毒親が毒親たる所以は、思考過程が常人のそれに対しねじれの位置にあるからではないか? 1+1=1が常識だとでも思っているような、根本的な部分から会話が噛み合わず、あらゆる対話を投げ出したくなる絶望感。それでも、子どもは親の所有物であらざるを得ないのが現実であり、絶望を抱えながら生きることを余儀なくされる。どうにか解放されたとて、親という呪いは、子ども自身が死ぬまで消えることはない。何らかの形で、子どもの人生に影を落とし続けるのだ。
この作品は三千字余りと短いながらも、これらの要素が書き漏らすことなく凝縮されていた。著者の他の作品ではどうだろう、ぜひ読んでみたいなとの思いを抱きつつ、拙いながらもこのレビューを書き進めている。
善意とは、悪意なのではないか。
私はふと、そんなことを思ってしまった。人が人を想うとき、その感情や思いが双方に共有されているかいないかということは、大きな違いを生じさせる。キャッチボールになってしまうかドッジボールになってしまうか、それくらい変わってしまうのだ。つまり、善意が共有されず一方通行になってしまう状態というのが、善意が悪意へと変わるときなのだろう。
だからこそ、求めてられてもいない思いを、考えを、相手の気持を確かめずに行ってしまってはいけない。だが、悲しいかな、そうした人間ほど自身の善意が悪意に変わってしまっていることに気づかない。
本作は、そんな善意という名の悪意にさらされた少女の叫びを書いている。自覚なき悪意にさらされ、苦しむものの嘆きである。親子関係という、信頼し合っているという思い込みの関係が生じさせる悲劇は、斯様なまでに悍ましく悲哀に満ちている。そのえげつなさを、本作は日記という装置を使って、これでもかと描き出しているため、見ていて心を貫かれたような衝撃を受けてしまう。
作者様は、卓越した人間観察能力の持ち主であるが、本作はその異能が遺憾なく発揮されていて、そのあまりの表現力の高さにただひたすらに舌を巻くしかない。人間を描き出す力は、間違いなくずば抜けているだろう。
また、今作の特徴の一つがオチだ。善意という自覚なき悪意に苦しんだものが、最後は悪意を持ってしっぺ返しをする様は、痛快なものがある。このバランス感覚も相変わらず見事で、感服させられた。
僭越ながら、作者様と普段から交流がある私から見ても、今作はいつにも増して素晴らしいし、なにか殻を破った印象さえも受ける。短い作品ではあるが、それだけの驚きと感動があった。
この作品は、作者様の飛躍を感じさせる素晴らしいものだった。
ぜひ、多くの方に読んでもらいたい。
心をえぐられる楽しさが、ここにはある。