第16話 新しい生活

「………っ、げほ、こほっ……!」

「っ、待ってろ、今医者を呼ぶ!」


声を出そうとして、喉が酷く乾燥していることに気づいた。

痛くて、苦しくて、思わずむせこんでしまう。

身体を起こそうとして、節々が痛む。

ギシリと軋む身体に肩が跳ねれば、大きな手が優しく肩を抑え、横になっていろと促される。


その時、解けてしまった手の温もりが、とても名残惜しく思えてしまった。


「ヴィオラ、……ヴィオラ、ゆっくり、息をしてくれ。大丈夫か?」


けほけほと咳き込む私に、半分くらい覆い被さるようにして、顔を覗き込むのは、酷く懐かしい人だった。


「……っ、ん、な……、ま……?」

「……、………ああ、俺だ」


『前』は、1度も私を映さなかった、夕焼けに染まったようなヒマワリは。

──酷く、優しい色を宿して、私のことを見つめていた。



***



それから、お医者様の診察を受け、1晩ゆっくりと療養した後、私はレオ王子から事のあらましを説明された。


私は『前』よりも、約半年ほど早く、アレン様と婚約破棄をした事。

そして、それと同時にレオ王子との婚約を締結した事。

私は、1ヶ月半程、意識が戻ることなく、昏睡状態だった事。


その説明が終わると、とても深い謝罪を受けた。


「俺の勝手で、ヴィオラの意志を無視して、婚約者として貰い受けた。すまない」

「そんな、……感謝こそすれ、謝罪されることはありません、レオ王子」


──きっと、あのままリーゼッヒ王国にいたら……私は既に、亡き者となっていただろう。

命懸けで『お守り』を使用したとはいえ、死にたかった訳ではないもの。

……死を望んでいたら、あんな『夢』なんて見ないだろうし。


私の言葉を聞いたレオ王子は、ゆっくりと、柔らかく、微笑んだ。


「……そうか。なら、よかった」


その微笑みは、あまりにも綺麗で、……優しくて。



──ああ、私は、なんて浅ましい女なのだろう。



初めて向けられた……『前』にどれだけ望んでも手に入らなかったその柔らかさに、どうしようもなく胸が締め付けられてしまう。

それと同時に、同じ柔らかさを持つ……もう、今度こそ二度と向けられることない、翡翠の瞳が脳裏を過ぎるのだ。


そんなし自分が、恥ずかしくて、嫌で仕方なくて、……私は、目を逸らそうとした。

けれど。


「ヴィオラ」

「っ、はい」


少し低い、芯のある声が、それも許してくれなくて。


「本当は、俺はヴィオラに、これからどうしたいか聞くつもりだったんだ」

「え……」


告げられた言葉は、あまりにも優しい。

選択肢を、この人は残そうとしてくれている。


「けどな、俺は、出来るなら、ヴィオラと『今度こそ』夫婦になりたいと思っている」


そのうえで、『ここにいていい』と言ってくれる、その言葉が。

どれほど、私の救いになっただろう。


「色々、まだ思うことはあるだろう。……けど」


優しく取られた手は、大きくて、ゴツゴツしていて──アレン様とは、全然違う手のひらだった。



「俺と、共に気持ちを育む事を──考えてはくれないか」



「………はい。ありがとう、ございます」


ほんの少し、ほんの少しだけ。

弱い自分を、許せるような気がした。



※※※



それから、私の生活は一変した。

リーゼッヒ王国にいた頃は、家族も、友人も……誰も私の事を見なかった。

視界に入ると、顔を歪め、皆が私を避けてしまう。

そして、『彼女』の元へと笑って駆け寄るのだ。


それが、どうだろう。

ハイル帝国では、皆が私に、優しかった。

『前』と違い、「私が無実である」という事がレオ王子によって国民に周知されているから、だと思う。

傍に着いてくださっている、侍女長……アリスも、とても良くしてくれる。


誰かが、笑いかけてくれる。

誰かが、挨拶を返してくれる。


ここにいていいと、手を取ってくれる人がいる。


──久しく感じていなかった、たったそれだけのことが、こんなにも嬉しいだなんて。


レオ王子は、城の人も紹介してくれた。

王様を初め、侍女長のアリス。弟君であるイライアス様。

今は出かけているという、副官のルイス様。


随分と長いこと寝たきりだったせいで、体力が落ちた体をゆっくりとリハビリで戻していくさなか、レオ王子はこまめに部屋を訪れてくれた。

車椅子を押して下さり、庭を散歩することもある。

ゆっくりと、私の体調を気にかけてくださりながら、とりとめのない事を話すその時が、あんまりにも幸せで。


凍りついていた心が、少しずつ……陽だまりに溶けていくような、そんな心地がしていた。



「……まだ、私は、自分の気持ちが分かりません」


初雪が降り始める、その頃。

そう告げた私を、レオ王子は責めることはしなかった。

まだ、心のやわいところに、あの人がいるのだ。

レオ王子は、……旦那様は、それでいいと言う。


そんなに簡単に気持ちが切り替えれれるわけがない、と。

自分も、これが恋心なのか、償いのためだけなのか、まだ分からない、と。


それでも、共に生きたいと思った、と。

──隣に、お前に、ヴィオラにいて欲しいと思った、と。


そう、言ってくださったのだ。





──そんな柔らかで、暖かい日常に、とある報せが飛び込んで来たのは、突然だった。


星歴787年、2月7日。

その日は『前』に、私が婚約破棄を突きつけられた日だ。

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