謳う白百合

白州智也

謳う白百合

 その能力の存在に気づいたのは物心がついてすぐだった。

 今ではもう名前も思い出せない、仲良しだった女の子。その子が大事そうに持っていた小さな花はずっとそうしていたのか、すでに元気がなくなっていた。


 僕は、綺麗な花だねと手を触れる。すると、今にも枯れんとしていたその花が再び咲き上がったのだ。彼女は目をまんまるにして驚いていたが、当然僕自身も彼女以上に驚いていた。


 この手にいったい何の力が宿ったのか。


 唖然と言葉を失っていた僕であったが、爛々と目を輝かせた少女が大はしゃぎしたので我に帰ったのであった。


 当時は、異質な力にまず先に恐怖を感じた。

 世に蔓延る創作において、異能といえば殺傷能力の高いものが目に留まる中、少年にとっては嫌に可愛らしい能力だ。夢みがちな少年という生き物にとって不平不満が出るのが普通であろう。


 が、僕はその異様性に高揚は微塵もなかった。

 ……いや、流石に僕も男の子なので僅かながら胸をときめかせたが、臆病な性格柄、やはり勝るのは恐怖だった。注目されるのは嫌いなのだが、こんな人に害のない力が注目するなと言う方が無理な話であるし、怪しい機関に人体実験……なんてこともあるかもしれない。どこか隠れられるところで一生を過ごすべきなのではないか?


 狼狽える僕の胸中を知ってか知らずか、眼前の少女は変わらぬ笑顔を咲かせていた。


「きっと魔法だね。あなたは素敵な魔法使いだよ。」


 その一言は、形容できない感情となり胸の一番深いところを貫いた。謳うように美しい響きが、善悪区別せず僕を支配した。


 僕を魔法使いと呼ぶ彼女こそ、僕にとっての魔法使いだった。


 以降、僕の性格は変わった。

 なんとも歪んだ少年となった。僕は特別な人間なのだと、己の中に陶酔しきっていた。周りの有象無象たちはこの僕のために存在していると信じていた。表には出さなかった分、より酷く歪み、いつしか笑顔も嘘臭くなっていった。

 魔法使いは、間違った人をシンデレラにしてしまったのだ。童話の姫君はとても謙虚で誠実だ。かくいう僕は女性ではないのでプリンセスになりたい願望はないが、それにしても僕をかの姫君に例えるなら、天と地の差だろう。器ではなかったのだ。


 報いは、魔法から呪いへと変えた。


 いや、報いと捉えるのは僕の傲慢だろう。


 母が死んだ。


 この力は、どうやら枯れた花だけではなく咲く前の蕾をも咲かせる力であるらしい。しかし、人や動物など、植物以外のものに対してはなんら効力はない。死んだ花は今一度命を実らせるが、死人は声の一つも返してくれない。

 母の冷たくなった頬に手を触れて、子供ながらなんとも使えない能力だと世界を恨んだ。魔法使いを、恨んでしまった。

 手元には母の好きだった花が一輪。それ以外は、滑り落ちていった。いや、この手で醜くも捨ててきたのだ。

 母の葬式以来、僕はこの能力を人に言うことを避けてきた。


 きっとこの力は呪いだ。思い出という記憶の深淵に巣食ういつかの魔法使いが僕にかけた呪いなのだ。

 そう言って、縋るように生きてきた。


 ──────────


 今朝のニュースで名も知らぬ男が、どうやらこの近くで死んだらしい。

 かなり惨たらしい遺体が見つかったようで、未だ欠損した部位は見つかっていない。きっと犯人はひどく残忍で情の欠片も無いサイコパスに違いない。自らの命をかような殺人鬼に終わらせられてしまった被害者に両の手を合わせる。

 しかしまぁ、どうせ死ぬなら、そういった突飛な形も悪くないのだろうか。老いでジワジワと迫る死神の足音に耳を澄ますより……いや、これは被害者に対する配慮に欠ける。自重。

 人殺しはよくない。それは分かりきったことだ。何より、僕のに反する。


 死ぬならば、寿命か、もしくは。

 この花を咲かせる力を使った、美しい自殺とか。


 なんて、くだらない妄想に今日も耽っている。



「百合で自殺できるって話知ってますか?」


 小さな文庫本の背から、綺麗な青い瞳がこちらを覗く。僕は手元の単行本に目を落とし、若干の考える間を持ってから視線を逸らさず答える。


 ──それは何かのメタファーか? 君の名前にかけて、僕に心中でも持ちかけているんじゃないだろうな。


 少女は本を閉じてニヤリと口角を上げる。


「先輩、心中の意味知っていますか?」


 私気になって調べたんですよ、と彼女は足元にあった大きなリュックサックから辞書を引き抜く。サラサラの白銀の髪を慌ただしく揺らしながらペラペラと付箋のついたページを捲る。


「相愛の男女がいっしょに自殺すること、だそうですよ? 相愛だなんて、これは先輩からの告白と受け取っていいんですね?」


 彼女は爛漫たる笑顔をずいと僕の眼前に近づけてくる。やたらと距離が近いが、僕は平静を崩さないまま答える。


 ──その下の項目はちゃんと見たか? 大体の辞書には君が言うことの続きに、『一般に二人以上のものが共に死を遂げることを指す』とある。親子心中とか言うだろ。


 少女はぱちぱちと目を瞬かせていたが、僕の発言が終わるや否やジトリと青い瞳を細くし、


「照れ隠しですか?」


 ──そうだね。


「そこはもうちょっと躍起になってくださいよ〜! 違うから〜って声を荒げなくちゃ! 先輩からは壁! 壁を感じるんです! 先輩とお喋りするためにこんなにも日本語を勉強したのに、酷いです〜。」


 そんなお願いした覚えはないので酷いと言われるのも心外だ。が、大して気にしていないので、いっぱい勉強してよく頑張ったね、偉いとだけ言っておく。


「それですよそれ!壁!理不尽に酷いと言われて少しは怒ってくださいよ!」


 ── ! が多い。少し静かに。


 少女はしゅんと縮こまり「すみません…」と呟く。小さくなったまま椅子に座りブツブツ何かを呟いていた。



 彼女はリリー。リリー・サルヴィア。海外からの留学生で僕の一つ下、高校二年生。どこから来たかは最初の方に自国自慢されたが、お国柄には大して興味がなかったので聞き流していた。故に覚えていない。美しい白銀の髪に綺麗な青い瞳。陰湿な文芸部の部室でさえ、煌びやかな彼女一人で華が舞う。


 彼女はそのまま椅子と融合するのではないかとばかりに縮こまるので、流石に申し訳なくなってしまう。僕は小さなため息を一つ吐き手元の本を閉じる。

 僕が口を開くより先にこれに気づいたリリーが目の輝きを取り戻すのを感じた。まるで犬が尻尾を振るが如く居住まいを正す。そんなにもこんな僕が話し相手になることが嬉しいのだろうか。気恥ずかしさと優越と、率直な喜びが僕の心を満たす。


 ──で、なんだっけ?


「百合の花です。私じゃないですよ? 確かに私はリリー、百合の花ですが、違います!」


 そんなことはわかっている。流石に僕も冗談で言ったのだから。それに冗談にしても少し陳腐だ。僕好みではない。


「なんでも、百合の花を敷き詰めてそこで眠ると、百合の花から出るナントカ〜っていう成分で目を覚ます前にポックリ、だそうです。」


 ──しかし、日本語上手くなったね、リリー。


 ポックリ、なんて古臭いオノマトペを使いこなしたり、僕に影響された無駄に格好つけた漢字の羅列を使うぐらいには。変なことを教えすぎたかもしれないと、少し反省。


「そうですか!? えへへ……じゃなくて! 今はいいんですよ! 私の日本語が上達したのは、先輩のおかげです!」


 ──そうかな? そうだとしたら、嬉しい限りだ。


「自信を持ってください! 先輩がここでお勉強につきあってくださったからこそですよ。」


 リリーは優しく微笑む。が、すぐにハッとして、


「ち・が・い・ま・す! 百合の花のお話です! 私の話はまた後でしましょう!」


 ──後でするんだ。


「まったく、話逸らさないでください。」


 軌道修正しきれなかった彼女にも問題はあると思うが、ここは口をつぐむ。


 ──で、なんだっけ? 百合で自殺したいの?


「違いますよ〜。そんなこと常に言ってるのは先輩だけです。」


 笑顔で毒を吐くリリー。僕の笑顔も歪になる。


 ──一つ言っておく。僕は別に死にたいとは一言も言っていない。死ぬことは決して悪くないと、むしろ生命を謳歌したことだと、つまるところ良いことだと言っているんだ。


「なにか違うんですか?」


 難しく考え込むリリーは、純粋に僕の戯言に耳を貸してくれる。気分の良いことではあるが、今回は話が逸れるので軽く流す。


 ──いいよ、僕の信仰を植え付けるつもりはないし、今は関係ない話だ。今は置い

といて百合の話でもしてくれ。


 するとリリーは躍起になったように答える。


「いえ、先輩の話は興味深いですし、私ももっと理解したいです! それにあながち無関係でもないですから。」


 無関係ではないとはどういうことか。真意は見えないが、今は長話したいわけでもないので丁重にお断りした。

 リリーは少し拗ねたような顔をしたが一呼吸で切り替え、先ほどの話の続きを話し始める。


「無関係でもないって言ったのはその死に方が興味深いって思ったからです。だってそう思いませんか? 一面に広がる百合の花畑に埋もれることが死につながるなんてなんともロマンティックです。眠り姫も毒林檎なんかよりそっちがいいってケチつけてくるに決まってますよ〜。」


 白雪姫も別に百合を食うかと言われても食べないだろう。ここで寝ろなんて言われても寝心地が悪そうだから遠慮するに決まっている。


 ──その言い方だと君は自殺願望でもあるのか? 第一、水を差すようで悪いが、百合で自殺できるというのは迷信だ。百合にも毒性はあるが、それは摂取した場合、それに多量だ。仮に花に囲まれて死ぬなんてことがあるとすれば、それは夜間に花が二酸化炭素を排出するからであり、つまりはただの窒息だ。密閉性や花の数もバカにならないだろうし、再現性はない。それに……どうした?


 長々と話す僕を、リリーはニヤニヤと見つめていた。


「知ってますよ、迷信だってことくらい。ちゃんと調べましたもん。」


 勝ち誇るリリーに何故だか腹が立つ。いや、負けたとかそういうわけではない。


「私だってちゃんと調べてきてますよ。いざここに百合の花を持ってきて、さぁ死にましょうなんて言って生きてたらどうするんです? おはようございます、よく眠れましたか〜とか、絶対ぎこちないですよ!」


 確かに、心中などして二人して生きてたら気まずくて顔も見れないだろう。


 ──生きてたんだから、また次の方法でも調べればいいんじゃないか?


 手持ち無沙汰になってついつい手元の小説を捲る。

 するとリリーはまだ話は終わっていないと言わんばかりに小説に覆いかぶせるように手を置き、今一度その整った顔をぐいと寄せて話す。


「そんな簡単に切り替えられるのは進んで死にたがってる先輩だけですよ! 普通の人は未然に抜かりなく調べて失敗しない自殺ライフをするんです!」


 自殺ライフとはなんとも矛盾した言葉だ。果たして、このツッコミをいうのが僕であるというのもまた矛盾の一角ではあるが。

 そもそも、自殺は未遂者も山のようにいるだろうから、それを一般論と言うべきではなかろうに。

 数々の言葉を飲み込み、熱弁するリリーになにか言葉をかけようかと向き直るが、思っていたより彼女の綺麗な瞳が近かったので思わず顔を逸らす。


 ──んで、見つかったのか? 失敗のない美しき自殺ライフ。


 あまり興味はなかったが、顔を見ずとも伝わる聞いてくれと言わんばかりの視線を感じたので聞いてみる。

 リリーはこれでもかと言わんばかりに、小さな体を大きく誇張するべく胸を張り、僕の前に仁王立ちする。


「ついてきてください!」


 その白百合の瞳に僕は吸い込まれるような魅力を感じた。断るなんてことは心のどこを探しても見つけることはできず、呆然と頷いた。

 きっと白雪姫も、この毒林檎に心奪われていたに違いない。


「レッツ、自殺ライフ!」


 レッツ、自殺ライフ。



 ──────────



 なぜ、この陰湿文芸部室の一部である陰湿文芸部員の僕とはまったく対極な彼女が一緒にいるのか。誰もが疑問に思うだろう。

 僕のあの能力を見られてしまったからだ。


 花を咲かせる力。


 通学路の片隅で枯れてしまった名も知らぬ花をふとした気まぐれで再生させたところを目撃されてしまったのだ。周りには誰もいないと思っていたし、それに道の側で蹲る影の薄い男子高校生など誰が目をくれるか。

 体で覆い隠すように力を使っていたが、ふと目線を上げると、あの青い瞳が、これでもかと言わんばかりにかっぴらき覗き込んでいた。

 やってしまった、どう言い訳したものかと固まっていた僕に彼女は言った。


「凄いデス!魔法みたいデス!」


 塞がったはずの傷跡から赤黒い血が噴き出すのを感じた。

 心傷が疼く。

 残響のように亡霊の甘言が溢れ、止まぬ拍動に何故だか昂揚さえ感じた。僕は愚かにも自傷癖があるのを自覚した。あるいは、これは郷愁のようなものだろうか。


 少年の倨傲が再び目を覚ます。なんとも心地の良い微睡だと、築き上げた常識というハリボテが底の見えない快楽に溺れていくのを感じた。

 この愚昧を心底嫌っているが、同時に何よりも愛おしい。故に僕は求めた。彼女が僕に今一度光を灯す魔法使いであることを。


 僕は…彼女を、亡霊たる魔法使いと重ねたのだ。


 そして、理想を描いた。僕の謳生おうせいにふさわしい姫君だと信じた。次こそは、少年を英雄としたてるマーリンであれと願った。

 それからというもの、彼女が僕の元に身を置くことを拒まなかった。好奇心を向けられるのは彼女の容姿も伴い嫌ではなく、むしろ歯痒いものを感じた。自分を慕う眉目秀麗がいるというのは年頃には夢心地だろう。僕は生来の素っ気ない態度を取る傍ら、こうして過ごす時間は、なんとも心地良かった。


 そしてそれはとても醜悪であると自覚した。


 彼女は他意なく僕に懐いてくれている。僕は彼女の無垢を、自己陶酔の玩具として僕の人生の飾り物にしている。眼前の人情を度外視し、都合の悪いことは全て耳を塞ぎ、都合の良いことだけ耳を傾ける。つまるところ、彼女の真意などどうでも良いのだ。自己中心的な僕が描く物語は、かように陳腐で自己愛に満ちている。

 それは一度冷静になると僕好みではない。

 無責任で都合の良い言葉が嫌いなのに、ここは僕にとってなんとも都合の良い世界。僕の醜く肥え太った自己愛の終着点だ。


 僕は最後に大逆転する活劇が好きだ。

 故に、飽きたのだ。こんな、終始主人公が楽しいだけの駄作メアリー・スーに。


 愛することに飽いたこの世界はなんとも冷めたものだ。友愛や協調という肉が剥がれ落ち、高慢にて形骸化したこの人生を、僕はひどく蔑んだ。

 その結果はどうだ。僕は作品を闊歩する主人公メアリーから評価する読者ひょうろんかへと変わった。駄作であると吐き捨てたこの蔑む思考を、客観的で高位な視点であると恍惚した。今度はこの自己否定を愛するようになったのだ。


 結局のところ、僕の自己愛に終わりはない。

 今を尊み、飽けば過去として嗤い、未来にあたるさらなる己はより優れた存在だと尊ぶ。永遠と絡みついた自己愛は、捨て去ったと思っていた空白さえも飲み込み肥大化していた。

 収拾がつかないと気づいた時既に遅く、生半可な意思決定では飲み込まれるだけである。これを終わらせるには、最大の自己否定という名の自己愛を執行する他ない。思考することを止めなければ、醜態を晒し続けるだけだ。


 つまりは、だ。


 死ねばいいのだ。


 死ねば、この自己愛は自惚るいとまもなく断たれる。そしてようやく、この疎ましい自責の声から逃れられるのだ。

 僕は気持ちの悪いことに、自分のことが大好きすぎて、それ故に嫌いになって、好きでありたいがために死にたがっていた。 

 僕はそんな惨めな心情を悟られたくなく、彼女に死にたくはないなどという嘘をついた。本当は、今も死ぬことを考えているのに。



 これが僕の信仰だ。


 リリーのことを大切に思ってはいけないのだ。思う資格がない。

 僕は彼女の全てを戯れとして弄んだのだ。許されるべきではない。いや、許しだなんだと語る時点で自惚か。今際にさえ、彼女を縛り付けるのは滑稽である。

 だがここで何も残さず勝手に散るのは、それはそれで遺恨を残すだろう。残された彼女は後味が悪くなり、これまた不快な縛り方だ。かといって、最期を看取ってもらうのは本末転倒だ。既に彼女を縛らず信仰を果たすことは……。


 思考を放棄して彼女の言葉に縋る。もう僕に答えを出すことはできない。いっそ彼女の方から「もうおまえの相手は疲れた」と言ってくれれば良いのに。そうすれば僕の信仰は全て崩れ去る。死ぬ必要がなくなる。醜く普通に生きる覚悟ができるというのに。かように言い逃れんとする痴態を晒して生きるぐらいがちょうどいい。


 それなのに。


 僕はこうして彼女に誘われるがまま、目的地もわからずついていった。心中という甘い林檎の匂いに足が動いた。彼女が魔女を自称したと思い、今一度胸の奥が震えてしまった。もう、立ち止まることもできないだろう。愚かな白雪の正体は、鏡に謀られ毒を盛る愚女だ。美しき白雪を殺めんとする僕こそ魔女なのだろう。



 ──────────



 じっとりと雨を香らせる湿気が夏服に張り付き、梅雨を思わせぬ連日続く眩む日差しが日陰者を疎むように照らしている。

 汗を拭う僕は、リリーが未だ長袖のワイシャツで平然としているさまに眉を顰める。肌が弱いのかなんだか知らないが、よくまぁこの暑さに耐えられるものだ。

 空調の完備された文芸部室が恋しくなる頃、リリーが疎い太陽に負けぬ煌びやかな笑顔をこちらに向けるのであった。


「着きました!」


 彼女に連れられた場所とは、


「プールです!」


 確かに例年に比べ早くも夏を思わせる暑さであったが、6月のプールとは、また時期尚早な場所であった。季節外れの学校のプールとは汚いものだと思っていたが、やたらと綺麗であった。水はなく、どうやら掃除したてのようだ。


 一度彼女の教室を経由して、彼女は小さな袋を持ってきた。それが何かは気になったが「後程お見せします!」と教えてはくれなかった。胸に靄を抱えたまま辺りを見渡す。ピカピカになったプールを覗き込む。乾燥しきっていたので、先日中には掃除は終わったように見える。


「私が掃除したんですよ?綺麗でしょう。」


 エッヘンと胸を張るリリーであったが、一体なんの因果で零細文芸部の部員であるリリーがプールの掃除なんかしているのだろうか。


「それは……色々あって……デスネ……。」


 露骨に顔を曇らせるリリー。そういえば。


 ──体育の教師は岡部か?確か君の担任も岡部だったな。罰でプール掃除とは、よっぽどのことをやったんだね。


 リリーはギクリと音が聞こえてきそうなほど露骨に肩をすくませ、ぎこちない速度でこちらに振り返る。


「ナンモヤッテナイデス……。」


 ヘタクソな嘘に苦笑いを返しプールを除く。なんにしても聞きたいことばかりだ。


 ──それにしても、どうして鍵を持ってるんだ? 見たところ掃除はもう終わったように見えるけど。そもそも、いつから掃除してたんだ?


 リリーはよほど罪状を白状したくないようで話が若干変わったことに飛びついてくる。


「一週間前からです!時間かかっても良いから掃除しなさいって。で、終わったら鍵を返しにこいって言われたのでまだ終わってないことにしてます!」


 たった一人でプール掃除を押し付けられるほどのことか。これで罪状は一般的なことではないと自白したようなものだ。宿題を忘れた程度ならクラスの他にも一人くらい居そうなものだし、その人間ら全員に任せられそうなものだ。


「丁度よかったですよ。おっきい水槽か水漏れしない場所を探してましたし。あのままだったら文芸部室を水没させてました。」


 一体何を企んでいたら部室を水没させようなどとのたまうのか。そもそも文化部室棟三階の隅の部屋を水没なぞさせたら、この学校はとうに水の中だ。いや、山の上のこの高校を沈めたら、この町はアトランティスと化してるだろう。


「そこは……ほら、密閉させて、部室だけ水漏れをなくせば?」


 それが可能なら百合でもなんでも自殺できるだろう。

 ともかく、現実味のない話ではあるので都合がいいのは理解した。この際細かいことを気にしても仕方がない。


 ──それで? 魅力的な自殺とは?プールに水を満たして溺死か?少しお粗末だな。


「溺死はお嫌いですか?」


 リリーは目をぱちくりさせて聞いてくる。


 ──嫌いではない。けど、プールはね、趣に欠けるかな。溺死なら海じゃない?


「私もそう思います。」


 笑顔で答えるリリー。溺死は本意ではないということか。

 ……いや、その前に一つ。いとも平然に流されていったことがある。そういうものだと勝手に認識していたが、ここらでしっかり確認しておきたい。


 ──リリー、一つ確認したいことがあるんだけど。


「……やっぱりお話した方がいいですか?」


 するとリリーは悪戯がバレてどう言い訳したものか悩む少年のように視線を泳がせる。僕は静かに首を縦に振る。


「その、お花を……育てていました。」


 はて、一体どういうことだろう。花を? 育てた?


「はい……ロッカーで、そ、育ててました。日当たりがいい日は、開け放ったり、お水も毎日あげました。」


 リリーは後ろめたそうに続ける。


「一年から二年に上がる時って、クラスどころか教室まで一緒じゃないですか。先輩は三年だから文理選択でクラス替えあったんでしたっけ? 私はあともう一年同じ教室です。なので、去年の末ごろからロッカーでお花を育ててたんです。ちょっと家じゃ厳しそうだったので。」


 そこまで言いかけたところで、リリーの顔が若干曇りを見せる。少しの間の後にリリーは振り切るように首をプルプルと横にふり、口を開く。


「それで、その、ちょっと楽しくなっちゃって。次第に手が混んでいったんです。」


 ──いまいちわからないな。教室で花を栽培しようが、風流的にも良さそうだからね。何をそんなに後ろめたいのやら。


 怒られる要因は何処に。そして広大なプール清掃を一任される程のこととは。


「土を、ですね。ロッカーの中に。それはもういっぱい。しっかり根が張れるくらいに。ロッカーの大きさもあってさながらテラリウムですよ。ビオトープですよ。終いには蝶々まで飼育を始めちゃいました。」


 ──テラリウムか。なるほど……え、ロッカーで?


「はい。それでホームルームの時にたまたまクラスメイトの子が間違えて私のロッカーを開けちゃったんですよ。呆然としていたみたいでガラス戸まで開けちゃって、それで教室に蝶々が逃げ出しちゃったんです。五匹。」


 結構しっかり飼育していたみたいだ。テラリウムというのも言い得て妙である。しかし、『ガラス戸』とはなんだろう。比較的大きめなロッカーではあるが、たかだか教室のロッカーにガラスで出来た戸などない。教室の備品を魔改造していれば、確かに納得のいく罰則だ。


 ──まぁ、経緯は把握した。その話も相当気になるけど。


「まだ何かあるんですか?」


 リリーは両手を顔の前に交差し、警戒態勢と言わんばかりに武術のような構えをとる。はたまた、スペシウム光線でも出てきそうな綺麗な構えだ。


「これ以上はNGです!怪我の功名とはまさにこのことだと感心しましたが、もう叱られるのは懲り懲りです……。」


 思い出したくもないと耳を塞ぐリリー。僕はため息の後、リリーの前で手を左右に振り「違う違う」とジェスチャーする。

 リリーは警戒した子猫のような目をしていたが、ゆっくりと耳を覆う防御壁りょうてを降ろした。


 ──確認したいことっていうのはこのことじゃない。……そりゃまぁ、気になりはしたけど、話したくないことだったのなら無理に聞かないよ。


 リリーは数秒固まってこちらの様子を伺った後、「本当ですか?」と一言。本当だ。興味はあるが、今一番大事なことは他にある。

 リリーは胸を撫で下ろし、ここで再び笑顔を咲かせる。


「なんでしょうか?」


 その笑顔に、僕の問いは的外れもいいところだろう。しかし、聞かねばならない。


 ──君は……、


 淡々とながれていったが。君は、なぜ。


 ──君は、死にたいのかい?


 リリーは真っ直ぐ曇りのない瞳でこちらを見つめていた。 


「はい。」


 いつもの笑顔が今はやたらと大人びたように見え、彼女は深く息をつく。


「ですから、先輩さえよろしければ。私と一緒に心中してくれませんか?」


 君はなぜ、その笑顔で死を求めるのか。


「私は、先輩と死にたいんです。」


 脳の奥が震えた。醜いとしていた自己否定が今、全て否定され、多幸感に支配された。また、それと同時に極大な失望に飲まれた。ある一つの解釈では、彼女には決して口にしてほしくないものではあった。その笑顔は、死を嘲笑うためにあっていてほしかった。しかしその失望すら、未曾有の悦楽を孕んでいる。僕を高揚させる。


 心のうちがグチャグチャになり、続く言葉を見失っていたが、それを察してか、リリーが口を開く。


「先輩が本心で死にたがっていたのは、なんとなくわかりました。どうしてそんなことを思うようになったのか、とうとうわかりませんでしたが、私は先輩を、尊敬して……慕っておりますので。」


 ──リリー……。


 何故、リリーは死にたいのか。

 いや、そもそもそんなそぶりを今迄一度たりとも見せたことがあったか。記憶の隅から隅まで巡らし、彼女の笑顔を思い出す。濁りの一切見えない彼女の笑顔が、死を求めたことなどあるはずがなかった。

 或いは、これも僕の願望から成り立った偽りの記憶りそうに過ぎないのか。そう思ってしまった時、僕の内臓は自責の念で今すぐにでも弾け飛んでしまいそうになった。結局また、この愚かを意味のあることにできなかったのだと。


「好きなんです。先輩のことが。……でも、ダメなんです。私は、もうダメなんです。」


 言葉の意味が理解できなかった。返す言葉も思いつかなかった。

 リリーは笑顔を崩すまいと強張った顔をしていたが、とうとう両手で覆い隠す。

 啜り泣く音が僕の胸をざわつかせる。


 ──それは話せること……いや、ごめん。聞くべきではなかったのかな。


 更なる愚かさに、純粋な嫌悪を感じ、苛立ちと共に口を紡ぐ。吐き気すら覚える。

 リリーが涙を拭い手を降ろし、ゆっくりと首を縦に振る。全てを理解できない僕は、むけてくれた好意に応えようと彼女の手を取ろうとする。

 しかし彼女はその手を強引に振り払う。いままで見たことないような痛ましく潤む瞳が、拒絶の色をしていた。しかし、それは僕を見ていなかった。目の奥に燃ゆる怒りのようなモノは、ここにはいない誰かをいまにも殺さんばかりに睨んでいた。


 リリーはすぐに我に帰り、「すみません、そんなつもりは……」と、慌てて僕に頭を下げる。またやってしまった。つくづく相手への配慮が足りない奴だと自分を責める。浅はかな行動を自分の中で最適解と決めつけてしまう自惚が、結果として正しかった試しがないのに。


 ──リリー。


 僕は思考を止める。自惚と後悔は、なんの意味もなさない。


 ──僕こそ、ごめん。君への配慮が足りなすぎる。僕は……やっぱり、どうしようもなく馬鹿だ。……そんな馬鹿からお願いがあるんだ。


 今は、僕の純粋な欲求と彼女の望み、その二つさえ叶えば良かろう。


 ──僕と、一緒に死んでほしい。君がそう望むのであれば。



 ──────────



 「これです。鈴蘭です。」


 リリーは教室から持ってきた小さな袋から植物の種をパラパラと取り出す。


「教室で育ててました。ちょうど花が散り実になったんです。そっから種を採取するのは大変でしたけど……。」


 鈴蘭と言えば小さな花弁が可愛らしい毒性の植物だ。ちょうど今が開花時期だったはずだが、何ぶんロッカー栽培なんてしているものだから少々が生じたのだろう。


「毒性の花です。鈴蘭が活けられた花瓶の水を誤飲して中毒死したという症例もあるみたいです。」


 なるほど、百合の花ではなく鈴蘭を使って、花による自死を諦めないというわけだ。しかしながら、結局は服毒。鈴蘭ジュースを乾杯するにはここでなくても、それこそ部室で良かろう。


「先輩は嫌いそうだと思ったんです! 毒を乾杯でポックリって。しかも中毒死!辛いし見栄え悪いって言うでしょ!?」


 ──言うね。絶対拒否する。


「わかってましたよ。私だってかれこれ一年先輩と一緒にいるんです。先輩が、そんなんじゃ満足しない体になってることくらい……。」


 ──変な言い方しないでくれよ。間違っちゃいないけど……。


「だから! ここなんです! プールなんですよ!」


 いまいち関連性が見えないので続きを促す。


「プールですから、一面に水を撒きます。足首がちょうど浸かるくらいが素敵です! そこにこの鈴蘭を、もういっぱいに埋め尽くすんですよ! お花の泉ですよ〜、綺麗に決まってます! もちろん、毒性ですが。」


 ──なるほど、それはすごい……!


 なんとも素敵な立案だろう。結局は足下の水を手で掬い喉に通す服毒に違いはなかろうが、一生に一度見れるだろうか。鈴蘭という、かように小さく愛おしい花が一面に広がり、浮かぶ泉の水全てが毒である、神話的、幻想的である。

 なるほど、つまりは。


 ──僕にこの鈴蘭の種たちを開花させてほしいと、そういうことか。


「はい! 私は今から水を出しますので!」


 リリーは僕に種子を半ば強引に押し付け、笑顔で駆け出す。

 まだ承諾したわけではないのに、彼女の行動力には困ったものだ。


 実のところをいうと、まだ少し悩んでいた。本当にこれで良いものかと。

 リリーは楽しそうに元栓のような部分をいじり、水を排出している。これで数分とかからぬうちに思惑通りの水量で満たせるだろう。


 僕は死ねばいい。この手にあるこの種子を開花させることしか脳がない承認欲求の怪物なぞ、生きていて迷惑だし、滑稽だ。のために死を望んでいる。


 しかし彼女はどうだ? きっとこの先、彼女はその整った容姿のみならず、愛嬌や人並みの知能、常識は……まぁともかくとして、恵まれた人生を歩めるだろう。この愚か者と心中させるのは、僕の罪なのではないだろうか。何がなんでも彼女には生きる道を示すのが、僕が最後に成せる世界への献身なのではないか。いや、壮大かもしれない。慎ましく言い換えれば、如何に周りに迷惑をかけずに済むか、だ。


「センパーイ! 何してるんですか? こっちはそろそろ準備できそうですよ〜!」


 リリーの声に抗えぬまま、僕は靴を脱ぎ捨て裸足になり、プールの中に入る。

 裾が濡れる。冷たく心地の良い水が、六月ながらに夏の匂いを翳めさせる。

 花のように美しい少女と、死を望む文学少年と、初夏の学校に足元を満たす水溜り。このままでもなんとも美しく憧憬たる青春だ。高校生という身分ながら、人生を謳歌したと胸を張れよう。


 リリーから受け取った袋から無造作に鈴蘭の種を取り出す。パラパラとたくさん出てきて、幾分かは手からこぼれ落ちる。関係ない。年を増すごとにこの力は、より強くなっていった。今ではこの足元に落ちた種子も問題なく咲かせることが可能だ。溢れそうになる種を指でなぞる。


 彼女はこれを去年の年末から育てていたと言った。

 つまりは、もう半年以上前からこの計画を企てていたのだ。プールにどう忍び込むかはともかく、鈴蘭での心中を。そんな昔から彼女は思い詰めていたにも関わらず、いや、思い詰めていたのか、それすらもわからず。僕は気にも留めていなかった。彼女は楽しそうに笑っていると、疑わなかった。


 何度振り払えども己の愚かさを拭えない。


 それならば。


 それならば、もう、自分を蔑むのはやめよう。


 この終わりを楽しもうと思う。


 邪念を振り払う。リリーが靴を脱ぎ捨てこちらに近寄る。爛々と輝く瞳は、紛うことなきだ。


「どうかしましたか? うまくいかないとか?」


 心配したように聞いてくる。

 僕は首を横に振り、少し離れて、と笑顔で語りかける。リリーもまた笑顔で頷き、振りかえらぬまま僕から距離をとる。


 一呼吸する。


 集中。


 種一粒一粒に声をかける。とても優しく、そして暴力的に。

 そうして草花は自然の摂理に抗う。時や気候に関わらず花を咲かせるのだ。それはなんとも非生命的で恐ろしい光景で、悲鳴のような生育の音が僕の耳をつんざく。この慟哭を美しいと讃えた人々を畏怖したものだ。

 種子は殻を破り命を加速させる。花を咲かせ、結実し、種を作り、また、花を咲かす。リリーのくれた分では、プールを埋め尽くすには到底足りないので、花々から新たな種子を採取し、それらを咲かすことによって数を増やす。これを目に見える範囲全ての鈴蘭で行う。ものの数分で、あたりは小さな花で埋め尽くされた。



 なんと幻想的な光景だろう。



 磨かれた青の壁に囲まれたここは、一面に鈴蘭の花筏はないかだで色取られている。


 小さくも美しい花灯籠は、不相応にも僕を殺すのだ。


 煌びやかな殺意に、生命の本質に触れたようで体の奥が震える。死を間近にしながら、生命というものを、永遠のように感じた。



 そして、それは一瞬だった。



 僕は、今の今まで抱いていた感銘や、畏怖や、悟りを無彩色の白に飲まれる。白は一瞬にして、ただ一点の曇りもなく僕を魅了したのだ。


 リリーが、そこにいた。


 本当に美しいものは、生より死に感じるらしい。

 あるいは、死こそ生の体現であるということなのか。

 死を欲さんとした僕だからこそ、死を欲さんとした彼女リリーだからこそ、生くる身でありながらそう魅せるのかもしれない。


 リリーは軽やかにうるう花園を渡っていた。

 白銀の髪を靡かせ舞うように水紋を鳴らす碧眼は、さながら制服を纏った天使だった。いや、天使とは名ばかりだろう。命を奪う鈴蘭という名の死神の妾に違いない。きっと彼女は、一面に広がる美麗と共に僕を謀らんとする美人局なのだ。


 蠱惑する夢想的な世界から、リリーの声で目を覚ます。


「先輩。イカリ先輩。」


 夢を見ているかのように心を奪われていたが、自分でも驚くほど冷静に返事を返す。


 ──リリー。どうした?


 リリーは憂うような瞳でこちらを見つめていた。今一度、あの幻想に吸い込まれそうになる。騒ぐ心を落ち着かせ、リリーの瞳を強く見据える。

 リリーは少し含羞はにかんだように視線を逸らしたが、すぐに眉間を顰める。


「さっきは、すみませんでした。先輩の手を払ってしまったこと、お詫びします。それで、その……えーっと……あの。」


 リリーは深く頭を下げた後に言葉につまる。


 ──いや、僕の方こそごめん。君のこと、知ったようなフリして、カッコつけただけだった。君を本当に思うなら、僕は……


 僕は、どうすれば正解だったのか。

 正解というものを求めている時点で、それはすでに僕のための行為に過ぎないのではないか。続く言葉が見つからなかった。

 リリーは優しく微笑む。


「先輩のそういうところも、魅力的だと思いました。そして、自分で自分を戒めるところは、私は先輩の優しさだと思います。」


 ──優しさ? 自惚の清算だ。これを優しさと自称したら、なんとも恩着せがましいよ。


 リリーは首を横に振り、辿々しく手を胸の前で遊ばせる。


「その自覚こそ優しさなのです。人は傲慢です。人間は生涯、大小たくさんの罪を負うのに、その人生のを払おうとする人は、あまりいません。それどころか、罪を重ねるばかり。なのに先輩は、少なからず私が原因でそのを払おうとしている。私を原因にしてくれているんです。」


 ──原因、か。あまり良いことじゃなさそうだな。


「私の謙遜です。そうでもしないと先輩が受け入れてくれないと思ったんです!…言い方を変えましょう。先輩は変わった人です。先ほども言いました、人生のを払おうとしているのですから。それは悪い意味ではありません。むしろそうそうできることではありませんよ。自分で対価を導き出し、その供物が命そのものなんて。」


 思い過ごしだ、と否定するにはなんと言えば足りるだろうか。


「ではなぜ先輩はそのような善行を働けたのでしょうか? 先輩の中で何か心情の変化がありました。それがなんなのか、私にはわかりません。ずっとずっと、わかりませんでした。でも、先輩は、ある日を境に目の光を失いました。その目は、許しを願う子供のように私を見つめていました。」


 なんと返せばいいのだろうか。今、自分がどんな顔をしているのだろうか、無性に気になり、顔を背ける。僕は、そんな情けない目をしていたのか。


「嬉しかったんです。……すみません、先輩はきっと辛かったかもしれません。でも、先輩が命を対価に差し出した瞳の先には、私がいたんです。私……で、よかったですよね……?」


 リリーの不安そうな声が僕の背中を掠める。脇目にリリーを除くと、銀髪の影に綺麗な軟肌が紅潮していることに気付く。


「思い過ごしだったかもしれません。それでも……嬉しかったんです。心の底から、命を賭してもと、私を思ってくれてる人がいるかもしれないことが。その人が、私の好きな人であることが。」


 風の音が聞こえる。水に揺らぐ鈴蘭が、この世界の全てであるように僕らを静に飲み込む。


 僕は、考えることをやめるべきなのか。それとも、続けるべきなのか。

 リリーは静かに足元の鈴蘭の流れを見つめていた。彼女は、伝えたいことをうまくまとめたようだ。僕の答えを待っているのだろう。


 ──……うん、君を、リリーを、見ていた。


 風向きが変わる。鈴蘭たちが動きを緩やかに止め、次は反対の方向へ流れ出す。


 ──君を愛したかったが、君を愛してはいけないことに気がついてしまった。君を愛する為には、僕が愛するという自惚が、無性に目障りになったんだ。僕は、僕という愚か者が人を愛することに嫌悪感を感じてしまった。しかし……


 リリーは真っ直ぐ僕の瞳を見据えていた。動じず、まるでわかっていたかのように強い瞳であった。迂闊にもたじろいで、言葉を失う。


「先輩、わがままを言ってもいいですか?」


 僕は流されるように頷く。


「少しでも、そこに少しでも私のことを思いやってくださったのならば。もう自分のことを追い詰めないでください。私は、先輩が私を見ていてくれたという言葉だけで幸せです。だから、」


 リリーが笑う。


「先輩も幸せになってください。」



 くだらない自己陶酔よりも。


 高尚ぶった人間追求よりも。


 行き着いた自殺願望よりも。



 何よりも、その言葉を欲していたのだと、今気づいた。


 僕には導き出すことのできない、いや、たどり着けども縋るしかない答えを、リリーは示してくれた。


  強い風が吹く。



 今、生きてみたいと思った。



 彼女と共に、生きたい。それは果たして許されることなのか。

 リリーは僕の頬にそっと手を触れる。どうやら、涙を拭ったらしい。どうやら。僕は、泣いているらしい。


 リリーは優しく微笑み、言う。


「すみません、わがままっていうのは、これからなんです。」


 僕はリリーの顔を見る。彼女は変わらず微笑んでいる。が、そこには、揺るぎない強い意志が燃えているのを感じた。

 僕はゆっくりと頷く。もう周りくどい口上はいらない。彼女のためにできることがあるのならば。


 ──聞くよ。我儘だろうがなんだろうが、もう僕は君に……


 僕の言葉を遮るようにリリーが僕の胸に飛び込んでくる。小さく縮こまり、僕の夏服を両の手で力なく握りしめていた。

 突然のことに動揺していたが、顔を沈める少女が小刻みに震えていることに気がつく。少女は、ひどく怯えているようだった。


 僕は彼女の肩に手を回し、抱きしめようとした。それは間違いかもしれないと思ったが、それでも何もせずにいられなかった。


 しかし彼女はその気配に気づいてか、押し返すように僕を払い除ける。全くに意識の外であったために僕は迂闊にもよろけ、その場に尻餅をつく。

 彼女は少しの間、僕を突き飛ばしたままのポーズで固まっていたが、その姿勢のまま伏せていた顔を上げた。

 彼女は、笑っていた。

 瞳を潤わせて、こぼれそうになった鼻水を啜りながら笑顔を見せた。


「鈍臭いですね! これだから、文芸部はもっと筋トレを活動内容に入れるべきです!」


 間抜けな顔でリリーの顔を眺める。まったく、どういうつもりだかわかったものではないが、今何をするべきかは理解した。

 リリーは僕の眼前で人差し指を振り、「チッチッチッ」と挑発する。僕は即座に起き上がり、その手をすぐさま掴む。


 ──き・み・も!同じ目に遭うんだよ!


 強引に転ばせようと引っ張る。しかし、リリーはこれに抵抗する。


「い・や・デス! 間抜けなのは先輩だけで充分です!」


 綱引きのようにお互いが引っ張り合う。高校生にもなってムキになるのも滑稽だが、案外、こういうのは幾つになっても楽しいものだ。


 ──いや! 残念だけど! もう遅い! 君も間抜けだ!


 綱引きと言ったが、まさしくその通りで、お互いが自分の方向へ引っ張りあっていた。故に、突然手を離すと。


「えっ……ちょっ、エッ!」


 目一杯引っ張っていたリリーは勢い余って仰向けに倒れる。当然、僕もまた、反対側に尻餅をつく。


「いたた……。」


 ──結構痛いんだからな……。


大人気おとなげないですよ!」


 ──大人だから、肉を切らせて何とやらさ。


 リリーはムスッと頬を膨らませる。こういった感情を露骨に表すところはなんとも愛嬌がある。僕は彼女の顔がたまらなく可笑しく思い、ついには吹き出してしまう。


「先輩! 何がおかしいんですか!?」


 ──ごめんごめん。でも……ふっ、ふふっ、あはははっ!


「せんぱぁい!!」


 きっとタガが外れてしまったのだろう。ここへは死ににきたはずなのに。つい先ほどまで重苦しい空気を頭の天辺から指の先まで感じていたのに。


 今は、これほどまでに生きている。


 痛くて、楽しくて、幸せだ。


 リリーは悔しそうに膨れていたが、ついぞ同じ気持ちになったようで、僕と共に笑い出した。


 僕たちは誰よりも幸せなのだと、二人で笑った。


 僕たちはその瞬間、この世界の誰よりも生きていた。



 ──────────



「すみません、痛かったですよね。」


 散々笑い倒すと、いつしか夕景が辺りを染めていることに気がつく。暮れる日差しに目を細める。


 ──いいよ大した痛みじゃないし。それに……。


 僕は、いつの間にか、言及を避けるようになっていた。この時間が愛おしい。この生が、何よりも尊い。


 だが、立ちどまれぬところまで来ていることはわかっている。

 僕らは死ににきたのだ。今更この程度の痛みは、死を前にしたらなんてことない。痛みすら、死という無に飲み込まれていくのだから。


 しかし、言えなかった。


 僕はいつもの減らず口が如く、先の言葉を続けられればよかった。なのに、痛みすら、淡く生の匂いを香らせる。生くる喜びを体に走らせる。

 死にたくないのだ。

 未だ浅ましさだけが根強くこの性根にこべりついているが、もうそのような無益な自嘲なぞ胸の内に一片たりとも響かない。僕は信仰を捨てども、生きる道を選びたいと変わったのだ。


 言葉にくゆる。しかし、リリーはそんな僕の胸中を知ってか知らずか、暮れゆく夕が如く侘しい笑みを僕に向ける。


「そろそろ、花瓶の水は鈴蘭の毒に満たされた頃でしょう。」


 リリーは散りばむ鈴蘭を手で掬い持ち上げる。くうへ導かれた花々は重力に従い、再び巨大な水槽へ舞い戻る。


「私の我儘です。先輩、幸せになってほしいだなんて言ったそばから、すみません。……私と、死んでください。」


 恐れていた言葉が、静かに僕を穿つ。確かに彼女は、僕に死なないでくれなんて一言も言っていないし、彼女が死にたいということを否定していたわけではない。

 僕に彼女の命を灯す言の葉は紡げるか。いや、無理だろう。自嘲しか脳がないボンクラに励ますなぞ不可能だ。それに、先ほどの彼女の行動を思い出す。胸元で震える少女は、きっと言葉なんて形のない偽善が欲しいのではない。信仰は捨てども、僕を変えてはならない。彼女が愛してくれた僕を、彼女に捧げるのが求められる愛なのだろう。


「先輩のこと、言葉で縛り付けて。私、最悪ですね。……でも、私はもう戻れないんです。」


 彼女はワイシャツの袖を捲り、髪をかき上げる。濡れた髪が艶やかに夕日を返す。僕は言葉につまり、唇を噛み締める。悔しさに目を逸らす。


「やっぱり先輩は優しいですね。だから、私は先輩が好きなんです。だから……私はダメなんです。」


 リリーは腕をさすりながら震えた声で呟く。


 ──リリー。僕も君のことが、何一つわからなかった。今でさえ、君のいうことを理解しきれていない。……だからこそ言わせてほしいんだ。


 リリーはいつものように僕を見つめる。文芸部室で僕の戯言に真摯に耳を傾ける、いつもの彼女リリーだ。


 ──君にお願いがあるんだ。全てとは言わない。ただ、僕の手を取れるくらいには、リリーのことを許してやってくれないか?


「……。」


 ──自分を許せない気持ちは……痛いほど、わかる。だけどせめて死ぬ時くらいは我儘になって、君のことを許してやるのはどうかな?


 リリーは目を伏せる。


「……いいんでしょうか? 私には、そんな権利なんてあるのでしょうか……?」


 権利、か。痛烈に胸に刺さる。それはとても単純明快で、誰にでも答えは出せる。が、己で出した答えでは、我が身は動かないのだ。リリーとて同じく、その手は未だ僕と共にあることを躊躇う。望めども、望んではならないというジレンマが心臓を圧迫する。


 ならば、僕のいうことは一つ。


 ──リリー・サルヴィア。


 茜が息を引き取り、彼方に残るそれを、藍が少しずつ蝕んでいく。

 どうかこの宵が、罪を抱く僕らをこの世界から隠してくれることを願う。

 僕は憂うリリーに手のひらを差し出す。



 ──君のことが、好きだ。この手を取ってくれないか。



「……はい。」



 たったこれだけの言葉が、まばたきさえ永遠に感じられるほどだった。


 リリーの潤んだ瞳が僕だけを見つめる。


 校舎から漏れる光が、彼女の髪の毛にに反射し、美しい色彩を放つ。

 静かな藍が飽和していく。


 そして、心を締め付ける枷から、喧しい自責の声をから、今だけは、それら全てから耳を塞ぐ。


 僕らを満たしているのは、ただ目の前の人を愛したいと望む純情だ。


 向かい合ったまま手を取る。僕の右の手と彼女の左の手を、僕の左の手と彼女の右の手を繋ぐ。指を絡ませて掌を上に向け、そしてその両手を一所に合わせ、大きな篩をつくる。



「私も、あなたのことが大好きです……!」



 強く絡ませた篩は、隙間をつくらず透明な凶器を掬いとる。


「私……ちょっとだけ、怖いです。死ぬことも。死んだ後に、先輩と離れ離れになるんじゃないかってことも。」


 ──大丈夫だよ。今だって、これからだって、僕がついてる。そういう君こそ、僕を置いていってしまうのではと不安になるよ。


「……阿瀬あせいかり先輩。」


 篩を口元に近づけ二人は互いの目を見つめ合う。





「私は、いつだってあなたを想う白百合です。」





 リリーは、安らかに笑み、謳うように言った。








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