第7話 幼くても推さない理由はない


 いったいどうして忘れていられたんだろう。


 私は幼い頃、みら井さんと出会っている。

 幼い頃っていうか、まだ彼女を推さない頃だったので印象が薄かったのは仕方ないのだけど。なんで再会してすぐ気づかなかったんだ。


 いや、幼い自分は責められまい。彼女とはすれ違っただけ。その後のインパクトのほうが強すぎたのだ。


 あれは私が六歳の、薄着には厳しい寒風が吹き始める初冬のことだったと思う。


 両親が放任主義だった私は、一人でちょっと離れた友人の家に遊びに行って一人で帰ってくるような子供だった。今に思えば非難囂囂ひなんごうごうでも仕方ない教育方針だけど、私はどんな時も信号を見てから横断歩道を渡るような割としっかりしたお子様だったので、両親も信用してくれていたんだと思う。


 その日も私は一人で夕暮れ時の中を小走りに帰っていた。少し遅くなってしまったとか、そんな理由だったと思う。その時に見たのだ。


 何かを探すようにして駆けるみら井さんを。


 目についたのは、彼女がまだ夏服を着ていたからだ。もう長袖に上着を羽織るのが当然の気候だったから、彼女の格好は悪目立ちしていた。けれど彼女はそんな視線に気づかないようで、その姿があまりに必死な形相だったから、私は思わず立ち止まって目で追ってしまったのだ。


 すると私の視線に気づいたらしく、彼女も足を止めた。


 肩で息をする彼女は今にも泣きそうな顔をしていて、痛々しかったのを覚えている。


「お姉さん、大丈夫?」


 そう声をかけるとみら井さんは辛そうな表情をさらに歪めた。まるで欲しかった言葉を貰った贖罪人みたいに。けど彼女は目頭にぐっと力を込めてすぐ走り去っていった。私はまさか見ず知らずの彼女を引き留められるわけもなく、見送ることしかできなかった。


 あの出来事があったのは、その直後だ。


 もう少しで家につくという時だった。大型のバイクが歩道に乗り上げ人を轢いた。説明すればそれだけの話。けれど、私にとってはもっと別の意味を持っていた。


 私は、バイクの挙動がおかしいことに気づいていた。その先に居た女性が、このままだったら轢かれてしまうだろうことも。六歳の私は無意識のうちに女性を助けようと駆けだそうとし──足を止めた。


 間に合わないと直感的に理解したからじゃない。私を追い越し、先に駆けだした人が居たからだ。


 もう寒い時期なのに夏の制服を着た、どこか私に似た女子高生。彼女は轢かれそうだった女性を突き飛ばし、代わりに自分がねられた。


 吹き飛んだ身体と、舞い散る血飛沫ちしぶき。それと熟れ過ぎたトマトのように落ちた身体へ、悲鳴を上げて駆け寄るさっきの女の人。そういえば二人は同じ服装をしているなと、この時思い至った。


 みら井さんは今度こそ泣いていた。それで分かったのだ。彼女の探し人があのねられた女子高生だったのだと。


 私はその光景をスクリーンの向こう側を眺めるように立ち尽くしていた。生まれて初めて見る事故現場は子供の心にショッキング過ぎたのだ。とても現実のものとは思えなくて。けれど、手の届くところにそれはあった。


 動けない私の中を、一つの思考が埋め尽くしている。


 あのままだったら、私が彼女の代わりにバイクにかれていたのだろうと。そんな血の気の引く事実。


 気づくと二人の女学生は姿を消していた。まるで初めからそこにいなかったかのように。残された血溜まりだけが、事故の被害者がいたことを物語っていた。


 私がモブに徹しようと決めたのは、この瞬間だったのだ。



      ☆   ★   ☆



「寒っっっっむ!!」


 懐かしいことを思い出していた私は、半袖薄手のついでに汗で湿った衣服で寒風吹きすさぶ路上に放り出されていた。全身が寒いと叫んでさぶいぼが立っている。私は自分の身体を抱きしめるようにして腕をさすった。


「ここは……」


 日暮れの風景。明らかに変わった季節。そしてさっき思い出した光景。


「そういうこと、だよね」


 全部繋がった気がする。今井さんが事の詳細を覚えていなかったのは仕方ない。あれだけ酷い現場だ。私だって今の今まで忘れていたんだから。きっと精神を守るために防衛本能が記憶に鍵をかけていたんだと思う。

 けれど思い出したからには、


「結果が分かってても見捨てられない、よね」


 さすがに現場の場所までは覚えていない。それでも私は歩き出した。


 私は現場にたどり着けたのだ。きっと今回も意識せずとも引き寄せられる。歴史の修正力というやつを信じてやろう。


「まぁ記憶通りなら、私は下半身スプラッタになっちゃうわけだけど……」


 そこはまぁ、みら井さんを信じるしかないか。う~ん、推しに命運を左右されるとか。ファンが得られる幸福の極みでは? 推しに命を握られてる感覚。アドレナリンがドバドバして興奮が過去最高潮です。これたぶん麻薬よりヤバイ。健康にもよくて気分まで上がるのもはや万能薬では? 心なしか寒さも薄らいできた気がする。


 すごいな。推しが万病に効きすぎる。

 今井さんには沢山のものを貰いっぱなしだ。


 さぁ、今度こそ彼女の幸せを守りに行こう。



      ☆   ★   ☆



 見覚えのある横断歩道を探していると、先に見覚えのない幼女を見つけた。


 小さい身体に小さいコート。親とはぐれたらしく涙目で路上を彷徨う無垢な天使エンジェル。間違いないです。六歳の今井さんです。私は彼女を見つけて思わず電柱に隠れ、鼻息を荒くしていた。


 ちっこい今井さんだ! いやロリ井さん。もはや過去井さん! な、なんとお呼びすればよろしいので? はぁはぁ。推しはロリになっても可愛すぎる。守りたい、この幼女。そうか。私はこの可愛い幼女をこっそり見守っていてあの事故現場に行きついたんだ。


 さすがストーキングのプロ。あいや見守りのプロ。幼女に近づく変質者には容赦しないぜ! それがたとえ自分自身でもね! 私みたいのがあんなか弱い今井さんに近づいていいはずがない。話しかけたりしたら間違いなく気持ち悪いネチャッとした笑顔になる自信があるから。幼女のトラウマになるのは人生に一度で結構! なので一定の距離を保って護衛します。


 うん、ここまでは順調に運命のまま進んでいるらしい。幼女時代の私のほうは無事みら井さんに初恋を奪われたろうか。あいや間違った。無事エンカウントできたろうか。なに急に告白してるんだ私。びっくりしたわ。自分でも気づいてなかった淡い想いを独白にぶっ込んでこないで私。


 そして現場にたどり着いた。


 沈みゆく夕日。すっかり冷たいコンクリート。とぼとぼ心細そうに歩く過去井さん。遠くに子供を探す女性がいる。そのさらに向こうから、挙動のおかしな大型バイクが猛スピードで走って来ていた。


 私は駆けだした。躊躇ためらうことなく、衝動のままに。周りを気にする余裕はない。とにかく、あの女性を助けねばという思いだけが身体を動かす。幼い頃は間に合わなかった。けれど、今の成長した自分なら十分に間に合う。


 タイヤが縁石に乗り上げる。バイクが跳ねあがって回転しながら突っ込んでくる。私はその延長線上にいた女性を思い切り突き飛ばした。一瞬の出来事だというのに、女性の驚いた表情が分かった。なるほど目元が今井さんにちょっと似てる。推しの面影と人妻というエッセンスがこんな時でも心をたかぶらせますわ。


 くだらない思考は現実逃避だったのだろう。バイクの影が私を覆う。心臓がぎゅっと縮こまり血の気が引いていく。怖いと、ようやく恐怖が私に追い付いた。勢いに任せて女性を突き飛ばしたから避ける余力なんてない。記憶の中の血溜まりが脳裏を占めてパニックに──


 直後、私は後ろに思い切り引っ張られた。


 気づくと私は私を引っ張った誰かと一緒に尻餅を着いていた。飛んできたバイクはさらに転がって道路脇の茂みに落ちたみたいだ。どうやら巻き込まれた人はいないらしい。


 安堵あんどして振り返ると、そこにいたのはやはりみら井さんだった。大粒の涙を目に溜めて、頬袋を膨らませている。どうにか泣くのを耐えているらしい。


 向こうから幼い私が今井さんを呼びながら駆け寄ってくるのが分かる。


 私は身体をひねってみら井さんに向き合った。彼女の手はまだ震えている。言葉が出ないのか黙りこくったままだ。


 彼女のすべてが愛おしくて、私はその頭を優しく撫でた。


頼ってくれてありがとう、今井さん」


 あの時のみら井さんは間に合わなかった。きっと、その現場にみら井さんがいたという事実が、そもそもあの時空には存在しなかったからだ。


 私一人じゃ今井さんのお母さんを救うだけで精一杯。後のことなんて考えて行動する余裕はない。だからそこから先は賭けた。今井さんが私を利用してくれることを。


 今井さんだけじゃ過去を変えられない。けれどそこにが関与すれば。油性ペンが現実を書き換えれば。きっとみら井さんの言動は時空に残る。を変えられるようになる。


 あの神社で私の言葉を受けたみら井さんはそれに気づいて、幼女な私と行動を共にしたのだ。


 歴史の修正力がある限り、何をしようと現場にたどり着くのは間違いないから。


 あとは、どれだけ命を救えるかの賭け。

 どうやら私は勝負運が強いらしい。私もみら井さんもこの通り無事だ。私に突き飛ばされた今井さんのお母さんは怪我を負っているだろうけど、そこは勘弁してほしい。知っていてもやっぱり力加減する余裕はなかったんだ。


「フイちゃん……身体、動く?」


 みら井さんがようやくそう口にした。私はほほ笑んで頷く。


「動くよ」


「ほんとう? もう寝たきりじゃない? 車椅子は?」


「いらないよ。今井さんのおかげ」


 その口ぶりだと未来の私、半身不随かなんかで車椅子生活だったっぽいな。マジか。あの怪我で生きてたんだ。生命力強っ。加茂かもフイ子ゴキブリ説が補強されちゃったよ。


「~~っ。良かったぁ」


 ついに泣いちゃったみら井さんに思い切り抱きしめられる。彼女の火照った体温が寒空に温かい。

 あ、体がまた光り始めた。退去の時が迫っているらしい。


 事故の様子を覚えておこうと辺りを見渡すと、こっちを不思議そうに見ている二人の幼女と目が合う。小さく手を振ると、二人ともぎこちない笑みで手を振り返してくれた。ああ、私はともかく過去井さんプリティー過ぎる。お母さんが怪我して泣いたのか目が潤んでいる。頬も赤く染まって、まるで恋に落ちた乙女の顔だ。普段からあんな表情できるなら破壊力が高すぎる。私みたいな変態に目をつけられる前にSPを六人ほど付けるべきでは?


 バイバイ、過去の私たち。トラウマとか無駄なもの抱えず健全に成長するんだよ。


 私達を包む光がいよいよ強くなってきて、私はみら井さんの肩を掴んで抱き着いていた彼女を引っぺがした。


「今井さん。お別れの前に一つだけ聞きたいことが」


「ぐすっ、なに?」


「未来の私って、今井さんとお付き合いでもしてるの?」


 問うと今井さんはボッと夕日に負けないくらい顔を真っ赤に染める。うん、これもう答え貰ったのと一緒だわ。初恋実らせるとかやるじゃん私。


 私も頑張らないとかなぁ。


 ともあれ過去がこうして変わった以上、もうこのみら井さんに会うことは、きっとないのだろう。そう思うと少し寂しいけど、これが本来の正しい在り方なのだ。


「そっか。それじゃあ、ね今井さん」


 出来る限り明るい声でしばしの別れを告げる。するとみら井さんはまた頬を染め、ふにゃっと表情をゆるめて笑った。


「うん、またね、フイちゃん」


 その笑顔、推しのベストショットランキング堂々一位にランクインです。

 次の瞬間世界はまた閃光に包まれた。


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