2話

 夢を見る。


 夢で映画は異常なほど変わり果てていて、それを私は当たり前であるかのように眺める。

映画とはそんなものだ。



 映画に命があるとするなら、私はそれを輝かせるために手段を選んではならない。

 真っ黒な枠に封じ込められた数えきれないほどある物体の像。

 彼らを生かすも殺すも私次第だ。使われなかったカットは日の目を浴びることなく、誰にも知られずに埃を被っていき、いずれゴミ箱に葬られるだろ

う。


映画とは、幾重いくえにもある選択肢の中から物語を作り出す行為だと思う。それは残酷で時にうるわしく、時に愛おしいものだ。

 一つ、シーン変えるだけでそれは全く違う話になってしまう。

 その膨大なるテープから観客へ届けられる物語を作らなければならない。

 名作が駄作に、駄作が名作に変貌を遂げることもしかり、それは多面体であるが故に、その作品に合う音楽、脚本、照明、演者、監督、時代、それらを見つけなければならない。


そして観客を引き込むほどの世界観が必要だ。上映終了後、皆がスクリーンに、映画に圧倒され夢中になり、恍惚とし、ただ呆然と時間が過ぎ去ることを待つことしか出来なくなるほどに、映画に喰らわれる、監督に、演者に飲み込まれてしまう作品を作らなければならない。


映画館に足を運ぶ理由は沢山あるだろう。圧倒的臨場感に爆音で鳴り響き、観客にダイレクトに伝わるスピーカー、視界一面がスクリーンで埋め尽くされるほどの大画面。映画ほど人間の熱が感じられるものはないだろう。まさに芸術の塊である。

第七藝術と唱えられ早一世紀が経った。



 一八八八年に初めての映画が作られてから映画は、娯楽から芸術へと昇華していき、今では多くの人が映画館に足を運ぶようになった。そして見尽くせないほどの大量の作品が撮られ積み重なっている。

変わらないのは皆、映画に夢や期待や感動など心の底から楽しみたいと思う気持ちだと思う。過去に未練や未来に憧憬を抱き、その時代に憧れ、その場所に憧れ、その人に憧れ、人々に希望をもたらしてくれるのが映画だと思うのだ。


ただそれは見る側、観客側の視点から見た場合に限る。

この世には、ワンカットに百回以上リテイクをした者も、映画宣伝用のポスターを何百枚も書き直させる者もいる。これはどちらもスタンリー・キューブリックのことなのだが、やはりこういった監督が映画を娯楽から芸術へと変貌をさせ、世に放ち、それを見て映画の熱を浴びせられ、激情を抱えた者が次なる映画を作っていくのだろう。




 狂気的な監督といえば、前述の通り、スタンリー・キューブリックやデヴィッド・リンチがいるだろう。

 私も彼らの映画を散々観てきた。毎日何本も観てはメモをとり、脚本を書いてホームビデオカメラで自作映画を創作したり、名作のシーン再現もしていた。それほど映画というものに夢中だったのだ。自分というものを確立できたし、色んなものを知った。現実の世界よりも圧倒的に楽しいし、全てが私の想像物でできた世界が楽しくないはずがない。


映画が私の全てだった。

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