ぎながら、カシワギに指定された病室へ歩いて行った。

 夫もこんな場所で日がな一日過ごしているのだろうか。途端に胸を圧迫するような思いに駆られ、亜美は考えるのをやめた。これから自分は人を殺そうとしているのだ。余計なことを考えている暇はない。


 病室は5階の突き当り、病院の丁度東端に位置する角部屋だった。一呼吸を置いて、ドアノブに手をかけると、指先に触れた冷たさが針のように脳天を突き抜けていった。

 日当たりこそ悪かったが、流石大企業の社長だけあって、部屋は広々としていた。手前には応接用のテーブルとコの字に曲がったソファーがあり、奥には小上がりの和室まである。そこに人工呼吸器やバイタルサインモニターがなければ、ホテルのスイートルームか何かかと勘違いするような豪華さであった。

 ベッドの上には一人の老人が横たわっていた。ただでさえ、巨大なベッドが彼の痩身のせいで余計に大きく見える。老人の眼は閉じられ、胸元に掛けられた薄い布団が酷く緩慢な調子で上下している。老人は寝ているらしかった。


 これが“先生”―

 亜美は忍び足でベッドに近づき、人工呼吸器を見た。本体と思われる灰色の塊から伸びたチューブが床を這い、老人の口元へと伸びている。正常作動を示す青いLEDが小さく光り、老人の深く乾いた呼吸音と呼応するように電子音が鳴っていた。

 どれだけの接触ですべてが済んでしまうのか、見当がつかない。

 確かに亜美がこの場にいるだけで、周囲の機械が壊れてしまうのは出来る事なら、亜美もさっさと仕事を終えてしまいたかった。今この瞬間、看護師が体温測定や点滴の交換に来てしまえばそこですべてが終わる。長居しないに越したことはない。呼吸器に直接手を触れてしまえば、ものの数分もかからないはずだ。

 亜美は熱い吐息を肺から絞り出すと、人工呼吸器へ手を伸ばしながら老人を見た。

 瞬間、亜美はその場に硬直した。寝ているとばかり思っていた老人の眼が薄っすらと開き、自分を見ていた。

 最初虚ろだった老人の眼は突然、火が灯ったかのように瑞々しさを取り戻し、限界までぐあっと開かれた。


「誰だ……」

 か細いながらも明らかに怒気を含んだその言葉に亜美は気圧され、伸ばしかけていた手を引いて後退った。

「……殺しに来たのか?」

 亜美がたじろぎ、返答に困っている間に老人は続けた。

「さしずめ、カシワギの差し金だろう………どうせ、私を楽にしてやってほしいなどと吹き込まれたか?」

 老人の口調は苦し気な呼吸と入り混じったせいで余計に嘲笑の色を含んでいるような印象を亜美は受けた。彼女壁に手をついたまま、生唾を飲み込み、必死に動揺を隠そうとした。

「……どうして、そう思うわけ?」

「あいつのやりそうなことだ、それ以外で私を訪ねてくる理由などない」

 吐息と共に肩から力がすとんと抜け落ちた。亜美は苦笑しながら鼻をかき、窓の外を眺めた。窓外に見える隣のビルの屋上に干された数枚の真っ白いシーツが風になびいているのが見えた。

「自分で分かってるんなら、一々取り繕わなくていいわけね」

 亜美はベッドサイドに椅子があるのを見て、そのまま座り込む。老人はその様子をずっと目線で追っていた。

「殺さんのか?」

「大丈夫。私がここにいるだけで、全部が終わるから」

 亜美が人工呼吸器を指差すと、老人は全てを悟ったように溜息を吐いた。

機械破壊者ラッダイトか、」

「あの人も私のことをそう言ってた。私が傍にいるだけで、あなたは安らかに眠りにつくって」

「人を殺す気分はどうだ?」

「さあ。でもどんな気分だったとしても、私はあなたを殺さなくちゃいけない。私はお金が必要で、あなたを殺せばお金がもらえる」

 老人はその言葉を聞くと、亜美から天井へと視線を移した。少しの間、沈黙の中で呼吸を続けていた彼は不意に嘲るような笑みを浮かべ、口を開いた。唇はひび割れるほど渇き切っていた。


「人工呼吸器を止めた所で、すぐに看護婦がやって来る。そういうシステムになっている」

 亜美はわざと咳払いをして、椅子に深く座り直した。

「それは、大丈夫みたい。このタイプの人工呼吸器ってナースセンターでバイタルサインが一括管理されてて、不具合があったり、血圧、心拍数に異常があればすぐ通知が行くようになっているらしいけど、私は………その通報システム自体を落としちゃうみたいだから。きっと異変に気付いた時にはすべてが終わってる」

 亜美はカシワギに言われた言葉をそのまま繰り返す。彼がわざわざ機械破壊者と呼ばれる特殊体質の亜美にこの仕事を頼んだのもそれが一番大きな理由だった。もっとも自然でもっともリスクを伴わない殺人。

「それに―」

 亜美はナースコールを掴もうとしていた老人の手を強く握りしめた。

「これはもう使えない」

 片方の手でプラスチック製のボタンをカチャカチャと見せつけるように連打する。しかし、電子音も駆けつける看護師の足音も聞こえなかった。

 老人の手は細く、骨と皮だけでほとんど力など残っていなかった。たとえナースコールが正常に作動していたとしても、ボタンを押すことは出来なかったのではないか、と亜美は思った。

「万事休す、というわけか」

 老人の声は震えていた。

「残念だけどね」



つづく

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