詠う鈴蘭

 花瓶に生けられた花が枯れていた。

 生命が輪廻という常識を捨て去り、時間という概念を嘲笑うようにはらはらと舞い散る。

 あるいは美しく、あるいは悲しみに涙を誘う。


──そっか。


 私は散りゆく花をそっと手に取る。花はみるみる間に彩を失う。魔法は終わり、幸と不幸が共に萌ゆる。私はその花を携え、家の扉を開ける。

 宵闇に、街の明かりが静かに照らす。どこかいつもと違う空気に息が詰まりそうになる。

 暗くなりそうな気持ちを振り払うように大きく深呼吸をする。


 さて、どこに行こうか。


 どこに行けば、この憂を知ることができようか。


 知りうるものを知ろうとするのは人のさがでありごうだ。行き着く結末は、ひとえに望んだ結果をもたらすとは限らない。無論、今もきっと辿り着くは望まぬ答えだろう。

 肌寒い夜の風に身を振るわし、上着を羽織る。陽が沈んでから、日中の陽気が嘘のようだ。

 ケータイをパーカーのポケットにしまい、そのまま左手で弄ぶ。右のポケットには鍵を入れ、自由になった右手には萎れた花弁。

 

 私は重たい脚をゆっくりと前に出し、静かな街に身を駆り出した。



───────



 街灯を抜け、足を止める。呆然と先を見る。

 行く宛がわからなかった。

 そういう時は、いつもここに来てしまう。

 広い公園だ。遊具に広場、端には原っぱに水溜りのような小さな池。

 

 きっとここから始まったのだろう。


 あの日、私と彼はお互いに終わらぬ魔法を掛け合った。その魔法は計らずともそれぞれの深奥に突き刺さり、呼吸を苦しめるように肺に穴を開けた。

 彼を想うたび、漏れ出ずる空気が焼けるように暑い。私は、日々を胸が焼かれながら過ごした。

 きっかけは、彼が特別であったから。そうかもしれない。我ながらとても現金な人間だろう。それだけかと言われると、そうではないと思うのだが、何分、十年以上前の話なので記憶が定かではない。しかし、夢見がちな幼い少女には、謙遜などという難しい所作は計れないだろう。きっと卑しく媚びるような目をしていたに違いない。


 しかし、彼は言ったのだ。


「僕が魔法使いなら、君はお姫様だね。僕の魔法で、君のお城をお花でいっぱいにするよ。」


 その一言は、言葉にならぬ情動となり胸の一番深いところを包み込む。詠うように美しい響きが、善悪区別せず私を支配した。

 子供の戯言といえば、それまでであろう。

 しかし、幼い私の心を支配するには恐ろしいほど単純で強力な魔法だ。

 私を魔法使いと呼ぶ彼こそ、私にとっての魔法使いだった。

 

 魔法と呼ぶのは心地が良い。

 これは呪いと呼ぶほうが適している。今の私は、彼の甘言を保身的に退けている。

 いったい呪いをかけたのはどちらであったのだろうか。答えも出さぬまま、私たちは歩んでしまった。


 そうして私と彼のお話が始まったのだろう。誰のためとも分からない、没落していく自己肯定感を目的も見失ったまま抱き留めるお話が。

 

──結局、貴方のこと、なんにもわかんなかったんだろうな。全部全部、間違えてばかりだ。


 最後に口を聞いたのはいつだったか。多分、喧嘩をして以来、彼とまともに話していない。

 きっと私は嫌なやつだったに違いない。私は彼の一番触れられたくないところにベタベタと触れてしまったのだ。




 特別な力を持つ彼と隣に立つ私は、自分たちが特別な存在だと信じて疑わなかった。

 私は綺麗な理想を詠い、彼はそれを現実にする執行者。

 難しいことはしていない。私はただ、他人を傷つけることをやめ、手を取り合い協調する世界をと声明する。幼い社会でいじめを無くそうと、それだけのことだ。

 私たちは彼の不思議な力を平和のプロパガンダにして、楽園たる花園を築こうとしていた。心を閉ざせば綺麗な花を送り、傷を癒していく。そうして作り上げた組織で悪きを挫く。事実、私たちの周りの世界は、次第に私たちの思想に共感し、私たちの思う「より良い世界」を築き上げていった。私たちは、正しかった。今でも、結果の中に誤ちを探す方が難しいかもしれない。

 

 しかし、私たちは完璧ではなかった。


 次第に規模が膨張していく慈善集団、当然全容を把握できるわけもなく。意志の完全な統一はままならず、内側から対立していった。

 そして過ちを犯してしまう。

 表面的ないざこざのみを解決してしまい、裏側を改善できないことが多々見受けられた。広く浅くの善意は、根本の解決を無視し、客観的には偽善となりゆく。

 そうして私たちの信用は集団の品位と共に下落していき、最終的に私たちが助けようとした少年が自殺してしまったのだ。私たちのいないところまで守ることが出来ず、結果として裏で苛烈ないじめが増していく。大きな光を照らそうとしすぎて、より強くなっていた暗影に気づかなかったのだ。


 無能、口先、エセ宗教。影に散々な罵りを受けたものだ。磔に合わないだけマシだったのかもしれない。

 

 しかし、中学の最後の春に、彼の母が亡くなった。


 それは、報いのように降りかかった災厄であった。彼の母親に天罰が降ったなどいう輩さえ出てくる始末だった。


 返す言葉も空に消え、私たちは逃げるように遠くの高校へ進学した。幸い、私たちを知るものはほぼおらず、知りうる少数も密やかに過ごさんとする私たちを貶めようとは考えなかったようだった。


 だが、彼の心はとても強かった。

 悪くいえば、懲りなかったのだ。彼の中での正義は揺るがず、再び正義を執行しようと奮い立っていた。すでに力もないと、私は幾度となく彼の行いを止めようとしたが、彼は聞く耳を持たなかった。

 そうして得られた結果は考えるまでもない。

 悪とは、次第に力そのものとなっていく。力には、より大きな力でないと制することは叶わない。

 彼は決して体格がいい男児とは言えない。集団の暴力に対して、彼はあまりにも無力であった。


 ボロボロになった彼が痛ましい。私は、彼に変わってほしかった。

 

 ──もう止めようよ。私たちは、正義じゃないんだ。


 「……それじゃあ君は、僕たちが、僕たちの成してきたことが、間違っていたとでも言うのか?」


 ──ううん、そうじゃない。間違いなはずがない。でも、正義でもない。


 彼は強く噛み締める。

 「正しくないはずがない……。」

 地に伏し血を滴らせる彼は、未だに心の火が消えていなかった。その強さが、私の心を苦しめる。


 ──違うの。正しくない。振りかざされた正義は、相手からしたら正義ではない。もう一つの正義なんてご立派でもない、ただの、相反する悪なんだ。


 「違う……! 僕たちは……僕は! 間違ってなどいない。正義と悪は、思想の間で相違があってはいけないんだ……!」


 ──……あなたは悪を滅するためだけに今も立ち上がるの?


 「他に戦う意味などない。」


 怒りか、傲慢か、愚直か。もしくは全てかもしれない。

 彼は曇りのない『正義』そのものであった。心の在処も、透明に消えゆくほど。

 無性に悔しくなる。成してきたことは決して遊びではなかったが、私は自分が傲慢であることを自覚していた。正義の味方であることを自惚れていた。そしてなにより、彼と共にあることが嬉しかった。


 そうだ。もう正義とか、悪とか、正しいとか、間違いとか。

 そんなことどうでもよかった。

 崇拝は心地いい。が、私が欲しかったのは有象無象の敬愛ではない。

 こうやって全てを失ってここまで逃げてきたのだ。やっと、二人きりなのだ。

 貴方だけを思うことは、罪だというのか。この気持ちを、貴方は間違いだというのか。応えてほしいと、貴方に願う。

 

 なのに。


 貴方は未だに正義を謳う。


 私のことなぞ、眼中になかったというのだろうか。

 胸の奥に嫌な体温が咽ぶ。

 私は何を言いたいのかもわからなくなっていた。


──貴方は、魔法使い。誰かを笑顔にする魔法を使う。今の貴方は一体誰を笑顔にするというの?


「……一瞬の笑顔にならないために戦うんじゃないか。」


──誰も望んでなんかいない。誰も! 戦ってほしいだなんて言っていない!


「君は、頼まれなければ誰かを救おうとすらしないのか? 弱者は声を上げなければ助けてもらえないのか? そんな世界に、こんな無力な魔法はいらない!」


──貴方には誰の声も聞こえていない! クラスの子の声も。私の声も! 自殺したあの子の声も!


「  」


 決して言葉にしてはならないことを言ってしまったと、気づいた頃には遅かった。

 しかし、私は──。


──もう……馬鹿なことはよしてよ。貴方が傷つくところは見たくない。もう全部無駄だって気づいてよ……! 私の魔法使いは……。


 涙で声が燻る。続く言葉が口を出ない。


「……いつから君の魔法使いになったんだ。僕は、君にとって都合のいい人ではない。」


 喉の奥が痛む。声を絞り出すのも苦しく、吸い込む空気が焼けるように身を裂く。


「消えてくれ……。君を魔法使いだと信じた僕が馬鹿になってしまう前に。」


 一体どうすれば、望んだ未来を得られたのだろう。


 一体どうすれば、彼は私へ振り向くのだろう。


 少なくとも、間違えてしまったことだけはわかる。

 

 もう、手遅れだということは、わかる。


 震えながら頷く。

 そうして絞り出した言葉は、一生惜しむことになる、愚かな皮肉のろいだった。


──君のこと、好きだったんだけどな。


 よろよろと振り向きながら足を動かし、立ち去る。


「……僕も、そうだったらよかったのにな。」


 去り際に、そう聞こえたような気がした。

 後悔を掻き立てるように、心臓の音が永遠と反響し続けていた。



 

 暗闇の小さな公園でそんなことを思い出す。きっと将来、いかなる幸福な道を歩めども、ここに来たら思い出してしまうのだろう。

 ここには何もない。彼もきっとここを覚えてはいない。

 今一度手元の花へ視線を落とす。相も変わらず力なくそこにあるだけだ。

 携帯の画面を見ると、母親から心配している旨のメールが届いていた。簡単な返信だけをして時間を確認。20時半。

 私は腰をかけていた遊具から立ち上がる。体の重さは、ここから去れば少しは和らぐだろう。

 公園を後にし、辺りを見渡す。


 次はどこへ行こうか。


 これはきっと、彼を探す道のり。

 思い出に残る彼の残光を盲目に探すだけだ。

 そんなわかりきったことをようやく自覚することで、少しだけ気が楽になった。



───────



 彼との思い出はたくさんあったはずだ。

 しかし、私が足を運んだのは、彼が来たことない場所であった。

 何を求めているのか、はたまた逃げ出したい心象の表れなのか。


 電車に揺られ、通う高校の最寄駅。

 そこから少し歩いたところにある、小さな山の中腹付近にある山道、そこにあるとても小さな祠。おそらく何かの神様が祀られているのだが、地元の人間でさえ、わかっていない。おそらく道祖神の類であろう。

 ここはとても静かなので、一人になりたい時によく来るのだ。街の方向へ目を向けると、夜景が綺麗だ。

 彼とここの景色を共に眺めたかったと憂いが湧き出す。目がひりつくのは、きっと光が眩しかったからに違いない。


──そういえば……。もしかして、あの時。


 風に揺られた草木の音を足音に錯覚した時、ふと昨日の出来事を思い出す。

 昨日もまた、ここに来ていた。




 昨日は、そう、特に意味もなく来ていた。

 強いていうなら、あの日以来、私の憂いは耳の奥で鳴り止むことはない。

 気が滅入ってしまい、昨日は夜中に目が覚めてしまった。そうして深夜にもかかわらずここに来ていた。夜な夜な徘徊するのもいかがなものであろうか、そういえば、先程の母からの連絡も思いの外気にかけた様子も無かった。母の慣れに苦笑いがこぼれる。

 財布も持たずにフラっと家を出た。

 一時間ほど無心で夜景を眺めていたのち、喉が乾いたため帰ろうとしたが、終電もなかろう。近くに住む友人に電話でもして厄介になろうと、その時であった。

 山を降ろうと腰を上げた際に、背後、山の上から何かが近づいてくる気配を感じた。

 こんな時間に山から降りてくるものに決して良い印象は持てないが、不思議と恐怖はなかった。理由もわからぬ勇敢で足が止まる。

 降りてきた何かは私の5メートル手前ほどで足を止める。おそらくコートのようなものを目深に被っており顔は見えなかったが、背丈は小さく肩幅も狭い。私と同い年くらいの少女であろうと思うと、不思議と好奇心が溢れてくる。

 

──どちら様? こんな時間に何してんの。


 迂闊にも声をかけるが、自然と害はないと感じていた。

 それは私の声を聞くや否や、ゆっくりと私に近づいてくる。少しだけ緊張が走る。乾いた喉が気になり、滲んだ唾を飲み込む。

 2メートルほど手前に近づいたところで、それがなんであるか、輪郭が明確になってくる。私たちのいるところは木々の隙間で、月明かりに照らされている。その光が、レインコートを被った少女であることを露わにする。


『先輩こそ、こんな時間に何してるんですか?』


 先輩と呼ばれて、一瞬思考が止まる。

 目の前の少女はコートのフードを脱ぐ。

 綺麗な白銀の髪が顕になる。青い瞳が月の光を反射して、幻想的な光を映す。

 彼女は確か……文芸部の後輩だ。



 

 私と彼は高校に入学して文芸部に入った。

 理由は特にない。強いていうなら、零細な文化部で、私と彼が粛々と一緒に過ごせる場所を求めた結果だ。彼は私に付き合う形で入部したのだ。

 私と彼が仲を違えたのは高校一年の夏だ。以来彼は部活にも来る事はなく、文芸部の部室は私一人だけの場所になってしまった。そんな場所に入り浸る理由も既になかったのだが、彼が帰ってくるのではないかと淡い期待を抱きながら、冬の雪が降る日も意味が理解できない文学書に目を通したものだ。そうしてくるはずのない待ち人を乞う時間は、今思い返しても辛いものだ。


 そして新たな春を迎えた頃、私と幽霊部員の彼の二人しかいないはずのこの場所に変化が訪れる。


『コンニチワ! ニュー部シマス!』


 彼女が現れたのだ。

 リリー・サルヴィア。

 留学生だと自己紹介を貰う。一体彼女が何故このような部としての体裁を成しているのか疑わしい部活に入部したいのか、その場で聞いてみることにした。


『人! サガシテマス! 文ゲー部言ッテタ!』


 彼女の片言の日本語を解読したが、見当もつかなかった。ここには現在私しかいない。私は彼女に探されるようなことをしたのだろうか。


 返答に困りながら辿々しく言葉を返そうとしたその時。

 息が止まった。

 全身が光を求める草花の如く、に意識が吸い込まれていくの感じた。


 喜べばいいのだろうか。それとも。


「……君、本当にきたんだ。」


『センパイ! ニュー部シマス!』


 彼が現れたのだ。

 彼は雰囲気が変わったように見えた。今までとは打って変わってとても穏やかな様子で、鬼気迫る眼力は意思という光さえも失っているようだった。

 リリーは彼に懐いているようだったが、彼はあまりいい気ではないようだった。……いや、これは私の願望であろう。希薄な望みに縋りついた故に見えた幻だ。リリーが彼に興味を示せば示すほど、彼の瞳の奥に再び光が灯っているようであった。胸の奥がざわつく。

 リリーがなにか盛り上がっているようであったが私の耳に彼女の言葉は上手く入ってこなかった。彼らの会話に、私は無理矢理に遮る。


──二人は! ……その文芸部に?


『ハイ! ……? フタリ?』


「僕は……帰るよ。サルヴィアさん、悪いけどここに来てももう僕には会えないから。」


 鼓動が早まる。


『ナンデデスカ? 文ゲー部デショ?』


 彼の表情が曇る。露骨に目を逸らされている。私は震える声を落ち着かせるために短く息を吸う。


──そうだよ。イカリも文芸部。幽霊だけどね。


 初めて彼と目が合う。無機質な目は、私を疎むような不快感はなく、ただ居心地悪そうに逃げ道を探る小動物のようだった。


『ユーレー? ナニ?』


「違う。やめたんだ。だからもうここにはこない。」


──ダメ……! 部長は私。退部届も受け取ってないから、やめてない。


「……。」


 震えがまぬまま、気持ちが溢れぬよう一つひとつ言葉を絞り出す。


『ヤメルデスカ?』


──やめない。私は、認めない。


 彼がクシャリと何かの紙を握りしめる。


──……受け取らない。


「君は……どうしろっていうんだ。……僕は。どうすればいいんだ。」


 答えが見つからないまま来てしまった。あるいは、無理矢理答えと信じ込もうと紙切れに縋ったのか。

 きっと、ここが最後のチャンスであった。私の声が届く、本当に最後の。

 だからこそ、リリーが居てしまったことが過ちだったのかもしれない。


『イマス! 私トイマス!』


「……? サルヴィアさん……?」


『フタリガイマス! ヨロシクオ願イマス!』


 リリーは笑顔で私に言った。そして、彼にこう言った。


『一緒ニイマス! ヨロシクオ願イマス!』


「サルヴィアさん……無理だ。僕はここに居てはいけない。」


 そんなはずはない。しかし私にもそのことは紡げない。


『ナンデ?』


「……理由が、ない。生きる理由が。」


──そんなこと……、


『ナラ!』


か細く消えうる私の声を、快活な魔法が打ち消していく。


『私ガリユー! 一緒ニイテ!』


「っ……!」


 最初から、私もそう言えていれば。

 彼も私も苦しむことなく独善的な幸せを追求できたのか。

 彼と一緒にいることができたのだろうか。


 私の魔法は奪われた。もう伝う言の葉を持ち合わせていない。

 彼の瞳の奥に、昔の面影が燃え上がるのを感じた。それはこの数年の間にだいぶ信念かたちを変えたのだろうが、紛れもなく自我じしんに溢れた彼が、そこに立ち上がった。

 リリーが彼に手を差し出す。彼はリリーの雰囲気に圧倒されたままゆっくりと手を持ち上げ、結ぶ。私はそれをただ黙って見ていることしかできなかった。


『ヨロシクオ願イマス!』


「……、だよ。 リリー。」


 ただ、黙って見ていた。


 それから二人は毎日文芸部に通うようになった。零細部が一気に華やかになったが、私の心は日々追うごとに暗雲を増していく。

リリーの学習速度は凄まじく、もとより聞き取りは出来たようで、2ヶ月と経たぬうちにかなりペラペラになっていた。無論、勉強には彼が付きっきりで、それも相まって上達を促したのだろう。最初は嫌々というように付き合っていた彼も、リリーの成長に合わせ、笑顔も見せるようになってきた。


 それがとても居心地が悪かった。


 リリーは見境なく、私とて話しかけてくる。次第に明るくなっていく彼も、気を使うように私にコミュニケーションを取るようになってしまった。


 その優しさが、痛かった。


 その距離感が、苦しかった。


 彼の瞳に映る私が、有象無象になってしまっていたのが、耐えられなかった。


 そうして入れ替わるように私は文芸部に行かなくなった。あそこに私の居場所はない。そう感じてしまってからは、あそこで過ごす時間が、彼と過ごす1分1秒が辛かった。悔いてももう、取り返すことはできない。




 それから私は、居場所を求めるように夜の街を彷徨う。辿り着いたところが、ここであったのかもしれない。


 だからリリーとここで出会った時、怒りのようなものを感じた。逆恨みも甚だしいだろう。


『先輩こそ、こんな時間に何してるんですか?』


 暗闇の隙間にてらう彼女へ、私は自分でも驚くほどに落ち着いた様子で微笑みをかける。


──別に。お散歩だよ。あなたこそ、何故ここに?


 リリーはキッと鋭い眼光を私に向ける。それは今までの彼女からは想像もできない敵意を放っていた。不意な敵意に唾を呑む。

 彼女は私の後ろや周りを見渡し、どうやら私が一人であることを探っているようだった。そうして確認が取れたのか、ゆっくりと瞬きをし、彼女へと戻った。


──心配しなくても、私一人だけだよ。


『心配なんてしてません。』


 リリーは笑顔で即答する。その笑顔に一抹の恐怖を感じる。一体何が彼女からこれほどまでの威圧を感じさせるのだろうか。

 リリーの青い瞳が私をまっすぐに捉える。


『お散歩、 ですか。ここは危ないので、すぐに帰ったほうがいいですよ。』


──危険じゃないよ。ずっと来てるもん。慣れてるよ。


『危険。ですから。』


 やはり、本当に私の知る彼女ではないのだろうかと疑うほどの眼光。返す言葉を失うが、佇まいは崩さないまま、空を仰ぐ。


──なんか、似てるね。彼と。


リリーは口を噤んだままより訝しむように眉間を寄せる。そして、何かを察したのか、目を細め、私の様子を伺うように口を開く。


『ずっと一緒なので。』


──……へぇ。仲良くやってんだ。すごいね。


『はい!』


 笑顔になるリリー。


『私、先輩のこと、大好きなので!』


 リリーの顔を横目に覗く。彼女の初めて見る笑顔に思わず苦笑する。

 あざけられたと思ったのか、リリーはスッと表情を鎮める。


──ごめんごめん、悪意はないんだ。……そっか、楽しくやれているようで安心したよ。私は……喧嘩しちゃったから……さ。


『……。聞きました。先輩方の関係。ざっとっていう感じですけど。』


──……。


『ふー……。親切心で聞いてあげます。一回だけですよ? ……仲直りしたいですか?』


 憂うような優しい瞳が、痛かった。目も合わせていられずうつむく。


──……わかんない。


『そうですか。では。』


彼女は思いもよらぬほど淡白にその場を立ち去ろうとする。反射的に、通り過ぎていく彼女の袖を掴んでしまう。


『……なんですか?』


──……待って。


『嫌です。一回だけと言ったはずです。』


──ごめん……待って、ひとりにしないで……!


『……はぁーーーー。』


 リリーは私の手を振り解こうと強く手を引っ張る。が、思いの外、私が強く彼女の袖を掴んでいたようで離れなかった。リリーは力任せに私を突き飛ばす。拍子に彼女を包んでいたレインコートは乱れ、彼女を露出する。


 月の光が顕にするその身は、よほど私の知る彼女とは思えなかった。コートの下はTシャツで、人目を拒んでいたその凄惨たる傷だらけの腕に言葉をのむ。

 腕だけではない。彼女の着ていたシャツは、ひどく変色していることに気づく。経年劣化などではない、およそ日常ではつかない恐ろしい赤であった。しかし私は、なびく銀髪にはえるこの赤に、自然とその美しさに、目を奪われていた。


『もう遅いです。伝えるべきも、私ではないでしょう?』


 返す言葉もない。うつむく私に呆れたように彼女は再び大きなため息をつき、乱れた自分の姿へ目をやる。見せてはいけないものを剥いてしまった私をキッと睨みつけ衣服を見繕う。

 今日のうちに散々と聞き飽きたため息が聞こえる。


『エリカ先輩、』


 不意に名を呼ばれ、間抜けに呆けた顔を上げる。

 複雑な表情のリリーがこちらを覗いていた。


『手遅れですよ。あなたでは役者が足りていません。を奪ってしまった罪悪感からこんなこと言ってあげてるんです。』


 想像を遥かに上回る皮肉な口上に、思わず口角が上がる。


──……女優のつもりなんだ。思い上がりの激しい子。


『……は?』


 胸に秘めたつもりの悪態が空いた口の隙間から漏れていたようだった。自分でも驚いたが、名優と謳う彼女には小芝居で返すのが礼儀というものだろう。


──確かに、もう私の居場所はそこじゃないんだろうね。あなただってそう思うから、嫌われ役に徹してくれているんだよね。


『……なんだ、思ったより元気ですね。夜道は暗いので、お気をつけてお帰りください。』


 リリーはなんとも綺麗な笑顔を作る。皮肉で愚昧な私も、競うように幸せな笑みを詠う。


──一緒いっしょに居てあげてよ。きっと、貴女のこと大切に思ってるからさ。だって私がかけた魔法は、そうやって彼を苦しめてきたのだから。


 リリーは私を一瞥し、


『そうですか。ありがとうございます。二度と、私たちの前に現れないでください。目障りですので。』


 白百合が、謳いながら美しく微笑んだ。




 今朝、この山の上の方で、遺体が見つかったそうだ。今でもここから先には進めないように雑にテープで封じられている。彼女が、来た方角を。

 別に人を殺していいなどという悪感情があるわけでもない。人道倫理は至極当然私の中にもあることだし、それに反する行為を疎む感情を、私はしかと持ち合わせている。

 ならば、あれは彼女リリーゆえか。

 白百合の絢爛けんらんが魅せるまどいなのだろうか。


 確たる所以ゆえんはないと。そう、信じたいだけかもしれない。


 だが愚かにもあの白百合は、明確に現世の罪を孕んでしまったのではないだろうか。

 ならば。



 貴方は、罪に溺れる乙女を無為に捨てゆくことができるのだろうか。



 ……知れたことを。



 この手にすくむ死せる花が語っているではないか。

 貴方は受け入れた。そう思うべきなのだ。


──……進むべきだ。それしか、私にはできない。


 答え合わせの時間である。ひいては、夢の終わりと受け入れるべきだ。

 私は今までにないほど重くなった足を動かし、学校へ向かう。

 貴方はきっとそこにいる。



───────



 三年もこの学校に通えば、目を瞑ってでも、この暗闇の中でも、自然と辿り着ける。

 名ばかり文芸部の私は、身体能力だけで言えばそう悪いものではない。

 学校の塀を軽やかに乗り越え、身を潜めながら校舎の中を進んでいく。

 途中、守衛の姿を探してみたが、守衛所へ裏から近づくと間抜けないびきが聞こえてきた。まったく、この学校の防犯意識は難聴を極めているらしい。鬱陶しい鼾に今一度耳を澄ましてほしいものだ。

 守衛所に用はない。部室の鍵はすでに持っている。部室の鍵は部長に全て委ねるという校則を構えており、スペアをリリーに渡して尚、私は部長であるが故にこの鍵を持たされていたのだった。それもまた、私に課せられた呪いだったのかもしれない。


 そうして私は彼の地へ向かう。そこにいるのだろうか、いまいち自信がないが、私には他にがあるわけでもなかった。


 階段の一段一段がまるで天上の雲が如く遠くに感じる。鉛を括り付けられたように重い足は、歩みを進めるにも酷く煩わしい。疎ましくも己が足に喝を入れつつ、ついに目的の階層まで登り切る。


 寂れた校舎のなんの変哲もない一室。

 それが無性に私の心を締め付ける。


 私はノブを回す。言わずもがな鍵がかかっている。

 私はポケットにしまった鍵を取り出しゆっくりと差し込む。心臓の音が宵に微睡む街すら起こしてしまうのではないかというほどに五月蝿い。

 鍵を捻る。カチャリと軽い音が鳴り、施錠が解かれる。

 すでに用の無いものだ。私は鍵を抜くのも億劫になったまま、ノブを回す。ギシギシと古い建物からしか鳴らぬ悲鳴が拍動と調和し、脳内を不穏に染め上げる。


 開かれた教室に一瞬目が眩む。暗闇の廊下から、月明かりの差し込む部室はやけに明るかった。


 光に目眩う私は息を呑む。

 それは光だけではない。


 ここには二人がいた。


 楽園の残光が、私の盲目を焼きこがす。


 見るべきではなかった、そんな後悔もいまさらである。

 読みかけの本、並べられた二つの鞄、冷め切った湯呑み達……。

 絶望は、嗚咽すら飲み込む。乾いた笑いが、私の口からこぼれる。


──期待していたわけじゃない。そもそも何を期待してこんなとこに来るかもわかんないのに……。


 そうだ、ここへ来た理由は胸を穿つ酷な現実に折り合いをつけるためだ。なるべくしてこんな最悪な心境に成り下がったのだ。


 感情的になりすぎるのも良くないだろう。結末は、この手に枯れる花が語っている。それを受け入れるためだ。そのために来たのだ。誰もいないここでは、それも成せない。すぐに行方を追うべきだ。

 イカリとリリーはどこに行ったのか、しかし、私の足は力を無くし、近くの椅子に崩れていた。変わらない。あの冬もここで一人、彼を待っていた。あの日々を卑下しても、ここには、もうその面影すらない。変わらないのは私だけだった。


──……全部全部、お前のせいだって、逆恨みだとしてもそう思いたい。


 気持ちが溢れ落ちる。

 遠巻きに、誰かの笑い声が聞こえた気がした。




 静かな部室で想いを馳せる。


 この手に咲いていた花は、遠い昔に彼が初めて魔法で咲かせた花だ。

 私の人生を呪いつづけた鎖だ。

 かの魔法は、草花を生命の輪廻から追放する。生命の終わりというものを除外し、永遠と咲き誇り続ける魔法の花は、美しさに合わせ、恐ろしさも内包している。

 その花が枯れたのだ。呪いが解けるには、いったいどういう理由があるのか。

 遠い昔に読んだことがある御伽噺に答えは書いてあった。貴方は、御伽噺の悪い魔法使いであったというのか。

 枯れ花に問う。当然、答えは返ってこない。こうやって自分で答えを導かないからこそ、至ってしまった未来ではないのだろうか。性懲りも無く阿呆な頭に嫌気がさす。

 目的地がない。正確には、わからない。貴方は今、どこにいるのだろうか。


──会えたとしても、私はなんて言えばいいのかな。……それとも、いらぬ期待、かな?


遠く窓の外へふと視線を送る。時を同じくして、月の光が雲間に潜める。片田舎の端にあるこの高校は月明かりが失せるとなんと仄暗いものか。

だからこそこの暗闇を穿つものは、何よりも目を奪う。



 口にせずともわかった。それは──君の魔法だ……!



夢かと惑う。幻想的なこの世界は一瞬の隙もなく、私を魅了する。



 窓の外、少し離れたとこより、地上から小さな光の粒が湧き上がっていく。

青白い、小さな小さな光達が幸せそうに揺らぎ立ち上る。私が大好きだった魔法とは見た目が違うが、同じ人の魔法だと理解した。

 力が入らずフラフラな足を引き摺りながら、なんとか窓の前に立つ。高揚に心臓が今までにない音を荒立てている中、不思議と冷静に窓を開ける。


 光は学校の、プールから立ち上っていた。そう離れた場所ではない、古びたプール。

 光の正体はここからではわからない。しかし、求めたものがそこにあった。


 一瞬、胸がときめく。しかし、幸福が全身を駆け巡る前に、光と共に霧散していく。


 わかっていたことであった。この結末はこの手の花が枯れた時から、わかっていた。


プールの中央に一組ひとくみの男女が倒れていた。この距離でもわかる。魔法使いと、あの美麗な白髪は。


 私の花は枯れてしまった。そこに込められた願いも、全て叶わぬ詭弁へ成り下がる。

 不気味なほどに心が落ち着いていた。足も軽い。魔法は鐘の音と共に長い夢から覚めてしまった。望んだ静寂に、我ながら恐怖する。

 ため息を吐く。窓の淵に片肘をつき、目を細める。胡乱うろんな少年少女を鼻で嗤う。


 貴方は私の魔法使い。私に、幸せの呪いをかけた。


 私は貴方の魔法使い。貴方に、不幸の呪いをかけた。


 そして二つの呪いは、今を持って全て光と消えゆく。




──バカだね。君の魔法使いは、君のことを絶対に許してあげない。




私は一輪の枯花をズタズタに引き裂いた。


 

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