第16話

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 私は薄暗闇の中を独り、硝子張りの天井を眺めていた。死という恐怖をゆっくりと体に馴染める為に、月をただ見つめる。揺らめく月は、こんな暗がりまで光を届けて私を勇気づけてくれていた。決心はついたのかもしれない。そう思わないと駄目になってしまいそうで…全ては流れるまま。身を任せれば大丈夫。きっと。


 「汐音!」


 凪は来た。来てしまった。私は少しほっとしてしまう自分がいることに気づく。決心なんかできていなかった。凪はなんで……なんでこんな所にまで…身体中血まみれで。どうして。どうして来てしまったの。

 恐怖が和らいだのか私の目から涙が流れ出す。

 流れ出した涙を腕で涙を拭い、どうにか平然を装って凪に言葉を返した。

 「こんなところまで来てくれたんだ。そんな血まみれになってまで。凪は優しいんだね。」

 「汐音、帰ろう。僕らの居場所に。」

 凪は…とても頼れる存在になっていた。あの時よりずっと。でも、私は帰ることは出来ない。ここで帰ってしまったら、私は死んでも後悔することになる。私の為にも、凪の為にも。私は凪の為に、この身を海に捧ぐ。


 ようやく決心がついた。最後に、きちんと——別れを告げないと。

 「ごめんね凪。もう帰ることは出来ない…海に誓ったの。あなたの一部になるって。だからもう駄目なんだ。ここまで来させておいて、こんな事を言って。本当にごめんね。私たちは一緒にいられない。」

 「そんな……もう君を救うことは出来ないって、まだどうにかできるはずだ。そう言ってよ汐音…」

 「もう決まってしまった事なの。そんな悲しがらないで。ね?」

 「顔を…顔を見せてよ汐音。僕らならどうにかできるさ。」

 壊れかけの笑みを作り、ゆっくりと螺旋階段を降りた。そして凪の正面に立ち、凪の瞳をじっと見つめる。瞼が腫れていて、顔が真っ赤になっていて、そんなに泣いているのを見たのは初めてだった。

 「嘘だと言ってよ。汐音…どうしてそんなに笑っていられるんだ。何で、そんな悲しそうじゃないんだよ。」

 「笑顔は大事だからね。そんな泣かないで、何も心配しなくても大丈夫だよ。だから笑って?」

 私は泣いている凪をそっと抱きしめ、優しく頭を撫でた。

 「大丈夫だから。」

 凪は、とても温かかった。きっと私が震えているのにも気がついているだろう。震えというのはなかなか消えないものだから。

 「ねぇ、憶えてる? 海に空を放った話。あれ全部嘘なの。私は無力だから。あなたを助けるためについた嘘。私は嘘つきなんだ。ごめんね。本当のあなたの助けになってあげられなくて。結局私はまた凪を傷つけてしまうことになって。私は凪に謝ることばっかりで。」

 本当にそうだ。私はいつだって虚言を吐いて、言葉がどれほどの強さを持つのかも知らずに嘘をつき続けてきた。もっと上手くできていたら、凪は幸せになれたのだろうか。悔しさばかりが募る。

 「謝らないで。僕は……僕の我儘わがままな思いで来たんだ。汐音が謝ることじゃない。助けられてばかりだ。あの時、汐音が手を差し伸べてくれなかったら僕は。汐音がいたからここまで来れたんだ。そんなこと言わないでくれ。」

 凪は私を強く抱き締めた。けれど私は凪を抱き返せなかった。

 別れの時がもう近づいてきているから。ここで私が躊躇ためらうと、全てが台無しになってしまう。我慢をしなきゃ。本当は強く抱き締めたかった。

 頑張ったねって、そう言ってあげたかった。慰めてあげたかった。私はどんな言葉を返してあげればいいのだろう。せめて少しでも安心してもらいたい。凪がこれから強くある為にも……私はゆっくりと言葉を紡ぐ。

 「私は海に還るんだよ。胎児と同じ、幸せに包まれるの。海は母なんだよ。全てを優しく受け止めてくれる。時に優しく、時に厳しく、母は、全てを見ているの。だから何も怖くない。だから…ね?」

 私は、凪の手を引いて少し広い場所に連れていった。海に捧ぐ踊りをする為に。

 水を纏い、煌びやかなドレスとして着飾る。

 「さぁ、お手をどうぞ。王子様。」

 それは私にとってのウエディングドレスのようなものだった。

 「強く握って。流されてしまうわ。」

 凪は何も言葉を話さず、ただ手を強く握った。私は話が途切れないように言葉を続ける。

 「二人きりの舞踏会って考えたこともなかった。こんなに幸せなことがこの世界にあったなんて。最期に知れてよかった。」

 

 「君は後悔していない?」

 「私は、凪がいるから大丈夫。何も怖くない。幸せだよ。」

 どうにか笑顔を取り繕うので精一杯だった。こみ上げてくる涙を抑えるために、空を見上げる。そして私は凪に語りかける。

 「空を見て。」

 凪は空を見つめる。

「月の光が届いているでしょう。まるでシャンデリアかのように。水を縫いながら私たちの元まで淡い光を届けているの。どんな時だって幸せはあるものなのよ。月より美しいものはないわ。空に真っ白な花が咲いているのがなんて心強いことか。大丈夫。だから大丈夫。心を手放そうなんてしないで。思い出が全て消えることはないの。記憶は本当に大切なことを憶えていてくれる。」

 「汐音は、僕を忘れないでいてくれる?」

 「もちろん。凪は、私にとって大切な存在だから……もう踊りが終わってしまう。」

 あぁ……もう、笑っていられないな。我慢ができない。あと少し我慢できると思ったのに。だめだ……涙が止まらない。さよならを…しなくちゃ。もっと踊っていたかったな。もっと凪と話していたかったな。だけどお別れをしないと——

 分かってる。分かっているんだけど、言葉が出てこない。私は私を演じきれない。私という像が、どんどん崩れ去って、仮初めの自分が消えていく。けれど、今。今足を止めてしまえば、私はまた大切な何かを失ってしまう気がする——何度も繰り返してきたことじゃない。失うのはもう嫌だ。だから頑張ってきたっていうのに。こんな所で挫けちゃダメなんだよ……全てを終らせないと。私は意を決して、震える唇で凪に別れを告げた。

 「最後までいてくれてありがとう。本当に心強かった。凪、さぁ笑って。さよならを悲しみに満ちた顔で終わらせたくないの。最後は笑顔で終わりにしましょう。ね?」

 そして自分ができる最大級の笑顔を凪にする。

 その直後、海が完全に私たちを包み込んだ。凪は何か言葉を口ずさんでいたけれど言葉は全てあぶくに変わって、空へ昇っていってしまった。最後に凪の声を聞くことが出来ないのは残念だな。


「大丈夫。貴方の気持ちは全部伝わっているから。すべて幻だと思えば…」

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