第9話

 彼女は純粋だった。僕はその美しい澱みのない湖に、泥や汚水を流し込み、けがしてしまった。穢れを知らぬ純粋な心に、僕は…もう彼女を助け出すことは出来ないのか。


 何か歌が聞こえる。到頭とうとう、幻聴が聞こえるようになってしまったのか。彼女を救う前に死ぬなんて、無様だな。

 あぁ神様、どうか…どうか彼女を救ってください。どうか彼女を地獄の縁から助け出してください。僕がどうなってしまっても構いません。彼女が、彼女だけが幸せなら僕は……



 居るはずのない神に、願い事をした。僕には後がないらしい。頼みの綱は、存在するかも解らない神様だ。あんなに居ない居ないと否定してたのに、結局僕は、神に頼ってしまった。

 人はすがらないと生きていけないのか。


 虚構の存在に人は縋り、自分を保とうとする。自然現象は全て神が行ったもの。不幸が起これば神の天罰という。

 自分じゃどうにもできないものを、神のせいにし、それを本当にいる存在だと考え、怒りを鎮めようと崇め奉る。


 なんて哀れなんだろう。自分の無力さを認めればいいのに。この世界において、人間は渺々びょうびょうたる存在で、神秘に魅せられ、恐れ戦き怯えようが結局の所、何一つ変えることも出来ず終わってしまう生物の一部なんだ。 


 どうせなら、最期は人間らしく終わろう。何にでも縋ってやる。神にだって祈る。超常現象を起こしてみせる。恥を捨てよう。穢れにまみれよう。穢らわしき哉、人生。


 所詮僕は人間だ。

 煩悩だらけの獣だ。言葉と知で自分を覆ってしまっても、化けの皮は剥がれてしまう。彼女の為になら、なんだってやってやるさ。僕は、自分の愚かさと無力さを認め、代わりに倫理と未来を捨てた。明日のことなんて考えてられない。

 僕は再び立ち上がり、岩壁に手を掛ける。修羅の如く、激情に支配され、全ての力を壁につけた。 


 壁は、動き出した。奇蹟きせきが起こったのだ。その、人が一人通れるほどの狭い隙間に戸惑うことなく、頭を突っ込んだ。迷いはもうない。


 ただ前を目指し進むのみ。外はもう、闇に包まれていた。相当な時間を牢屋の中で過ごしたらしい。


 耳を澄ましてみる。まだ讃美歌は歌われている。このまま、ゴンドラ置き場まで目指せば、何とか間に合うはずだ。十数粁    キロ先にあるゴンドラ置き場を目掛けて、裸の足で全力で走り始めた。

 地面蹴り、風を切る勢いで激しく腕を振った。



 

ただただ走った。走り続けた。足からの振動が、呼吸を乱す。心臓の律動りつどうが狂い始める。それでも走った。鈍い痛みを足裏に感じる。温かな液体が流れる感覚が分かる。走った。走った。走らなければ。後悔をする。もうそれだけは嫌だ。走った。ただ走った。肺が熱い。心臓が痛い。目が眩む。口が乾く。それでも走った。僕には走る事しか出来ない。走る。走り続ける。たたそれだけを延々とこなす。君に会いたい。会いたかった。だから走った。走り続けた。呼吸の仕方を忘れてしまう。それでも走ることを考えた。気を失いかける。どうにか踏ん張る。あと少しだ。もう少しで、君に会える。歌はまだ聞こえる。もう、すぐそこに。










 きみはいなかった。

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