第11話

「汐音!」

 水は、もう膝下まで浸水している。急がなければ。

 

 「こんなところまで来てくれたんだ。そんな血まみれになってまで。凪は優しいんだね。」


 汐音は螺旋らせん階段の先にいた。

 「汐音、帰ろう。僕らの居場所に。」

 「ごめんね凪。もう帰ることは出来ない…海に誓ったの。あなたの一部になるって。だからもう駄目なんだ。ここまで来させておいて、こんな事を言って。本当にごめんね。私たちは一緒にいられない。」

 「そんな……もう君を救うことは出来ないって、まだどうにかできるはずだ。そう言ってよ汐音…」

 「もう決まってしまった事なの。そんな悲しがらないで。ね?」

 「顔を…顔を見せてよ汐音。僕らならどうにかできるさ。」

 汐音は何も話さず、螺旋階段を静かに降りてきた。

 

 

 汐音は透き通っていて、いつ消えてもおかしくない装いをしていた。僕は言葉を発することが出来なくなってしまった。彼女はもう、救うことができないという現実があらわになってしまったから。希望の光が薄らと消えていった。


 「嘘だと言ってよ。汐音…どうしてそんなに笑っていられるんだ。何で、そんな悲しそうじゃないんだよ。」

 「笑顔は大事だからね。そんな泣かないで、何も心配しなくても大丈夫だよ。だから笑って?」

 僕は、笑うことが出来なかった。泣いているのにも今気づいたのに。涙が止まらない。あぁ。どうすればいいんだ。とめどなく溢れてくる。彼女は泣いている僕を抱きしめ、そっと頭を撫でた。

 「大丈夫だから。」


 彼女は、酷く冷たかった。そして震えていた。僕を悲しめない為に、強くあり続けた。

 「ねぇ、憶えてる?海に空を放った話。あれ全部嘘なの。私は無力だから。あなたを助けるためについた嘘。私は嘘つきなんだ。ごめんね。本当のあなたの助けになってあげられなくて。結局私はまた凪を傷つけてしまうことになって。私は凪に謝ることばっかりで。」

 「謝らないで。僕は……僕の我儘わがままな思いで来たんだ。汐音が謝ることじゃない。助けられてばかりだ。あの時、汐音が手を差し伸べてくれなかったら僕は。汐音がいたからここまで来れたんだ。そんなこと言わないでくれ。」

 僕は汐音を強く抱き締めた。


 「私は海に還るんだよ。胎児と同じ、幸せに包まれるの。海は母なんだよ。全てを優しく受け止めてくれる。時に優しく、時に厳しく、母は、全てを見ているの。だから何も怖くない。だから…ね?」

 彼女は、僕の手を引いて少し広い場所に連れていった。

 君は水を、きらびやかなドレスとして身に纏う。

 「さぁ、お手をどうぞ。王子様。」


 それは彼女にとっての死に装束だった。


 「強く握って。流されてしまうわ。」

 僕は強く握る。君が離れてしまわないように。

 「二人きりの舞踏会って考えたこともなかった。こんなに幸せなことがこの世界にあったなんて。最期に知れてよかった。」

 

 「君は後悔していない?」

 「私は、凪がいるから大丈夫。何も怖くない。幸せだよ。」

 君はずっと笑っている。

 「空を見て。」

 僕は空を眺める。

「月の光が届いているでしょう。まるでシャンデリアかのように。水を縫いながら私たちの元まで淡い光を届けているの。どんな時だって幸せはあるものなのよ。月より美しいものはないわ。空に真っ白な花が咲いているのがなんて心強いことか。大丈夫。だから大丈夫。心を手放そうなんてしないで。思い出が全て消えることはないの。記憶は本当に大切なことを憶えていてくれる。」

 「汐音は、僕を忘れないでいてくれる?」

 「もちろん。凪は、私にとって大切な存在だから……もう踊りが終わってしまう。」


 彼女は涙を流す。


 「最後までいてくれてありがとう。本当に心強かった。凪、さぁ笑って。さよならを悲しみに満ちた顔で終わらせたくないの。最後は笑顔で終わりにしましょう。ね?」

 汐音は最大級の笑顔を見せた。

 その直後、海が完全に僕らを包み込んだ。彼女の涙が海に溶けていく。言葉は全てあぶくに変わり、空へ昇っていく。言葉は紡げない。


「大丈夫。貴方の気持ちは全部伝わっているから。すべて幻だと思えば…」


 君はひたいに口付けをした。

 「ばいばい」

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