1-5 四十万
「そうと決まったら、まずはウェルデンに向かうとするか!」
細かいことは道すがら教えてもらうことにして、旅の目的地であるウェルデンへ向かうことにする。彼としては街に行くよりも辺りを冒険したいようだったが、僕の装備があまりに貧弱なので、街で装備品を整える必要があるとのことだった。
「おかしいな、栖原さんはいいオプションが付いてるって言ってたのに……」
転移の際に持っている初期装備は、基本的に旅行のオプションとして事前に選ぶことができるらしい。もちろんいい装備であるほど金額が上がり、ゴンダの持っていたものだと軽く一千万以上を費やしているとのことだった。
ただし、スキルや魔法などは選ぶことができず、その人の素質によるものだそうだ。元の世界での筋力や体力は関係なく、この世界での能力が再設定される。転移者は基本的にはこの世界の人々よりも高いスキルを持っているが、鍛錬によって上げられるものなので、当然転移者よりも高いスキルを持っている人たちもたくさんいるらしい。
装備やスキルは一度元の世界に帰っても保存しておくことができ、次に転移をしたときも同じものが引き継がれる。そのため、異世界旅行はリピーターが多いようだった。かくいうカジもすでに何度か来たことがあるそうだ。
「それじゃ、行くとするか……」
準備を整え、出発しようとしたそのときだった。
「おい、助けてくれ!」
遠くから叫ぶような声が聞こえてきた。
「あれは、ゴンダのおっさんか……?」
慌てた様子でゴンダがこちらに駆け寄ってくる。何やら尋常ではない様子だった。
「おいおいおい……あのおっさん、とんでもないもん連れてきやがったな……」
よく見ると、彼の後ろから巨大な影が押し寄せてきていた。徐々に近づいてくることで、その全貌が明らかになってくる。
「熊……?」
それは熊に見えた。少なくともフォルムは僕のよく知る熊だった。
ただ、違うのはその大きさ。まだ距離が遠くて正確にはわからなかったが、明らかに普通の熊の何倍もある。
荒れ狂う様子で木々をなぎ倒しながら襲い来る様は、怪獣映画のワンシーンとしか思えない非現実的な映像だった。
「ありゃ、グリズロか。ずいぶんでかいな」
その熊型の魔物は見るからにやばそうな雰囲気だった。先ほどまでは吞気な様子だったカジも、表情を引き締め、腰を落として相手を窺うように視線を外さない。
「やるしかねえか」
今から逃げるのは難しいと判断したのか、カジは斧を前に構えてその巨大なグリズロと向き合う。
「お前は茂みに隠れてな」
言われるがままに彼の後ろの茂みに身を隠す。
しかし、近づくにつれてどんどんその大きさが露わになる熊に対し、カジの持つ斧はあまりに頼りなく見えた。彼には申し訳ないが、到底敵いそうにない。
そういえば、ゴンダが持っていたあの金槌はどうしたのかと思い出す。逃げてくるゴンダの手にはなく、熊の方に目をやると、まるで服に引っかかった木の葉のように二の腕の辺りに小さな金槌がくっついていた。
――無理だ、勝てるわけがない。
そう思ったときには、グリズロはすでに二十メートル手前まで迫っていた。カジは両手で斧をぐっと握り直す。僕はただ天に祈ることしかできなかった。
「クソがああああ!」
自分を鼓舞するような雄たけびとともに、カジが勢いよく踏み込んで熊の方に突撃する。その刃が熊の左足に届こうとしたその瞬間だった。
ちょうど熊の目の前で眩い光が弾けるように広がった。たちまちその光が周囲を包み込んでいく。カジはまるで光に押しのけられるように吹き飛ばされ、僕のいた茂みに身体が突き刺さった。
「大丈夫ですか!?」
「ああ、何とかな……」
木に思い切り頭をぶつけたようだが、大きな怪我はなさそうだった。
「熊は!?」
安堵したのもつかの間、グリズロの方はどうなったのかと目を向ける。すると、驚いたことに、あの途轍もない巨体が綺麗に仰向けで倒れていた。
「お怪我はありませんか?」
倒れたグリズロの代わりに目の前にいたのは、森に似合わぬタイトなスーツを身にまとった男だった。
「ゴンダさんには少々痛い目を見ていただくのがいいかと思ったのですが、他のお客様にも危害を加える形になってしまいました。申し訳ございません」
どうやらグリズロは栖原が倒してくれたようだった。あの巨体を一瞬でひっくり返すなんて、それこそ魔法でも使ったというのか。この飄々とした男ができる芸当だとは思えなかった。
「いやー助かったぜ。正直死ぬかと思ったよ」
「またまた、ご謙遜を。私が割り込まなくても対処できたでしょうに」
そんな風に軽口を叩きながら、栖原は倒れたグリズロの巨体に手をかざし、その手を思い切り空に向かって振り上げる。すると、その動きに連動するように熊の身体が宙に持ち上がり、そのまま森の中へ飛んで行ってしまった。
「おい、お前! 客が死にかけてるというのに来るのが遅すぎるだろう! 私が殺されていたらどう責任を取ってくれるんだね!」
いつの間にかいなくなっていたゴンダが姿を現し、栖原に向かって激しく詰め寄る。あんなに自慢げに語っていた角付きの兜はなくなっていて、髪の毛が汗に濡れたせいで薄くなった頭皮が露わになっていた。その滑稽な姿を見て、助けてくれた相手によくもそんな物言いができるな、と呆れるしかなかった。
「結界の外では、命の保証は出来かねるとお伝えしたはずですが」
栖原はどこかで拾ったであろうゴンダの兜を取り出し、彼に向かって差し出す。
「そんなことは知らん!」
ゴンダは差し出された兜をひったくるように奪い取ると、その勢いのまま不格好な大股で歩き去っていった。自分が悪いことはわかっている癖に、引っ込みがつかなくなって怒鳴るしかできないようだった。
「それでは、私はこれで」
自分の役割は果たしたというように、栖原はそう言って踵を返して立ち去ろうとする。
「あ、ちょっと待って!」
僕は慌てて彼を呼び止める。これは願ってもないチャンスだった。今ここで彼に頼めば、元の世界に帰してくれるかもしれない。そう思い、彼に帰りたいという意思を伝えた。
「もちろんお帰しすることはできますが、その場合、帰りの転移費は自腹でお支払いいただく形となります」
しかし、転移費という予想外の言葉に僕の望みはあっけなく砕かれた。確かに、普通の旅行でも予定の便以外で帰ろうとすれば、飛行機代がかかるのは当然だ。それはこの異世界という場所でも同じようだった。
「ちなみに、いくらくらいですかね……?」
「四十万円になります」
それは親の脛をかじる貧乏大学生には払えるわけもない金額だった。
無理やり連れてこられたことに対し、ごねて何とか帰してもらうことも考えたが、そんなクレーマーのようなことをする勇気もなかった。どうすることもできないまま、再び栖原は不敵な笑みを残して去って行ってしまった。
どうやら僕はいつ死ぬかもわからないような恐ろしい世界で、これから一か月も過ごさなくてはならないらしい。その事実を改めて突きつけられ、絶望するしかなかった。
「まあ、旅行を楽しもうじゃないの」
肩を落とす僕をカジは笑いながら慰めてくれる。しかし、あんな目にあってどうしてこんなにも楽しそうなのか、まるで僕には理解できなかった。
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