幸福の鳥籠
あの日から、私の世界は色を失っている。
胸の
息苦しい時は瞳を閉じて、いつかの幸せを空想する。静かな暗闇はなんとも心地良い。
今日もまた、私は素敵な思い出に耳を澄ませる。
幸福の鳥籠で夢を見る。
─────
「貴女が授業中眠っていることを咎めているんじゃないです。」
終業のチャイムはいつ鳴ったのか、時刻は放課後。教室には
私はどうやら一時間目の最中に意識を手放してから、ざっと六時間ほど眠っていたようだった。居眠りというには熟睡しすぎたのかもしれない。
花ちゃんはそんな寝ぼけた私の顔を
「貴女が寝ていようが、私の学力になんも影響はありませんから。ですが! 貴女を起こすように先生から申し付けられるんです! 私が! 無理矢理に!」
私はこれから部活なんです、そもそも貴女を起こす義理がないのに無視すると何故か私が先生に怒られるんです、ていうかとっとと起きやがれ……。
ぼーっとした頭で彼女の怒声を聞き流す。彼女は何やら怒っているみたいだが、少し冷静になってもらいたい。何よりも優先すべきことがあるのだ。
そう、まずは、
──お腹すいた。ご飯にしよ、花ちゃん。
「話を聞けー!!」
お昼ご飯が先だ。
彼女の名前は花ちゃん。
花澤だったか、花井だったか、なんかそんな感じの名前だった気もするし、もしくは全然違ったかもしれない。ずっと花ちゃんと呼んでいるので、実のところは覚えていない。
サラサラの髪にキラキラの瞳が綺麗で、まるでお人形さんみたいな子だなと、興味本位で話しかけたのがきっかけだ。
最初はなんだか話が通じなかったが、今では私の面倒を見てくれる、とっても優しくて思いやりのある女の子だ。仲良しになってから少し言葉がキツくなったようにも感じるが、特段不快感があるわけでもない。
梅雨も終わりを告げ、僅かに雨の香りを空に残す頃。
久しぶりに私は教室で熟睡をしていたようだ。今日もまた、このままだと終電帰りも余儀なくされるところであったが、親切にも日が暮れる前に起こしてくれたようだ。
「夜更かしでもしてたんですか?」
花ちゃんはお弁当を広げた私の前に頬杖をつき、ジトリという目でで見ている。
──ご飯食べないの?
「質問しているのは私ですが。……ご飯はお昼休みに食べましたよ。今お昼を食べてるのは貴女くらいです。」
──ほら、あっちの男子も食べてるよ?
「どうでもいいです! どうして貴女はそんなに話が逸れまくるんですか……。」
花ちゃんは唸りながら眉間を抓む。なにやら苦節しているようだが、挫けず今一度私を睨みつける。
「寝てないんですか?」
──ぐっすりだったよ。
「今じゃないです、昨晩の話です。」
──ぐっすりだったよ?
「じゃあなんで一日中寝てたんですか?」
──ポカポカで気持ちよくって……。
「……起きて授業受ける努力はしましたか?」
──頑張ったよ。時計を見て私もびっくりした。
「……そう、ですか。」
だめだこりゃ、と花ちゃんは大きく項垂れる。机に突っ伏したまま、私がお昼を頬張るさまを疲れた様子で見ている。
──食べる?
「……いらないです。」
──まぁまぁ、元気になるぞぉ?
「元を辿れば貴女が……ングッ、」
私は花ちゃんの口にブロッコリーを押し込む。腹を満たせば、怒りんぼの花ちゃんも少しは落ち着くだろう。
──美味しい?
「……まぁ、はい。」
目を反らして呟く花ちゃん。
──そうなんだ……。
「……まさか、苦手なもの食べさせました?」
──ブロッコリー、あんま好きじゃないんだよね。
「…………。」
今度からは齧ってみるくらいしてみてもいいのかもしれない。あまり味が好きではないのだが、最近ウインナーと一緒に炒められているのか、見た目が違う。味見くらいはしてみるべきだろう。
好物のハンバーグを頬張りそんなことを考えていると、私を睨んでいた花ちゃんが私の後ろのほうへ視線を移す。
促されるように振り返ると、一人の男子生徒。
名前は、
──田中くん。
『やぁ、おはよう。』
「タナカ……?」
『よく眠れたようだね。ご飯中にごめんよ。』
──ううん、どうしたの?
田中くんはノートの山を抱えており、そこから一冊を手に取り私に見せる。
『数学の課題、持ってきてる? 僕、日直だから集めるように言われててさ。』
──あるよ、ちょっと待って。
私はカバンの中をガサゴソと探り、数学のノートを引っ張り出す。
はい、ありがとうね、と一言添えて田中くんに手渡す。
田中くんは静かに笑顔をみせ、ありがとうとだけ口にする。
──……田中くんってさ、なんか変わったよね。
そう言われた田中くんは特段驚いた様子もなく、むしろそうだねと言わんばかりに再び微笑んだ。
『色々あってね。なんか、すっきりしたのかも。』
「色々ってなんですか?」
『うーん……、本当に、色々。』
それじゃあわからないですよ、と花ちゃんが呆れる。私はなんとなく気になったので、田中くんに聞いてみることにした。
『話すことでもないことだけどなぁ、……あ、』
田中くんはノートの山を近くの机に置き、その席に腰掛ける。
『待合室の噂、知ってる?』
噂話とか特段弱い私だが、もちろん知っているわけもない。すぐに首を横に振る。
「待合室って、あの始発駅の?」
『そう、あの駅の待合室。知ってた?』
花ちゃんはさっきまでとは打って変わって、まるで飼い主に散歩に行くよと言われた犬のように目を光らせていた。
「有名ですよね、”始発駅の待合室”。私もこの町に来てそこそこですが知ってます!」
『うん、まぁ、有名といえば有名だけど、』
「ただの噂ですよね……?」
ヒートアップしていく花ちゃんに若干置いてけぼりにされていると、すぐに田中くんが気を遣い説明をしてくれた。
『2個先の駅、あそこ、大きな駅だよね。あの駅の端っこに待合室があるのは知ってる?』
──ううん、行ったことはあるけど、そんなのあったっけ。
『端っこも端っこ。先頭車両のとこにあるんだよ。あそこに纏わる都市伝説みたいなものだよ。』
都市伝説や怪談話は基本的に信じてはいないが、好きな
それで、と続きを促す。
『あそこはね、“今一番逢いたい人に逢える”んだ。』
──今一番逢いたい人。
『そう。』
──まさか。
反射的に口から出てきたが、田中くんは表情をピクリとも変えずに話を続ける。
『始発が去っていった朝6時半から次の電車が車庫から出てくる7時までの30分間、条件さえ満たせば、待合室に望んだ人物が現れるってもっぱらの噂だよ。』
「私も聞いたことあります! ですが、いざその噂の真相を掴むべく調査に向かったのですが、ダメでした。誰も現れませんでしたよ。」
花ちゃんは教室では常識的で秀才のイメージだが(飽くまでもイメージだ)、彼女を知れば知るほどどこか頭のネジが外れていると感じる。一体どこからそんな悪い
私はどちらかと言うと花ちゃんが実地調査に赴いた話の方が気になっていたが、私とて花ちゃんとは短くない。そんなこと口にしたら、即座に「ちょっと黙っていてください」と一蹴されるに違いない。私はグッと言葉を飲み込み田中くんが続けるのを待った。
『条件さえ満たせば、ってのが結構複雑でね。都市伝説になるくらいだから噂自体は聞いたことある人も多いと思うけど、そこまで詳しく知ってる人はそうそういないんじゃないかな。』
──田中くんはなんで知ってるの?
『教えてもらったんだ。』
誰に、と聞きたかったが、田中くんの静かな目は、それ以上を語りたがっていないようだった。
「やたら静かですね……体調でも悪いんですか?」
──人の話は最後までちゃんと聞きなさいってお父さんに言われてるからね。
「じゃあ普段からそうしてください。」
──え? 普段から聞いてるよ?
「……いいです、話がそれました。私が悪かったです。」
花ちゃんは田中くんに、続きを、とバトンを渡す。私たちのやりとりにこの日初めて田中くんが僅かに苦笑いをする。
『仲がいいんだね。』
──うん、仲良し!
私は花ちゃんの手を取り、高々と掲げる。彼女はなされるがまま、恥ずかしそうに眉を顰める。
「どっちでもいいですから……待合室の話に戻りませんか?」
『あぁ。』
条件というのがね、と田中くんは人差し指を立てる。
条件その1。
強く念じること。
『“誰に逢いたいか”を強く意識しないと現れない。それはもう、本当に強く。』
生半可にやっては失敗するらしい。人生かかってるくらい、超本気で。
『ついでに言えば、実在する人物であること。アニメや漫画のキャラクターには会えない。』
「なるほど……確かに以前私が試してみた時はとりあえずで著名人の名前を連ねました。それが失敗した原因ですかね?」
多分違うと田中くんはすぐに訂正する。花ちゃんは分かりやすくガクリと首を落とす。なんだかその仕草が面白くて、私は思わずクスリと笑った。
「なんですか?」
──なんか、可愛かったから。
「……やめてください。」
花ちゃんは顔を赤くし手で覆い隠した。何をやめて欲しいのだろう。いまいちピンとこなくて覗き込む。すると、田中くんがまたしても置いてけぼりにされていることに気づく。
『仲良しなのはいいことだよ。気が済むまで、続けてよ。』
「……皮肉ですか?」
『そんなつもりは毛頭無いよ。二人の仲の良さに、どこか憧れのようなものを感じただけさ。』
──田中くんも仲良し!
『ありがとう。』
田中くんは優しく微笑み、
『続けるね。』
と、なんとも大人びた流され方をされる。
条件その2。
お供え物をすること。
『これを知っている人はほとんどいないんじゃないかな。』
花ちゃんは驚いたようでポカンと口を開けていたが、
「お供え物って、神様でも関わっているんですか?」
再び今日イチの食いつきを見せる。花ちゃんはこういった奇天烈なお話が大好きだ。彼女はなぜかこの手の話をなんの疑いもなく信じる。
田中くんは窓の向こうを指差す。
『向こうの方に小さな山が見えるでしょ? 手前側の方。あの山の中腹あたりに小さな祠があるんだ。そこにお供えをしなくちゃいけない。』
「なんの神様が祀られているんですか?」
『祀られているっていうのとはちょっと違うらしいよ。とある神様の別荘みたいなものらしい。遊びにくるような場所で、その際にお願いを叶えてくれるんだって。』
神様もだいぶ気まぐれな存在だ。信心深くない現代人に合わせた良い意味で中途半端な都市伝説だ。
『神様なんて、案外そういうものなんだと思うよ。』
私が露骨に
「何をお供えすればいいんですか?」
『神様の好きなもの。お酒がいいらしいけど、うどんでもいいみたいだよ。』
──うどん? うどんが好きなの?
『そうみたい。』
花ちゃんがうどんうどんと暗唱する。確かにうどんなら用意も簡単だろう。そう考えると、条件条件というが、そう難しい話でもないように感じる。
『待合室に行く前日の夜までにお供えをしなきゃいけない。あとは、待合室に行く本人がお供えしないとダメなんだって。』
今のところ確かに注意事項は多いが、大して気に留めるようなこともなさそうだ。これが噂話の域を超えないのは、この条件が広まっていないだけというのがわかる。
条件その3。
待合室には一人で行くこと。
『神様の都合なんてわからないけど、一人で行かないとダメなんだとさ。』
以上が条件のようだ。
田中くんは、これで全部、と息をつく。
なるほど確かに都市伝説としては面白い。
“今一番逢いたい人に会える”。これはあるいは魅力的なのかもしれない。
私には逢いたい人はいるのか、思い浮かばないが興味自体はある。
と、その前に一つ、ずっと気になっていたことがあった。
──なんでこの話を? 田中くんは、行ったんだよね、待合室。
田中くんはゆっくりと私に視線を合わせ、
『うん。』
と微笑みと共に答える。
──誰に逢ったの?
田中くんは少しだけ考えて、
『内緒。』
と言った。
そうして田中くんは立ち上がり、机に置いていたノートの山を再び抱える。
『それじゃあ僕はこれを先生に届けないと。……もし君が待合室でだれかに出逢えたら、この話の続きをしよう。』
田中くんはそれだけ言い残し教室を後にした。
残された教室は気付けば夕景に飲まれ、横長の影が私たち二人を煽っていた。
私は弁当の残りを掻き込み、蓋を閉じてカバンにしまう。
──花ちゃん! 行こう!
「え、どこへ?」
──待合室! ……じゃなくて、山?
田中くんの話だと、待合室には一人で行かないといけないので、花ちゃんを連れ立って向かうのは祠があるという山までだ。善は急げと昔の人が言うからには、そうゆっくりしていられない。
「なぜ急に? 貴女はこういう話は信じない人だと思っていましたが。」
確かに、あまり信じていない。逢えるかどうかも殊更ながら、そもそも誰に逢いたいかも定まっていないほどである。
だが、気になったのだ。
田中くんは確かに待合室に行った。そうに違いない。
そして、そこでなにかがあった。
彼はつい先週まではもっと近寄りがたい雰囲気を出していた(らしい、花ちゃんが以前そう言っていた)。いや、私には近寄りがたいの意味がわからなかったが、彼の纏う空気感が明らかに以前と違うことはわかった。
何が彼を変えたのか。
そこには、変わる何かがあるのか。
それが気になったのだ。
「変化を求めているんですか? 貴女自身、変わらねばと思うところでも?」
そんなこと微塵も思っていないだろうという目で私をみてくる。
──わかんない。だけどさ、
沈む夕日に目を細める。
──なんか、大事なことだと思ったんだ。
花ちゃんはあまり納得していない様子だが、それでも私は私自身、現状に足らぬものを感じている。無論わかっていないが、
日が沈む。
窓枠の牢獄は外を映し出すのをやめ、私たちのいる教室を反射する。
窓に映る私は酷く頼りない。
無力な少女を囲うはまるで鳥籠。私は少女に心の中で問いかける。
おまえは、なんでそんな不安そうな顔をしているんだ。
なにがおまえを煩わせている。
「そういえば、」
花ちゃんが田中くんがいなくなった座席をちらりと覗く。
──ん?
「彼。」
──田中くん?
「はい。名前、違いますよ。覚えていないんですか?」
──え。 違ったっけ。
「……。だろうと思いました。」
──────
「誰に逢うか決めましたか?」
花ちゃんは部活に来るのが遅くなったこととそのまま私と帰ることを先輩に伝えに一度別れた後、校門で合流した。そのまま駅までの道のりを行き、その先の山を目指す。
──どうしよっか。
「強く念じないと逢えないって言ってたじゃないですか……。このままだと絶対失敗しますよ。」
──朝までには考えるよ。
「それでいいんですかね……。」
花ちゃんは意外とさらっと話を流し、何かを考えこむ。確かに時間があるわけでもないが、家に帰ってゆっくり考えればきっと思いつくだろう。
「それじゃあ、まずはお供え物を買わないとですね。」
──お酒?
「私たち高校生ですよ? どうやって買うつもりですか。ほら、うどんでいいって言ってましたよ。」
──お酒のほうが成功しそうじゃない?
「だからどうやって?」
──お父さんのが家にあったはず。
「取りに帰る時間はありませんよ。貴女この近くじゃないでしょう?」
──そっか、そういえばそうだ。
やれやれ、と頭を押さえる花ちゃん。
しかし、どうにもうどんで上手くいく理由がわからない。神様といえばお酒が好きというイメージがあるので、やはりそこはお酒でないといけないのではないか。
花ちゃんはひたすらうどんを推しているが、私とて折れない。どうせうどんで上手くいくというのは都市伝説のデマの部分に違いない。田中くんもあまり深堀しなかったあたり、信じていないのではないだろうか。
しかし私とて無策でそんな話をしているわけでもない。
そんなこんなでやってきたのは、駅の向こう側。山を道の先に据えた、小さな商店街の一角、老夫婦が営む酒店。
「ここで買うんですか、お酒。」
──まぁ見てなって。
ここの酒店は穏やかなお婆ちゃんが店番をしている。お散歩中で前を通るときに何度か挨拶をしていると仲良くなったのだ。以来、おやつが食べたくなると、ここに売っているおつまみを購入しに通っている。
──お父さんに頼まれたって言えば何とかなる!
「駄目ですよ。最近法律が厳しいんですから。」
──そうなの?
そうですよ、と花ちゃんは冷ややかな目を酒店に向ける。
鋭い視線はおよそ私との日常会話では見ない、まるで憎むなにかに向けて放てられているようだった。普段と違う花ちゃんの顔に、おもわず唾をのむ。
「ま、やれるというならやってみてください。」
──え、うん?
花ちゃんは近くにあったベンチにドシンと座り、手をプラプラと振る。
私は促されたまま、背中にジトリといつもの視線を感じつつ、まるでロボットのように堅い動きで酒店へと赴く。
時間も時間なので、どうやら今日は店を閉めるようだ。鍵がかかっている。
窓ガラスに張り付き、店内にお婆ちゃんの姿を探す。
お婆ちゃん発見。
気づいてもらえるように戸に張り付いて必死にジェスチャーする。
お婆ちゃんが私に気付く。ゆっくりとした歩調で私に近寄り鍵を開ける。
にこやかな挨拶。
談笑(割愛)、台本通りのセリフ。
お婆ちゃんお婆ちゃん。 どうしたの。
お父さんにお酒のお使い頼まれたの。 あら、どれがいいの。
お供え物にするんだって。 それじゃあこれが一番よ。
お高い? 安くしとくよ。
いいの!? 瑠璃ちゃんだもの、いいのよ。
ありがとう! いつもありがとうね。
……。
ミッションコンプリート。嘘をついている手前、値引きまでしてもらうのは若干心が痛むが、おばあちゃんの笑顔が可愛かったので罪悪感は感じないまま談笑に流れていく。
しばらくお婆ちゃんと話し込んだ
呆れたような驚いたような、そして怒ったような複雑な表情で私をマジマジとのぞき込んでいた。
「まずはですね、」
花ちゃんは大きく息を吸う。
「おっっっっっそい! いつまで待たせるんですか!」
──ごめんごめん、お婆ちゃんが可愛くって。
花ちゃんはため息をつき、いつものことだからもういいですけどと前置きをする。
「で、どんな魔法を使ったんですか……?」
──愛の魔法、かな?
「……意味わかんないです。もういいです。」
高らかに胸を張る私を一蹴し、花ちゃんはスタスタと何処かへ歩き出す。
「行きますよ。」
──どこに?
「山ですよ。それはお供え物ですよ。お供えしないでどうするんですか。」
──あ、そっか。
「早くしないと終電なくなりますよ。急いでください。」
大きな瓶を抱えながら駆け足で花ちゃんの後を追う。いつも通りぷんぷんに怒ってはいたが、今日はなんとなく彼女の後姿が楽しそうに感じた。花ちゃんもこの都市伝説を楽しめているのだろうか。いつもどことなく寂しさや不安のようなものを彼女から感じていたため、それがどうにも嬉しかった。
──花ちゃん。楽しみだね!
「はい? ……まぁ、そうですね。」
花ちゃんが笑顔で振り返る。
「行きましょう。貴女が今、一番逢いたい人の元へ。」
──────
祠があるという山道は決して険しいものではない。
かなり背の低い山で、道自体は人が通れるほどにゆとりを持ったスペースが確保されている。
しかし、いくら傾斜が緩くても山道は山道。
「何してるんですかー? 早くしてくださーい!」
──ま、待ってよ……、お酒、結構重いんだから……。
「早くしないと電車なくなるって言ってるじゃないですかー。だからうどんにしろって言ったのに……あれ。」
花ちゃんはキョロキョロしながら立ち止まる。やっとのことで追いつき、深呼吸してから彼女に尋ねる。
──どうしたの?
「ほら、道が分かれてます。」
──本当だ…。左、下山、右、展望台。どっちだっけ。
「分かりません。彼もそこまでは話していませんでした。」
──どっち?
「知るわけないですよ。……でもまぁ、中腹あたりって言ってましたよね。だいぶ登った気もしますから、これより上にはないかもしれませんね。」
──え、降るの……?
「多分こっちです!」
──ちょっと休憩しようよー……。それに間違えてたらまた登るんでしょ?
「朝までここで過ごすつもりですか……? まぁ、確かに貴女は大変でしょうし、分かりました。」
花ちゃんは石の上に座り込んだ私の側に鞄を置き、
「私がちょっと降ってみてきます。貴女はここで休んでてください。」
と言い、降り方面を走っていった。私はどんどん小さくなっていく花ちゃんの姿をポカンと見ていた。
時計を見るとだいぶ遅い時間となっていた。
花ちゃんが急かしていたのが現実味を増し、じわじわとした焦燥感が少し冷たい夜風と共に私の体を
山道という分に、かなり暗くはあるが、木々の隙間から街の光のようなものが朧げに差し込み、幻想的に彩る。
また、花ちゃんとは逆の、展望台方面より強い光が衒う。頂上が近いのか、はたまた少し開けたところがあるのか、風の音と共に揺れる光の道に目を細める。
花ちゃんが駆け出して間もなく、風音が止み、静寂に包まれる。夜の山中はこんなにも静かなものなのかと空を仰ぎ見る。
心地良い静に耳を澄ましてみる。
虫たちの声が響く。人の声もなく、街の音もなく、自然の音だけが支配する静寂こそ真に安寧を運ぶとそっと目を閉じる。
ふと、違和感に気付く。虫の声は未だ鳴り続けるが、さて、この違和感の正体はなんだろう。
花ちゃんの去った道を見るが、まだ帰ってこない。確かにあまり時間も経っていないが、それにしても彼女はどこまで降りていったのだろうか。次第に不安も募り始める。
しかし、この違和感の正体はそれではない。そう、花ちゃんがまだ帰ってこないのは見てすぐにわかることだ。
音だ。
虫たちしかいないはずのここになにか別の存在が音を発している。
──……足音?
首をゆっくりと音の主の方へ向ける。
夜の山道、もしかしたら熊などがいるのかもしれない(この近辺で熊が出たなど聞いたことないが)。冷や汗が額から首筋まで流れていくのを感じながら、暗闇の先に目を細める。
ちらつく光の筋が、なにかを映しだす。思わず酒瓶を抱える手に力が入る。体の中心あたりが冷えるような感覚に襲われ、足が動かない。
徐々に近づくそれは一定の歩調でこちらへ向かっており、緊張感は心臓を脅迫し、不安を増長させる。
そしてついに私の眼のまえで立ち止まる。恐怖と不安で冷静さを失った私は、酒瓶を盾にして身を縮ませる。
──ゴゴゴゴメンナサイ!! 食べないでぇー!!
『食べる……?』
酒瓶の盾の隙間から強い光に照らされる。
光が目線の高さか
しかし、私を照らす光はスマホのライトに違いない。そして先程聞こえた日本語によく似た発音、もしかすると降っていたのは熊ではなく人間なのではないだろうか。
──な、なんですか……? 何してるんですか?
『こっちのセリフ……じゃあないかな?』
声の主は手を伸ばし、遠い場所から私たちを照らす。光は虚弱にも二人の姿を照らし出し、輪郭を顕にする。
『こんなところで何してるの?』
現れたのはとても綺麗な女の子。私は状況が理解できなくなり、しばらく固まっていた。
『ほら、ここだよ。』
山から降りてきた女の子に近くに祠がないか尋ねたところ、花ちゃんが降っていった道とは別の、展望台への道を案内された。視界の先に見えた光の正体は、ちょうど祠があるところだったようで、そこは木々が晴れ、低い標高ながらも街を一望できる位置にあった。
あまりに美しい景色に思わず息を呑む。
開けたところに着き、わかったことがあった。
まず、幻想的な光の正体は月明かりだった。確かに田舎の方なのでそこまで発光の強いものは街にはなかったが、ここまで月が煌々と艶を放っているとは想像もしなかった。普段夜空は見上げないので、気付かないわけである。
そして、私を導いてくれた女の子だが、同い年くらいの、おそらく高校生。月明りが顕わにしたのは、とても綺麗な人だった。花ちゃんも群を抜いて美人であったが、この人も毛色は違えど類まれなる美人さんだ。思わず見惚れてしまう。
『その制服さ、』
急に話かけられ、素っ頓狂な声で返事を返す。
『同じ学校だね。何年生?』
──え、に、二年です!
『そっか、じゃあ私の方が先輩さんだ。あ、でもそんな気にしなくていいよ? お堅い敬語とか苦手なんだ。』
同学年で見たことないから気になったんだ、と微笑む。その笑顔が儚げでなんと月明かりと似合うことか。言葉も出ずにその姿に見入ってしまう。
『ここにさ、何しにきたの?』
呆けた頭に喝を入れて、ぎこちなく答える。
──お酒を持ってきました!
『それは……うん、見てわかるかな。それをどうするの。』
──どうって、あ、飲みませんよ? 私まだ未成年だし。
『うん、それはわかる。』
ははは、と小さく笑う。
──あの、……えっと。
『エリカ。』
──……エリカさん。エリカさんは、なんでここに?
エリカさんは少しだけ考えた後、
『私の質問に答えてくれたら、教えてあげる。』
と悪戯っぽく笑う。
私はエリカさんに事の流れを話す。
エリカさんは最初こそ話半分と言ったように簡単な反応だけだったが、いつのきっかけか、途端に眼の色が変わり、私の話を鋭い目で聞いていた。どこか花ちゃんに似た意志の強さのようなものを感じる。
僅かに気圧されながらも話し終えたところで、エリカさんは祠の目の前までいき、『ふぅん、神様。」とだけ呟く。
たくさん喋ったので、少しだけ喉が乾く。口の中の僅かな唾を飲み込み、エリカさんの次の言葉を待つ。
『そっか、じゃあここにそれをお供えするんだね。』
エリカさんは軽やかの足取りで私の前に舞い戻る。最初の優しそうなお姉さんに戻っていて、なんとなくホッとする。
──は、はい!
『一つ聞いていいかな?』
エリカさんは祠から離れていき、景色を寂しそうに見つめながら話す。
『誰に逢いたいの?』
難しいところを突かれ、吃ってしまう。
改めて考える。私は誰か逢いたい人がいるのだろうか。
そもそも、逢ってどうするのか。冷静に考えると、私は私自身に不足している自信のようなものを求めている、のかもしれない。
そこに雰囲気がガラッと変わった田中くんが現れて、待合室に行ったと話した。
だから私も待合室にいけば、雰囲気をガラッと変えられると、そう思っただけである。そうすれば、現状を取り巻く謎の不安要素を解決できると、浅はかに思案した。そこからは、誰に逢いたいなど到底結びつかない。
......かもしれないし、なにか本能のようなところで呼ばれたような気もする。こればっかりはよくわからない。
結局のところ短絡的で無意味な行為なのかもしれない。上手くいったところで得る物など何もないかもしれない。
次第に言葉を飲み込み始め、唸る声も掠れることさえしなくなった時、エリカさんが、もしかしてだけどさ、と切り出す。
『誰に逢いたいか決まっていない? っていうよりは、逢うことが目的じゃあない?』
──決まってないです……。
『こういう都市伝説さ、噂程度に
面白半分、確かに半分はそういった興味かもしれない。乾いた苦笑いが溢れる。
でも、行動に移った動機は違うはずだ。胸の奥でざわざわと蠢くこの不信感が、早くなんとかしなければいけないと訴えている。
『キミは答えが欲しいんだよね。現状を取り巻く正体不明の不安を祓う為の答えを。』
──答え。そうだと、思う、かも?
『そう。だからキミが逢いたいのは“答えをくれる人”。キミが今抱える悩みから導いてくれる人を探している。』
ポカンと間抜けな顔を晒しながら話を聞いていた。自分でもわからないことをこんなにもわかりやすく言語化してくれたのは初めてだ。
エリカさんは私の羨望に気付くや否や、『私ではないよ』と苦笑いを溢す。
『誰だと思う? キミが一番尊敬する人だったり、今まで答えをくれた人。または……』
エリカさんは今までで一際哀愁漂う笑顔で、
『もう会えない人、とか。』
僅かに聞き取れる声で呟いた。
その後、エリカさんは山を降りていった。帰れなくなっても近辺に友人が住んでいるので問題はないらしいが、そう何度も親を心配させるわけにはいかないと言う。去り際に見せた笑顔は心から笑っていたように感じたのは私の思い過ごしだったのか気になる。
しばらく月夜に黄昏れる。
答えをくれる人。
もう会えない人、か。
なんとなく、逢いたくなった人が頭を
そうとなれば、もう悩むこともない。今日は早々に帰り明日は朝一番に家を出なくては。その前にお父さんにも聞きたいことがある。あとは……
「貴女には言いたいことが山のようにありますが。」
さて帰ろうと立ち上がり振り返ると、鬼のような形相の花ちゃんが仁王が如く立ち塞がっていた。
──あ。
「あ、って言いいましたね今。言いましたよね! ぜっっっったい私のこと忘れてたでしょう!?」
──そそそそそんなことないよ……?
「本っ当に嘘が下手ですよね! 貴女が分かれ道のところからいなくなった時、私心底心配したんですよ!? 貴女のことだから茂みに転落しててもおかしくないし、何を思ったか来た道を折り返してるかもわからないですし!」
──折り返したの?
「ええそうですよ、それが一番可能性として有りえたからです! でもどこにも見当たらないし、なんならここら辺人っ子一人いないし! それでやっとここまで来てみれば、いつも通りぼーっとしてるし! 貴女は同じところでお留守番することもできないんですか!?」
花ちゃんは今、人っ子一人いない言った。折り返したのなら、駅に繋がる一本道を辿ったわけで、つまるところエリカさんは駅には向かっていないと言うことかもしれない。分かれた降りの道へ何をしにいったのだろうと、彼女の謎が深まる。
「なんですか、どうしたんですか。」
──んーん、なんでもないよ。ちょっと考えこと。
「よく考え事ができますね私の心配などどうでもいいと言うことですか!! 私がどんなに心細い中でも、それでも! 貴女の無事のために奔走していたことを少しは感謝したらどうですか、それよりまずは謝罪はないんですか!!」
私はカンカンに怒っている花ちゃんをどうにか宥め、お酒をお供えしたところまで話した。
花ちゃんはえらく不機嫌な様子で話を聞いていたが、ため息の
花ちゃんはジロリと私を一瞥した後、景色を一望し、頂上の方を見上げる。
「上は、どうなっているんですかね。」
──気になるの?
「いいえ、ただなんとなく。」
とだけ呟いた。
なんとなく、そんな些細な言葉が花ちゃんとの距離がとても遠く感じた。
だからこそ、この後の花ちゃんの行動には驚いた。
「帰りましょう。早くしないと本当に終電逃しますよ。」
──……? なんで手繋ぐの?
「こんな暗闇だといつ貴女が逸れるかわかったものじゃないからです! しっかりしてくださいよもう!」
花ちゃんの手がしっとりと汗ばんでいる。急な距離感に高揚より動揺が勝る。
──もしかして、
「帰りますよ、ほら早く。」
──花ちゃんこわいn「帰りますよ!」
──────
私の家は件の終点駅の一個前にある。そちら方向の始発電車に乗ったとしても、田舎の早朝ダイヤでは6時半に間に合わないだろう。なので翌朝は自転車で始発駅に向かう他ない。まったく、田舎というものはほとほと不便で仕方ない。
しかしそんな憂いよりもまず、いつもより一回り早く起きなければいけないという懸念点がある。
いつも朝起きて学校にいくのさえやっとの時間だのに、尚早く起きろというのか。未だ安心できない現状に若干心が折れそうになったところで、我が家に帰宅する。
無駄に響く鍵の音。
重たいドアを自重をかけて引っ張る。
──ただいまー。
「おかえりー。」
遅くなったこともあってか、お父さんがすでに帰っている。
お父さんは草臥れた部屋着で晩御飯の支度をしており、今日もまた、一段と疲れた顔で私を見て微笑む。
──ごめんね、疲れてるのにご飯任せちゃって。
「全然大丈夫。だけど、遅くなるなら連絡はしてくれよ。」
──スマホ家に忘れたんだ。
「そっかぁ、それは確かに連絡できないなぁ。」
お父さんはうーんと唸り声をあげる。スマホを忘れる私も悪いが、他に連絡する手段はそれこそ花ちゃんを頼れば無限にありそうだが、かくいう私もすっかり忘れていたのだ。この親あってこの子ありとは言いえて妙だ。
背負っていたリュックを部屋に置き、ポケットでクシャクシャになっていたレシートをお父さんの元へ持っていく。
──お父さんお父さん、今日買い物した。
何買ったんだ、とお父さんは鍋の火を止めてこちらへ来る。私はお父さんに酒店のレシートを差し出す。
「え……お酒……? しかもこんな良いヤツ買ったの……? なんか思ったより安いし。」
──値引きしてもらったんだ。お婆ちゃんが可愛いんだよ。
「ふぅん。相変わらず、お婆ちゃんが大好きだなぁ。」
──うん、可愛いからね。
「あれ、え、お酒? 飲んだの?」
──飲んでないよ、未成年だし。
そうだよなとお父さんは動揺しているが、
「え、じゃあ何に使ったの?」
と疑念が尽きない様子だった。私は大まかに今日あったことを話す。
お父さんはあんまりわかっていないようであったが、わかったと言い財布を取り出す。
私の家はおこずかい制でもなく、私自身バイトもしていないので、大きな買い物をしたいときは必ず報告するように言われていた。
私が変なことに使わないようにするためらしいが、そもそも欲しいものもなく基本使い道もない、なんなら財布を持ってこないこともしばしばなのである。
そのためお父さんには常に5千円をガマグチに入れて携帯させられている。好きに使っていいと言われているが、使ったのは今日が初めてだった。
──お父さんに聞きたいことがあるんだけどさ。
お父さんは、なんだと聞きながら晩御飯の支度をする。私はその手伝いをしながら、待合室の話も絡め、続ける。
──お母さんのこと。
お父さんの手が止まる。少し驚いた顔で私の顔を覗き込む。
──逢いたい人って、他に思い浮かばなかった。だからお母さんのこと知りたくて。
そっかと少し考えた後、お父さんは私の手から皿を受け取り、ご飯にカレーをかける。お父さんの作るカレーはちょっと辛いんだよなぁと口の中に唾液がこみ上げる。
「とりあえず、食べよっか。父さんお腹ペコペコだからさ。」
私は一言うんと頷く。
机に運んだあと、冷蔵庫から生卵を持ってきてカレーに落とし、辛さを中和する。これで食べやすい。
お弁当を食べたのが遅かったが、学校を出てから歩き回ったこともあってすでに空腹だった。
──あ、お弁当。後で洗わなきゃ。
「ちゃんとその日のうちに出すんだぞ? 今度出してなかったら朝起きて洗ってもらうからなぁ?」
──うん、後でお皿と一緒に洗う。
ついうっかりして忘れてしまう。お父さんには毎朝お弁当も作ってもらっているので、これ以上負担を増やすわけにはいかない。それに、明日は早起き確定なのだ。それ以上早く起きられる自信はない。
生卵を溶き、カレーを頬張る。やはりお父さんのカレーは少し辛いが生卵さえあれば丁度良い風味になりとても美味しい。これだけで今日頑張って歩き回った甲斐があるというものだ。
「あ、お母さんの話か。」
──あ、そうそう。聞かせて。
花ちゃんがいないだけで無限に話が逸れてしまう。つくづく彼女には感謝しかない。
「何が聞きたい?」
何が、と聞かれて考えるが正直なところほとんど何も知らないので、聞きたいこともよくわからない。
──全部? 私、お母さんのこと何も知らないし。
お父さんの部屋である和室の奥にある仏壇をチラリと見る。優しそうな笑顔でほほ笑む写真の女性が私のお母さんらしい。
私が三歳くらいの頃、もともと病弱だったのもあり、一度もこの家に帰ってくることなく病院で息を引き取ったらしい。弱々しくも綺麗なお母さんの笑顔は記憶の隅に焼き付いている。しかし、どんな声だったか、どんな人だったかは覚えていない。
「しっかりとした人だったよ。父さんがおっちょこちょいだった分、
そこは瑠璃と似ているかもと笑う。私はどちらかというとお父さん似の性格だろうと思っているのだが、なんとなく嬉しくなる。
──でもやっぱお父さん似だと思うよ。花ちゃんによく怒られてるとことか。
違いないと爆笑するお父さんはいつにも増して嬉しそうに見えた。あまりお母さんの話をしてこなかった分、不思議な気持ちである。
その後、お父さんはお母さんとの思い出話をたくさん話していた。
お金がないながらもお母さんをそこら中に連れまわしたとか、二人の生い立ちは高校生の時であったこととか、悪戯好きで、心臓に悪いことばかりやってきたとか、幼き日の私はお母さんを彷彿させる悪戯を繰り返してヒヤヒヤしたとか。
瑠璃には気になっている男の人とかいないのか等、次第に私の話になっていったが。
なんとなくお母さんという人柄に触れ、興味を色濃く持つようになっていった。逢いたいという気持ちが強くなる一方で、どことなく寂しさが背丈を増していく。
カレーを綺麗に完食し、二人分のお皿と忘れずにお弁当箱を流し場に持っていく。
洗い物をしている私の姿を見ながら、お父さんがゆっくりと口を開く。
「母さんがいなくて寂しいか。」
──……ううん、お父さんとの二人に慣れたから、お母さんがいる生活っていうのがあんまし想像できないかな。
そっかとお父さんは含んだような笑いを零す。
「父さん、うまくやれてるかな? 母さんが死んでから、ずっと瑠璃に窮屈させてないかって心配でさ。」
お父さんは冷蔵庫からビールを取り出して呑んでいる。普段はお酒を入れると途端に私の話しかしなくなるのだが、珍しくアンニュイに缶を弄ぶ姿は哀愁漂うその背中をより小さく見せる。
──いつもありがとね。
私はそれだけ言い、洗い物を片して入浴の支度をする。その間、お父さんは静かに仏壇のほうを見つめていた。とても、穏やかな顔で。
──────
雨上がりの少し冷たい空気を顔面に浴び、濡れた地面に自転車を滑らせる。
昨晩遅くから夜明け前までに雨が降ったようで、地面は丁度不快なほどに湿り気を帯びていた。肌を撫でる梅雨の残り香が緊張を助長する。
わかっていたことだが、今朝は寝坊をした。
生憎、お父さんが起こしてくれたことで、致命的な寝坊にはならなかったが、それでも今こうしてギリギリを迫るのを余儀なくされている。
滑る地面を自転車で爆走する。途中何度か危うく倒れそうになったが、一命を得ている。もっとも、それは私の身体の話であって、ぐらついた拍子にグルグルにかき混ぜられたリュックの中にあるお弁当箱は、すでに息をしていないだろう。ノート達に液漏れしていないことを祈るのみだ。
付随する緊張感とは別に、ペダルを漕ぐほどに増していく圧迫感。こればかりはお弁当など関係なく、刻一刻と迫るその時を知らせるアラームであった。
お母さんに逢いたい。
切実で、薄明な祈りだ。
しかしその祈りに、私は恐怖に似た緊迫感を感じている。
私はお母さんに逢ったとして、何を話したいのだろうか。
エリカさんは言っていた。私は、答えを求めている、と。
なんの答えだろうか。
いや、曖昧には答えを欲している事柄は存在している。
何かがおかしい。
そのような表現しかできないが、少なくとも私の身の回りの何かが、嫌な匂いを漂わせ始めたのだ。
私はそれに不快感を感じたというよりは、恐怖や不安を感じた。私に動物的な危機察知能力があるとは思っていないが、なんとなく直観あたりで黒いものが形を成し始めたことを嗅ぎ取ったのだ。
昔にもあった気がした。物心ついてから、かなり幼かったころ。朧気にも、お隣のおばあちゃん
あの時何故お隣さんの家に厄介になっていたかまでは思い出せない。ただ、その辺りの年頃で同じような感覚に襲われたことは覚えている。
結局のところ、記憶も定かではないので、具体的に言葉にすることはできない。私はその靄を取り払い安堵を得たいだけなのかもしれない。
あるいはその靄は、私を停滞させるもの。私を縛り付けているもの、と考えることもできなくはない。
だからこそ、田中くんに羨望をみたのかもしれない。彼は彼の中の靄を取り払えたに違いない。
答えが欲しいなにかをある程度具現化できたものの、更なる悩みが私に降り注ぐ。
今向かっているのは、件の待合室。逢わんと望むはお母さん。
私のことを何も知らないまま死んでしまったお母さんは、私の答えを導き出せるのか。少なくとも、私の頭の中のお母さんは私が救われるような答えをくれていない。
結局意味なんてないのではないか。
確かにこれら全てを度外視してお母さんに逢ってみたくはある。私を見てどう思うのかは率直に気になるところだ。
ただそれは
詰まるところ、ただの興味になってしまっている。こんな浅はかな望みを、神様は叶えてくれるのか頭を抱えるところだ。
そうこうしているうちに目的の始発駅に到着してしまう。心の準備なんて現代文のノートと一緒に家に忘れてきてしまったというのに。
迷いを連ねど、やはり単純な緊張が胸をはち切れんほど満たす。
お母さんに逢える。
望むことすらできなかった幼き日の願いが果たされようとしているのだ。本能のままに高揚と不安が
高鳴る鼓動を全身で感じ、改札を抜ける。右手の遠くに小さく見えるのが待合室で間違いないだろう。
時間もピッタリ。私は強張る足をぎこちなく動かす。
50メートルもないほどだが、無限の道程である。これほどただ道というものを永遠と感じたのは、中学のマラソン大会以来か。
次第に輪郭を鮮明にしていく小さな箱。
大きな窓枠は教室の窓と類似しており、退屈な授業風景を想像させる。縦長な全形で、入り口は一つ、残りの辺は壁沿いにコの字型で座り心地の良さそうな長椅子が並べられている。
細目で覗き込むように睨んでいたが、刹那、ハッと息をのむ。
誰かいる。
奥側の細い支柱の陰に
緊張で息を止めていたことを、苦しくなったところで気付く。むせ返りながら足を止め、一度冷静になるべく手で顔を覆い暗闇に思考を没頭する。
そのままの姿勢で大きく深呼吸をし、覆っていた手を振りかぶり頬をはたく。喝を入れ、今一度待合室を凝視する。
遠くてぼやける。抜き足で忍び寄り、中の様子を伺う。
女性だ、間違いない。顔を背けているので正確にはわからないが、どことなく大人なレディーのオーラを醸し出している……気がする。
ここまで来たら腹をくくるしかない。ガチガチに固まった両手両足を同時に出しながら、ゆっくりと近づく。
とうとう待合室の戸の目の前にたどり着いてしまう。なんだかお腹が痛くなってきたような、しかしここで引き返してはきっと花ちゃんに呆れられてしまう。
若干の間、そこで硬直していたが、勇気を振り絞り戸に手をかける。引き戸のようだ。押して気付く。ゆっくりと横にスライドする。思いのほか滑らかに戸は滑り、待合室は外気を緩やかに吸い込む。
柱の影を注視する。
……いない?
先ほどまでそこに凭れて半身を隠していた女性の姿が消えていた。つい数秒目を離しただけで姿を晦ましていた。
もしや、失敗してしまったのか? ウジウジと足踏みをしている間に条件とやらが満たされなくなってしまい、消えてしまったのではないか。背筋が凍るような焦燥に駆られる。
「バァ!」
──うひゃぁああ!!!!
恐る恐る待合室に足を踏み入れた瞬間に左手の壁の陰から何かが飛び出す。あまりに突拍子もないことに、無様な悲鳴をあげながら腰を抜かす。
「やったー! ドッキリ大成功!」
──どどどどどドッキ、どど、え、へぇ!?
正常に舌も回らないまま飛び出した声の主を見る。
驚かされたのも束の間、視界に入った光景にまたしても言葉を失う。
私がいた。
いや、どうだろうか。
確かにそっくりではあるが、年の頃は決して遠くもないが近くもない。大人びた雰囲気の中に幼さを宿しているような、とにかく輪郭や目鼻立ちは私そのものだ。スーツを着ていて、私はスーツなんてものは持っていないので、私ではないなと安直に思案する。では、私のそっくりさんがこんなところで私を驚かせるためにわざわざ隠れて……。
突然の事態に呆けていた頭が、本来の目的を思い出す。同時にお父さんの惚気も頭の奥で復唱される。
きっと間違いない。
成功したのだ。
パンクしそうな頭が無理やり情報を整理しようとした結果、口元が歪にニヤケだす。
お母さん(まだ名乗ってもらっていないので、仮とする)は私の顔を渋い顔で覗き込んでいる。どうも気に入らない反応だったのか、しばらく唸っていた。
「変わった反応するね?」
──なんか、色々びっくりしちゃって。
「色々? 驚かしただけなのに?」
──うん、そうなんだけど。
取り繕おうとしたが、あまりにも驚きすぎて腰を抜かしていたので、立ち上がれなかった。無様にもバランスを崩して地べたに倒れそうになるところを間一髪手を貸してもらい命拾いする。
「おうおう、女の子が顔面からダイブしたら悲惨だよ。」
──あ、ありがとう。
「いいってもんだよ。」
お母さん(仮)の手を借り、座りなおす。彼女は私の向かいに腰を下ろす。縦長の待合室だが図らずとも入り口間際に座り込み、贅沢な空間の使い方をしている。
座って落ち着いたところで今一度彼女の顔に目を奪われる。やはりそっくりだ。
私はお母さんは写真でした見たことがなかったので、なんとなく似ているかなぐらいでしかなかったが、これほどまでとは。
私の視線にどうやらもどかしさを感じたのか、お母さん(仮)は居心地が悪そうに、あー、と切り出す。
「顔になんかついてる?」
──ううん、綺麗だよ。
「えぇ、ホント? ありがと。」
嬉しそうに頭を掻く。なんとなく、生きている人間なんだと感じたところで、再び心の中に幼少の激情が奮い立つ。湧き上がる拍動を耳で感じる。
──あ、あの!
「ん、なぁに?」
──えっと……だれ?
言葉が思い浮かばず、安直な質問を投げかけてしまう。
お母さん(仮)は目をパチクリさせていたが、プッと吹き出し笑う。
──え、なに。
「あははははは! 誰って! 初対面の相手に、誰って!」
──え、だって、誰なの。
お母さんと言えど、(仮)だ。未だ確証は持てない。万が一にも、例えば私のそっくりさんがたまたまこの場に居合わせたという可能性もゼロではない。
お母さん(仮)は一通り笑った後、息を整えながら、私の顔に視線を合わせる。
「そうだなぁ、貴女のお名前は?」
──私……? ……ルリ。
「瑠璃ちゃん。初対面の人に“誰”は失礼だよ。」
──初対面の人に奇襲するのは失礼じゃないの?
「世の中、弱所を見せた人から喰われてしまうのさ……。所詮人の世も弱肉強食、無常なり……。」
お母さん(仮)は変なポーズで、さも決めゼリフかのように言い放つ。私はその様子を呆気に取られて見ていた。
「今の笑うところだよ。」
──そうなの? 面白くなかった。
「おかしいなぁ、職場の人たちは笑ってくれるのに。鼻で。」
──へぇ~。
そんなことより。
──で、誰なの?
「飲まれないねぇ、すごい胆力。」
──私は名乗ったよ。名乗った相手に名乗り返さないのは失礼?
「わぁ、すごい圧力の掛け方。これを無自覚でやっているだろうところが尚凄い。」
──ありがと。
「うん、すごい。」
なにやら要領を得ない話だが、褒められたかと思うと嬉しくなってしまう。
しかし、ここに花ちゃんはいない。私がしっかりしなくては、知りたいことも、話したいことも何もままならない。
心折れぬまま再び問いただす。
──だれ?
「そんなに知りたいの?」
お母さん(仮)は少したじろぐ。
──じゃあ、なんて呼べばいい?
「なんでもいいよ。瑠璃ちゃんが呼びたいように。」
──なにそれ。名前は教えてくれないの?
「うん、内緒にしとこうかな。」
──なんでよ。だったら私も内緒にする。
「もう遅いよ。」
なにやらもどかしさだけが
私の膨れっ面を見てか、お母さん(仮)は表情を緩める。なんとなく包み込まれるような優しさに、顔を出し始めていた嫌悪が霧散していく。
「じゃあ、わかった。」
──なにが?
「私の名前。」
息を呑み、今か今かと待ちわびたが、何にしようかなとつぶやいたのが聞こえ、思わず顔を
「じゃあ……ルリ。」
──それ私の名前。
「いいお名前だよね。気に入った!」
なんとも複雑な気持ちで言葉が燻る。名前を褒められたのが思いのほか嬉しくて、赤らう頬を隠す。
「……冗談。好きに呼んで。私が誰であろうと、貴女には関係ないもの。」
──なんで?
「もう逢うことはないだろうから。」
言葉が出なくなる。いったいどういう仕組みでこの待合室に人が呼び出せるのか、考えたこともなかった。呼ばれた相手は、いつどのタイミングで、また呼び出されたことを自覚しているのか、それすらも。
だからこそ今の言葉はそのすべてを語っているような気がして、言葉を失ってしまった。なればこそと、期待するものもある。
「で、なんて呼ぶか決めた?」
思考に浸っていたため、自分に話しかけられていたと思わず、素っ頓狂な声で返事をする。
「どうすんの?」
──おかっ……お姉さん?
いつぞや、花ちゃんとタイムスリップしたらどうするみたいな話をしたことがある。私は特に考えもなしで逢ってみたい過去の人を羅列したが、花ちゃんはタイムパラドックスがどうとか言っていた。
歴史を変えてはいけないとか。本来その時代の人には知りえないことを言ってはいけないとか。根拠はちっとも理解できなかったが。
そんな難しい話をする理由は厭わしくもお察しだが、今更思い出したのは、脳内の花ちゃんが釘を刺しにきたのかと紛う。
そうしてお母さんと呼んでしまいそうになったのを踏みとどまる。結果お姉さんとは、なんとも他人行儀で不服ではあるが。
お母さん(仮)は目をパチクリさせた後にクスリと笑って、
「うん、それでいいよ。」
と言った。悔やむのみだ。
お姉さん(暫定)は、一通り落ち着いたという様子で、瞳を閉じて浅く息をつく。
短い沈黙が場を流れたが、不思議と苦悶は感じなかった。
いつしか緊張は胸の内から消え、満たすは高揚のみとなっていた。
もしや、お姉さんは私の緊張を絆すためにわざとふざけていたのではないだろうか。
きっとそうに違いない。そう思うと、途端に愛おしさのようなものが形を帯びてきた。
私はみるみると笑顔になっていくのがわかり、いてもたってもいられなくなった。
──ねぇ! お姉さんお姉さん!
「はい! はい、なに!?」
お姉さんは驚いた声をあげる。私は気にせず続ける。
──私って、どうすればいいのかな!?
「え、なに。なにを?」
──わかんない。
「えぇ~……。」
私はここに来るまでにどうにか練りこんだ胸の内をあやふやなまま話す。お姉さんはそんな私の戯言を真摯に聞いていた。胸の
お姉さんは腕組み考える。私も同じ癖を持っている。こんな些細なことで嬉しくなる。
すると、お姉さんは深く息をつき、目の色を変えて私を見据える。今までとは違う真面目な視線に若干の
「きっと瑠璃ちゃんはとっても感性が豊かなんだよ。だから周りの人の些細な違いが、雰囲気で感じる。」
──うん?
「ずっと昔にも、
──なにが……。お隣のおばあちゃんちに、いた。優しいおばあちゃん。今は施設に入っちゃって、私のことも覚えてない。
「うん。じゃあ、なんでおばあちゃんちにいたんだろう? そのとき、なにがあった?」
覚えていない、わけではない気がする。おばあちゃんは優しくて、良い香りがする。血縁とかではなく、ただのご近所さん、だけどそんなお婆ちゃんが大好きで、一緒にいるだけでポカポカと幸せな気持ちになれた。
しかし、その時は不安でいっぱいだったことを覚えている。
おばあちゃんは優しく私を抱きかかえていてくれたのに、私は涙が止まらなかった。
ずっとずっと、泣き疲れて眠るまで、泣いていた。
その時におばあちゃんが励ましてくれた。
そう、たしか──
──“大丈夫、きっと良くなる”って……。
お母さんが死んでから、4年ほど、私が物心ついて、幾分かの頃。
お父さんが倒れたのだ。
過労だ。たった一人で頼るあてもほぼなく、私の世話をしながら仕事もして、辛いなんてものではない。お父さんの性格上、周りの理解あってこそだと言うに違いないが、なによりお父さんの献身あってこそだと思う。
お父さんはそのまましばらく入院生活。私はお隣のお婆ちゃんに面倒を見てもらっていたのだ。
その時と、同じなのだ。
今心の奥に感じるどよめきは、あの頃と酷似している。
「お父さん、元気?」
──元気だよ。だいぶ痩せちゃったけど、顔色は良い。
お父さんは心配ないだろう。年の瀬に抗えないのは侘しいが、当分くたばるなんて知らないだろう。少しばかり、飲酒の量が気がかりではあるが。
今はお父さんは関係ないだろう。なにより、お父さんになにかあれば、きっと私はすぐにお父さんからお酒を取り上げるので心配はない。
では、この靄の犯人は何であろうか。
お姉さんは変わらぬ真面目な顔で私に問いかける。
「お友達は? 楽しく過ごせてる?」
──うん、怒られてばかりだけど、昨日は手をつないで帰ったよ。
「へぇ、仲良しだね。」
──うん、仲良し。……。
花ちゃんって言うんだ、という言葉が出てこなかった。
花ちゃんを仲良しと称することになんの曇りもない。日々罵倒を受けているようにも見えるが、あれは恥ずかしがり屋の彼女なりの愛情表現なので、むしろ私以外の人には明朗な良い子として何処か違う世界の人間に感じるだろう。そんな彼女が腹を割って話をしてくれるのだ。仲良しと呼ばずしてこれをなんと呼ぶ。
私が言葉を燻らせたのは、そんなことではない。
なんとなく、花ちゃんの様子がおかしいと感じたのだ。
理由なんてない。むしろ理由はないはずなのだ。彼女は生粋の役者肌。本当に人に見せたくない所は、死んでもみせないだろう。私だろうが、無論田中くんだろうが、あの先輩だろうが、いつまでだって隠し通そうとするだろう。
だからこそ彼女に異変なんて察することすら難しい。普段と何一つ変わらず振る舞う彼女の姿からは、できるはずがないのだ。
ただ、なんとなく。
そんな突拍子もない根拠と言えない根拠が、私に僅かな猜疑心を植え付けた。
──……友達、花ちゃんっていうんだ。お花みたいに素敵な子。ちょっとだけ、寂しそうなんだ。
「そうなの?」
──わかんない。いつもと違うとこなんてない。だけど、そんな気がしてならないの。なんで花ちゃんが笑っているのか、時々わからなくなる。
胸のざわめきを私の拙い言葉で言語化するのは、これでやっとだ。
お姉さんはこの少ない言葉で何を思ったのか、静かに窓の外を見る。
朝焼けは既に澄んだ青へと色を変える。ガラス越しに見る空は、その青を霞ませる。
お姉さんが次の句を連ねるまで、私は特に口を開くことはない。
するとお姉さんは小さく息を吸う。少しだけ間をおいて、話し始める。
「花ちゃん、ね。大切な人なんだ?」
──うん。
「心配なんだ? 何がとは言えないけど。」
──うん……。
「じゃあ、どうしたいの?」
わからない。私は何ができて、何をするべきなのか。何かをするべきなのか? それとも、ことの顛末を見届けるべきなのか。顛末とは何か。どんな結末を迎えるのか。
私には、なにもわからない。
それがとても苦しかった。
悔しくて、涙さえ零れそうになる。
「そう、なんとなくわかっているんだね。」
お姉さんはそう呟く。意味が分からず首を傾げる。
「人っていうのはね、悲しいくらいに無力なの。嘆けば嘆くほど、価値のあるものを失っていくように出来ているんだ。」
──失う……?
「辛くて、泣いて、溢れ出るのは涙だけじゃない。幸せも、一緒に零してしまうんだ。」
──そんなの……あんまりだよ……!
「だから、」
私を黙らせんが如く、お姉さんの声は力強かった。
「その子は、笑っているんじゃないかな。」
認めたくなんてない言葉が、私にのしかかる。
全部、私の思い過ごしであってほしいのだ。なのにそうであると思ってしまえば、彼女は嘆けば失せゆく弱光を抱きかかえていることになる。嘆けぬほど、光の弱さを物語っている。
……あんまりではないか。
しかし、話の腰を折るようだが、一つ気になることがある。
悪い癖だが、言葉の意図を知りなくなってしまうのだ。
なぜそんなことを言うのか。何がその言動の原動力になっているのか。聞かずにはいられない。
──お姉さんは……笑ってる?
聞きたかった。何故そんなことを言ったのか。
知りたかった。そんな言葉を紡ぐお姉さんのことを。
「……上手く、笑えてるかな?」
お姉さんは歪な笑みを零す。幸せそうなふりをする悲しい人の笑顔だ。
──私も……嘘は苦手。ヘタクソって笑われてる。
「……ごめんね。私もそうなんだ。」
お姉さんの顔から生気が失われていく。今の一瞬にいくらか年老いたように見えるほど、英気を失ったようだった。
「八つ当たりだってわかってはいるんだ。こんな厳しいこと、瑠璃ちゃんは酷だよね。」
──ううん、悲しいことがあったら話してよ。たぶん私には、それしかできないから。
お姉さんはまた窓の外を少しだけ仰ぎ見てから口を開く。
「例え話、いいかな?」
ゆっくりと頷く。
「例えば……瑠璃ちゃんにとっての、その花ちゃんって子が急に死んじゃったとして。貴女ならどうする?」
──……やだよ、例え話でもそんな話したくない。
しかしお姉さんは何も語らず、静かに私の答えを待っていた。まっすぐなその瞳に恐怖さえ感じる。
その迫力に呑まれようが、できないものはできない。
花ちゃんが急に死ぬ? そんなよっぽどなこと考えるべきですらない。
変わらぬ瞳に嫌悪さえ香り立てる。
「教えて。貴女ならどうする? それとも、どうすべきだったって憂う?」
──だった……? 憂うってなに?
「教えて。」
この人が何を言いたいのかさっぱりわからない。
譲らない瞳に、しかたなく仮定を受け入れる。今にも吐きそうな不快感。そんなこと、あってたまるかという逃避が胸を支配する。
だが、あるいはそこに希望があるとすれば。
私がやることは一つ。
それに意味があるかもわからない。なにか成せるとも思わない。
詰まるところ、私の我儘になってしまうだろうが、必ずやることがある。
──……。逢いにいくよ。ここに。答えなんて、きっと私の中にはないから。だから、一つだけ願うと思う。
きっと、いかなる神様も淀むことなくこの願いを叶えてくれるだろう強い望み。
──声を、聴かせてって。
「声……?」
──うん。わかんないもん。私にとっての花ちゃん、お姉さんにとっての誰か。その人の隠していることとか、思っていることとか、何もわからないから。だから、ただお話したい。声を聴きたくなる。
吐き気さえ誘う例えに寂しさが募る。とても、花ちゃんに会いたくなってしまった。
お姉さんが顔を伏せる。
ふと、昔お父さんから聞いた話を思い出す。
我が家は母方の祖父母がいない。若いころに事故で二人とも死んでしまったと聞いている。その時のお母さんは酷く悲しんでいたと。しかし、ある日を境に笑顔を絶やさなくなったと。笑顔で辛いことを飲み込むようになったと。
──寂しくなったら、泣いてもいいんじゃないかな。また逢うときは、笑顔でお話したいから。
幸せは笑顔に包まれている。涙なんぞで、消えたりしない。再び笑えば、幸福は手の内に。
いつだって、そんな単純なことを見失いがちだ。
ふと、私は答えの欠片を掴んだ気がした。
花ちゃんの笑顔は、口を塞いだ故の残像か、酷に目を背ける救済への渇望か。
後者であってほしい。であれば、私が救いにならんとするのは傲慢だろうか。
「貴女は……幸福を見失うことはないって、言いきれる……?」
──うん。たとえ、今が悲しくなってしまっても。明日の私は幸せそうに笑っているはずだから。
未来とは、幸福を語る祈りの
お姉さんからすすり泣く音が聞こえる。私は何も言わず彼女の横に座る。
私はこの人の人生を知らなすぎる。理解することなんてできるはずがないが、寄り添うことはできる。この人の笑顔を咲かせるために、隣で笑顔でいることはできる。それは、花ちゃんにだって言いたい。私はずっと傍にいる、と。
「ごめんね……ごめん……ごめんなさい……。」
お姉さんは落ち着くまで、ひたすら謝っていた。ただ、心が痛かった。
泣き止んだお姉さんはバツが悪そうに顔を背ける。そんな空間にいるのが少しむず痒くなり、私も俯く。しかし、目に入った時計の針に唖然としてしまう。
あと5分もない。このままでは気まずいまま終わってしまう。
そんな忙しない私の様子に気付いたのか、お姉さんは咳ばらいをしてから口を開く。
「カッコ悪いとこ見せちゃったね。ごめん。」
──ううん、なんか嬉しい。
「嬉しいってなに。」
──なにもかも。こんな時間全部が、嬉しいんだ。
変なの、とお姉さんはクスリと笑う。私もつられて微笑む。
するとお姉さんは腕にはめた時計を見る。私はそれを見て、目を見開く。
──それ……! その時計!
「え、時計? どうしたの?」
──ほら、見て!
私は自分の左腕を突き出し、私の時計を見せびらかす。
「わぁ、おそろい。」
──でしょ!?
「うん、一緒だね。」
これはお父さんに無理言って貰った、お母さんの形見だ。
──うん、一緒……!
お姉さんは何よりも優しい微笑みを見せる。
「じゃあ、これがある限り、私たちの出会いは永遠に忘れないね。」
──うん、絶対、忘れないよ!
お姉さんの微笑みを警笛がかき消す。始発駅の車庫に格納されていた電車が、本日の第二便として運行すべくホームに顔を出したのだ。
そしてそれは夢の終わりを意味する。
「瑠璃ちゃん、乗って。」
──え、なんで……?
「それが“ルール”なの。貴女が乗って、この時間はお終い。」
結局この待合室についてはわからないことだらけだ。だけど、お姉さんはきっと何かを知っている。私は無言で頷き、席を立つ。
──もう、逢えないかな……?
「うん、私たちはもう逢えない。」
悲しくも無常なその言葉に、不思議と憤りは感じなかった。説明はできないが、きっとそうなのではないかと、私も思うようになった。
言葉を交わすこともなく、私は待合室のドアに手をかける。
──っ……!
「バイバイ、」
ありがとう、と聞こえた気がした。
古びた列車に乗り込む。座席に座ると、未だお姉さんはそこで私に手を振っていた。
駅構内に出発のアナウンスが流れる。私だけを乗せた列車は、ドアを開けることをしなくなった。別れの時間だ。
お姉さんが手を下ろす。ゆっくりと口が動くのが見える。
“どうか……しあわせで。”
胸の中を目まぐるしく色々な感情が迸る。
待合室に残された、一人ぼっちのその背丈に居てもたってもいられなくなる。
私は飛び上がり、
身を乗りだしてバランスを崩し、危うく落ちかける。それに肝を冷やしたのか、お姉さんも待合室の大窓を開けて私に応える。
「だ、大丈夫!?」
すぐに姿勢を取り持ち、目一杯息を吸い、叫ぶ。
──私! るり!! 青い宝石の瑠璃色、それで瑠璃!!
「っ……!」
──忘れないで! 私! お母さんに逢えて、嬉しかった! とっても、とってもとっても嬉しかったから!!
彼女は笑っていた。目にたくさんの涙を浮かべて。
「……ごめんなざい゛! 私! がんばるから!! 明日はきっと……笑顔だから!! どうか貴女も……幸せで。 瑠璃……!!」
走りゆく列車から、お母さんの姿はもう見えない。
私はそれでも、去りゆく風景をいつまでも眺めていた。
──────
学校が静かなのは、なんとなく新鮮だ。窓枠の檻の外からは活力溢れる少年少女の声が疎らに聞こえる。こんな朝早くから登校する人間がいるとは、今日の今日まで知りえなかったことだ。彼らの熱意に敬礼。私には到底真似ができない。
待合室を発ってから学校に直行したこともあって、普段とは比べ物にならないくらい早い時間に教室に到着する。窓から明かりが見えないので、鍵が開いているかすら怪しいところだが、そこは持ち前の楽観視が疑うことなく教室の後ろ側のドアに手をかける。
古びてガタが来ているドアが大きな音を立てながら開く。
予想通りに鍵は開いていた。開けた人物であろう人間が奥手にいる。
教室の裏手の必要以上に大きな個人ロッカー、その戸に体が隠れているが、下からスカートがはみ出ている。流石にこの教室のドアの開閉音に気付かないのは耳栓でも詰めないと不可能なので、ロッカーの少女も顔を出す。
「おや、貴女でしたか。早いですね。おはようございます。」
花ちゃんだ。待合室のこともあって、若干の緊張が走る。
私は自分でもわかるほどぎこちなくおはようを返す。
花ちゃんはいつものようにジトリと私を睨む。私はごまかすようにそさくさと自分の席に座る。
「なんか、様子がおかしい……?」
──ソ、ソンナコトナイヨ……。
「ま、貴女がこんな朝早く起きていること自体が珍しいですからね。用事があろうが、すでに様子がおかしいっていうもんですよ。」
──そうかなー?
「褒めてませんよ?」
──そりゃぁ私だってわかってるよ。
いつものやりとり、いつもの花ちゃんだ。私はホッと胸を撫でおろす。
気が抜けたのか、間抜けな息を吐く。
「ボサボサ。」
──え、なに?
「頭、ヤバいですよ。」
──悪口!?
「髪の毛です。嵐にでも遭ったんですか。」
間抜けな返事を返す。花ちゃんが貸してくれた手鏡を覗き込むと、確かに頭がヤバかった。自転車をかっ飛ばしただけにあらず、列車の窓から身を乗り出したのだ。風に煽られた自慢の天然パーマは、見るも無残な姿をしている。
私はリュックを開け、櫛の入ったポーチを探すが、見当たらない。忘れたのは現代文のノートだけではなかったようだ。たしかに、昨晩お母さんに逢うための髪形を考えていたが、なんたる失態。
「動かないでください。私がやりますよ。」
花ちゃんは彼女の鞄から櫛を取り出してゆらゆらと揺れる私の頭を鷲掴みにして固定する。おふっ、っと変な声が出るが、花ちゃんは構わず梳き始める。
さらさらと、静かな音が静に響く。
遠鳴りの喧騒が、よりこの静を強調していく。
この時間がとても愛おしく感じる。
──花ちゃん。いつもありがとね。
「慣れましたよ。貴女の世話を焼くのは。」
──これからも御贔屓に~。
「めんどくさいですね。特にこの髪質! 暴れん坊なんてものじゃありませんよ。」
──そんな褒めんでも~。
「褒めてませんから。」
鏡で整っていく髪にウキウキとしながら花ちゃんの様子を伺う。
やはりと言うかなんと言うか、どこかソワソワしている。今朝の待合室で何があったか、気になって仕方がないのだろう。
彼女の性格上、込み入った話になりかねないと、たとえどんなに気になろうが自分からは聞き出さない。私が口を割るまでひたすらソワソワし続けるだろう。
そんな彼女をもう少し堪能していたい気分でもあるが、少しだけ心が痛いので話を始めることにする。
──……行ってきたよ、待合室。
「はい。」
──逢えた。たぶん。
「たぶん?」
花ちゃんの手が止まる。私は頭を後ろに突き出し、手を動かすよう促す。
──結局最後まで名乗ってくれなかった。私の中で確信はあったけど、確証はない。
「誰に逢おうとしたんですか?」
私は今朝の出来事を思い返しながら話す。
──お母さん。
「お母さんですか? それはいったい……」
花ちゃんはそこで言い淀み、やってしまったと言わんばかりに目を反らす。
「……すみません、聞かないほうがよかったですね。」
窓に反射する花ちゃんはとても萎らしく、自らの腕を力強く握っていた。彼女の優しさは、とても愛に溢れている。
私は後頭部をぐりぐりと彼女に押し付け、今一度催促する。
──私が始めた話だよ? 花ちゃんが気に病むことじゃない。
「いえ、気付くべきでした。貴女が直接言わずとも、知りえたことでしたから。」
──優しいんだね。……死んじゃったんだ、ずっと昔に。だから、逢ってみたかった。
花ちゃんはしばらく無言で髪を梳いていたが、
「どうでしたか?」
と呟いた。
──……楽しかった。嬉しかった……! でも、もしかしたら……。
そこで言葉が止まる。なんとなく、不思議に思ったことがあったが、いつもの癖だ。直情を止められない。
──……花ちゃんはさ。今、幸せ?
「……なんですか、急に? 宗教勧誘ならお断りですよ。」
花ちゃんの笑顔が嘘っぽい、だなんて口が裂けても言えない。
万が一そんなことを言えたとしても、花ちゃんには適当にスルーされてお終いだ。私はなんとすれば事の真意を伝え、聞き出すことができるのだろうか。
──お母さんが言ってたんだ。幸せを失くさないために、人は笑うって。私は言った。幸せだから、笑うんだって。
花ちゃんは黙って聞いている。視線をあげれば、彼女の
──私は……幸せ、だよ。だって、貴女がいるから。
「……はい。」
──花ちゃんは……どっち? 花ちゃんは、今、幸せ?
伝わるだろうか。
悲しみも、喜びも、分かち合いたい。
貴女が幸せなら、ともに笑いたい。
貴女が辛いなら、ともに涙したい。
私のことを大切だと謳ってくれるならば、私は喜怒哀楽すべてを分かち合いたい。
いつまでも傍にいたい。
だから話してほしい。笑顔の意味を。
花ちゃんはしばらく無言で私の髪を梳き続けた後、ポンポンと優しく頭を叩いた。下ろしていた手に握られた手鏡を見ると、綺麗に整えられた私の髪の毛。
足音。花ちゃんの気配が遠のく。
「私は、幸せですよ。ある日からずっと、幸せの魔法にかかっています。」
──幸せの、魔法……?
「はい。世界で一番素敵な魔法です。」
振り返り、彼女の姿を仰ぎ見る。
私は、彼女の笑顔に、涙が止まらなかった。
「なんで泣いているんですか?」
花ちゃんはゆっくりと私に近寄り、抱きしめる。
──だって、私……その魔法だいっきらいだもん……!
そうでしたね、と花ちゃんは笑う。
魔法は彼女のすべてだ。他に秀でるものはない。
心に穴が開くような静かな喪失感が、逆に私を落ち着かせる。
──花ちゃん……、ロッカーの中。なにか、隠したよね?
「……はい。」
──なに……隠したの?
「内緒です。」
花ちゃんはポケットからティッシュを取り出し、私の鼻にあて、鼻をかむよう促す。お母さんと似た優しさを感じる。
──教えてくれないの……?
「いずれ……知る時が来ると思います。その日まで、内緒でいたい。」
──どうして?
「貴女は、花も謳わぬ幸せを
──いっつもいっつも、意味わかんない。
思わず笑みが零れる。花ちゃんもつられて笑顔になる。
「貴女とのおバカな時間が大好きだってことですよ。」
せき止めていた気持ちが胸の虚から溢れ出る。声にならない嗚咽が響く。
もう無理なんだ。私は彼女の答えを持ち合わせていない。私は彼女にとって支え木の未練にしかなりえない。嬉しさと悲しさが見境をつけれずに、強く唇を噛みしめる。
「お母さんに逢ったって言いましたね。」
そんな私の清濁が氾濫した内心を察してか、花ちゃんは明るいトーンで語り
──うん。
「だから貴女は気付けたはずです。故に貴女は見つけたはずです。」
──なにを?
「青い鳥を。」
花ちゃんは微笑むが、私はまるで理解できなかった。彼女の例え話は、いつも私を置き去りにする。
「皮肉な話ですが、」
花ちゃんは少し苦い顔で話す。
「私の知り合いに待合室について詳しい人がいました。……えぇ、そうです。貴女の嫌いな彼ですよ。全て知っていたうえで、私にも黙っていたそうです。」
まったく、無駄足を重ねました、と花ちゃんはどこか嬉しそうに溜息を吐く。
「彼は、あの待合室のことを“幸福の鳥籠”と呼んでいました。」
──幸福の……鳥籠。
「外界から隔絶された、約束された幸福。しかし、追い求めた青い鳥は、籠の中で息を引き取っているんだ、って。」
難しい話に首を傾げる。花ちゃんは嫌な顔一つせずに続ける。
「その意味は、話してくれませんでした。でも私は、なんとなく言わんとしたいことがわかります。」
──どういうこと……?
花ちゃんは話さなかった。優しさか、彼女なりの反抗か。
「それでも私は……たまになら、良いと思うんです。夢を追い求めないと、本当の青い鳥は見つからないのだから。幸せだからこそ悲しくて、悲しいからこそ幸せに気付ける。私たちはそんな愚かな生き物なんです。」
──よくわかんないよ。花ちゃんが言ってることも、何が言いたいのかも。
「貴女はいつだって私に会いにきてくれた。日々の幸福は、貴女無しでは語れません。私も楽しかったです……! だから貴女がいままでそうしてきたように、望みさえすれば私はずっとそこにいると約束します。きっとそこは、私にとっても“幸福の鳥籠”であるのでしょう。」
花ちゃんはいつもの笑顔で、しかしとても切ない声で。
「ありがとう、瑠璃。」
その言葉を最後に、私たちは日常に戻っていく。
今までと変わりない日々を過ごしていると、そう思い込んでいたかった。
私が待合室に行った日の1週間後。
花ちゃんは自ら命を絶った。
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