第8話 正ヒロインと悪役令嬢

 私は前世の記憶を次々に思い出した。


 学校でクラスメイトと話してる時の記憶、友達とコスプレしてコミケに行った時の記憶、親と口喧嘩した時の記憶…。


 なんだ、まともな思い出もあるじゃん。


 前世で出会った色々な人達の顔が浮かんできた。水中に浮かんできたそれらを見ながら私は水の中を漂っていた。


 すると、途中でエクレアの顔が浮かんできた。あれ?前世であった人縛りじゃないの?とぼんやり思っていると、エクレアはどんどん近づいてきて、やがて私の腕を力強く掴んだ。


 私の腕を掴んだ彼女は、そのまま私を引っ張って、水面に浮上した。


「ぶはぁーっ!!!!」


 水面から顔を出した私は、思いっきり息を吸った。同じく水面から顔を出したエクレアは、片方の手で私の手を、もう片方の手で金髪の少女の手を掴んでいることを確認すると、魔法を発動させた。


「オメガ・バースト!」


 私は溺れないように必死にもがいていたので、彼女がなんの魔法を詠唱したか聞こえなかった。


 しかし、エクレアが何かしらの詠唱を唱えた瞬間、私達の身体は川から飛び出し、空中にふわっと浮いた。そして、綺麗に水しぶきをまき散らしながら放物線を描き、やがて私達は元居た橋に着地した。


 橋に降り立った私は、両手を地面に付きながら肩で息をしていた。


「…はぁ…はぁ…死ぬかと思った…!」


 私はびちゃびちゃに濡れた顔面を手で拭いながら、エクレアに向かって言った。


「…私も死ぬかと思いましたよ。目を離した隙にお嬢様が川に落下なさってましたので。」


 エクレアは、抱えていた少女を下しながら私に向かって言った。


「もし、お嬢様の身に何かあれば私は…」


「エクレア…」


「クビになってしまいます。」


 エクレアは凛とした顔で言った。


 私は心無いメイドに呆れた目を向けた。


 すると、後ろから突然声が聞こえてきた。


「君達!?大丈夫かい?」


 その声の主は見知らぬおじさんであった。


 恐らく、このおじさんは川に落ちた私達を心配して近づいてきたのだろう。いや、おじさんだけではない。いつの間にか私達の周りには少しだけ人が集まっていた。


「大丈夫です。ケガ等はしていません。お気になさらず。いい年して橋の上ではしゃいでいた大人2人が勝手に落ちただけですので。」


 エクレアが声をかけてきたおじさんに向き直ってそう言った。


「そうか。それならよかった。落ちないように気を付けるんだよ。」


 エクレアとおじさんの話が終わると周りにいた人間達もやがて去っていった。私は自分がクリムブリュレ侯爵家の令嬢であることを悟られないように顔を手で拭くふりをして隠していた。


「ふぅ…なんとか侯爵家令嬢としての面子は保てたようね。」


 私は額を拭いながら、清々しい顔で言った。そんな私をエクレアは呆れた顔で見てきた。


「…何よ?」


「…いいえ、何でも。」


 だが、エクレアはそう言った後も表情を変えないでいた。私はそんな彼女を無視して、私にぶつかってきた金髪の少女の方を見た。


「そっちの子、大丈夫?」


「…うっ…!」


 私が呼びかけると、その金髪の少女はうめき声を上げながらゆっくりと起き上がった。


「…ん!?あれ!?ここ、どこ!?私、どうなっちゃったの!?」


 少女は慌てふためきながら周りをキョロキョロと見まわして言った。


「…どこって橋の上だけど…って、ん!?」


 私は少女に向かって話してる途中で、驚いて言葉を止めた。


 よく見ると私はこの金髪の少女の容姿に見覚えがあることを思い出した。


 彼女は、乙女ゲーム『空の彼方のユートピア』の正ヒロインによく似ていた。


 にわかには信じられないが私は先程、前世の記憶を取り戻した。前世では今井紗季という名前の女子大生であった。この世界とは大きく異なる、文明は発達しているが、魔法が存在していない世界で私は暮らしていた。


 その世界にはゲームと呼ばれる娯楽があった。そして、そのゲームの中に出てくる主人公の姿が、今目の前にいる彼女の容姿にそっくりなのである。


 更に、私自身もその乙女ゲームの悪役令嬢にそっくりで、この世界もそのゲームの世界観によく似ている…。


 これは偶然か…。もしかしてこれが異世界転生というやつか…?


 私は少女の顔を見ながら、口をポカンと開いてそんなことを考えていた。何も言わずにただ顔をジッと見つめられていた少女は、「ん?」と言って小首を傾げた。


「…あなた、名前は?」


 ポワーンとした笑顔で私を見ている彼女に問いかけた。すると、彼女はぱあっと明るい笑顔になり、私に顔をグッと近づけて嬉しそうに言った。


「私はメリル!メリル・メルティカップ!よろしくね!あなたのお名前は?」


「…うっ、ちかっ!」


 私は勢いよく迫ってきた彼女に戸惑いつつも自分の名前を名乗ろうとした。


「ええっと、私はヒルノ。ヒルノ・クリムブリュレ…っ。」


 私は自分の名前を名乗った後、少し違和感を感じた。


 …なんだ、この名前?


 昼の…クリームブリュレ?…何?三時のおやつ?


 今までこの世界で名乗ってきた名前だけど、改めて考えてみると、物凄く違和感を感じる…。母さんはふざけて私に名前を付けたの?…いや、でも、一度も変な名前だと他人から言われたことはなかったはず。


 …こっちの世界だとそんなに変な名前ではないということだ。現に、私も今日まで一度も変な名前だと思ったことはない。もし、この世界が『空の彼方のユートピア』に習った世界なのだとしたら全然普通の名前なのかもしれない。


 …『空の彼方のユートピア』の悪役令嬢って、こんな名前だったっけ…?


 いや、絶対にこんな名前じゃなかったはず。


 『空の彼方のユートピア』は正統派の乙女ゲームだ。こんなふざけた名前を付けるわけがない。


 私の記憶が正しければ、もっとちゃんとした名前だったはずだ。


 それに正ヒロインの名前だって、メリルではなかったはずだ。


 やっぱりここはゲームとは関係のない世界なのだろうか?それとも…


 そんな考えを頭の中で巡らせていると、メリルがそれを遮るように話し出した。


「じゃあ私、ヒルノちゃんのこと、ヒルノちゃんって呼ぶね!」


「…え、ええ。」 


「うわー!!すごーい!本物のメイドさんだー!!」

 

 メリルは私の横にいるエクレアの姿を見ながら嬉しそうに言った。私は、テンションの高い彼女に困惑しつつも、丁寧に説明しようとした。


「彼女は、私の家に数年前から仕えてくれてるメイドで、名前はエクレア・ホーバルン…ぷっ。」


 私はエクレアのフルネームを言った後に、笑ってしまった。エクレアが不思議そうな顔で私に目を向けた。それに気づいた私は、慌てて両手で口を押さえた。


 よくよく考えてみると彼女の名前も少し変だ。


 エクレア…ホーバルン。


 なんだ、このエクレアを頬張ってるみたいな名前は。


 私の頭の中では、エクレアをむしゃむしゃと頬張る彼女の姿が映し出されていた。


 しばらく怪訝そうな顔で私を見ていたエクレアだったが、やがてメリルの方に向き直ると軽くお辞儀をした。


「いいなー!私もエクレアちゃんみたいなメイドさんにお世話してもらいたいなー!」


 メリルはエクレアのことを目を輝かせながら見て言った。何とか笑いを堪え切った私は咳払いをしてから言った。


「こんなメイドでよければいつでも雇ってくれていいわよ。」


 すまし顔でそういった私をエクレアは睨んだ。その後、彼女は呆れ顔で私に言った。


「お嬢様、そのままの濡れた格好では風邪をひいてしまいます。どこかで着替えましょう。メリル様も。」


 エクレアは私からメリルに目線を移しながら言った。メリルは、そんなエクレアに対して、首を振りながら笑顔で答えた。


「私は大丈夫だよ!待ってる人がいるから!ヒルノちゃん!エクレアちゃん!またねー!」


 メリルはそういうと私達に手を振りながら、びちょびちょに濡れた服のまま走り出した。私は、急に走り出した彼女を止めるかのように手を伸ばした。


「えっ?あっ、ちょっと…!」


 しかし、私の声を無視するかのように彼女は遠くの方へ駆けていってしまった。





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