契約
段々と薄れる意識。己を構成していた自我の束が少しずつ
手も足も動かない……いや、四肢は愚か肉体は存在しておらず、そらぬ浮く雲のようにふわふわと漂うだけに近い感覚だ。
なにも見えず、なにも聞こえず。
最早今何を考え、何を感じているのかさえ曖昧な今。そう遠くないうちに、この誰かであった残滓すら薄れ無に還るのだろうと、酷く他人事のように思考する。
『──そう、君は死ぬんだ。何一つ為せないまま、誰も知らぬ果ての端で』
無音静寂なこの空間。そのはずなのに、どこかから、声が聞こえた気がした。
『──嗚呼少年、この地の最期を飾る未熟な子よ。君ともう一人の命は、誰にも気付かれることなく終わることになるだろう。誰もが役割を果たせぬまま、忘れ去られる形でね』
母のように優しく、春のように暖かい慈愛の声。
眠りへ
死ぬ、死んでしまう。
終わる、終わってしまう。
──そうだ、俺は死んだ。何も出来ずに負けて、何も残せず朽ち果てた。
時間を稼ぐと約束しておいて、数秒も経たぬうちに散ってしまったのだ。
『──だけど、そんな君に一つだけ提案をしてあげよう。とっても魅力的で損のない、ただ一度だけの奇跡をね』
声は囁きに変わり、魂を撫でるよう優しく提案を投げてくる。
その声は甘く優しく、そして柔らかく。内容問わず頷いてしまいたくなる誘惑そのものだ。
『──さあどうする? そのまま消えるのが本望かい? それとも訳も分からぬ声を信じて、この手を取ってみるかい?』
そこにはなにもないはず。なのに見えもしない無色の空間には、一本の手が伸ばされたと知覚できる。
透明な手はさながら分かれ道。伸るか反るか、進むか戻るか、足掻くか諦めるかの二つの選択肢が、目の前に敷かれていた。
……きっとどちらを選ぼうとも、この手はその選択に納得するのだろう。どこまでいこうとこの一回が最後なのだと、消えかけの俺にすらはっきりとわかってしまった。
俺が誰なのかも分からない。この手を掴めばどうなるかなんて見当もつかない。
けれども、この手を取らない方がましに終われるのだと、その先は過酷で辛い茨の道になるのだと、そんな確信が決断を楽な方へと導こうとしていた。
……きっとそうなのだろう。それはどうしようもなく正しくて、嘘だと思いたくなるほど残酷な真実なのだろうと、僅かに残す記憶の切れ端がそう告げてくるし、そこに間違いはないとだけは分かる。
それだけ辛い日々だった。時には妥協し、燻ったまま生きようと思った事すらあったはずだ。
冒険者、誰もが憧れる道の探索者、最初に抱いた子供の夢。
分不相応で身の丈に合わないと知っていながらも、それでも放り捨てる事が出来なかった職。星に手を伸ばす凡人にはきっと、苦痛に満ちたものだったはずなのだ。
──けれど、嗚呼それでも。例えそうだったのだとしても。
それだけが全てじゃなかっただろうと、苦しみだけの人生でしかなかった訳じゃなかったのだと、ぼんやりと残る僅かな俺が叫んでいる。
少しずつ、緩やかだがしっかりと、離れ散っていた何かが戻ってくる。
思考、夢、五感、記憶。そして最後に輪郭ある肉の感覚と共に、
──そうだ、俺は
才能も努力も足りない、ない物尽し落ちこぼれ。それでもなお、彼方の星を掴もうとした大馬鹿者だ。
『──さあ早く、これ以上は保たない。君の答えを教えてくれ』
「……そんなの決まってるさ」
大馬鹿者はその後のことなど考えず。ならばやることは一つ、生きることだ。
ただ未来を描くために、ゆっくりと手を伸ばし、空にあるはずの透明な手を掴む。
『──ありがとう。これでやっと、あの子を輪に還せるよ』
なにもない空と手を結んだ直後、繋いだ手から放たれる光が周囲を一気に染め上げる。
意識が飛ぶ。上へと吸い寄せられ、抗うことも出来ず、何色でもない空へと昇っていく。
天に旅立つわけではないと、不思議と直感で感じ取る。
これは終わりではなく始まり。命の灯火を消すものではなく、命を生み出す希望の輝きなのだと。
『──さあ行こうっ! この
先ほどとは違う、優しさを秘めながらも快活に道を示す声。
何者なのかはわからない。けれども言葉ではなく、差し出された手を信じて進もう。
決意のまま声に頷き、眠るように目を閉じる。
次に目を覚ましたとき、俺はあの怪物を──
友に託された使命。出口を見つけるという唯一の生存策を絵空事にしないため、ただひたすらに周りを探った。
友が時間を稼いでいる。ふがいない自分のために、死を覚悟して囮をしてくれている。
その事実が足を止めることを許さず、踏み出す度に軋む体に鞭を打つ活力となっていた。
『……く、くるんじゃ……ねえよっ』
一度目の轟音の後、
ありったけの罪悪感と、彼奴を絶対に死なせない決意。……そして自らがあの怪物に望まなくてもいいという、身勝手で人並みの安堵。
背を向けるように、目を背けるように。
「──あった。多分これだっ!!」
かき乱す後悔を振り切るように、死に物狂いで出口を探す
黒い怪物──
「──ぐ、
刹那の輝き──魔力の光が消失し、それでも怪物は微塵も揺らぐことはなく。
呼び声虚しく友は声を上げず。先ほどまであったはずの人の気配すら、もう感じることすらない。
──死んだ。あいつは今、光と共にこの世から消えてしまった。
今まで抵抗を続けていた者などどうでもいいかのように、怪物はゆっくりとこちらに体を向けてくる。
後ろでゆっくりと開いていく扉。今までと違って人が通れる程度のサイズ、これをくぐり抜ければあいつは追ってこれず、この場から逃げ果す事が出来るだろう。
……そう、逃げれる。あいつを見捨てた俺が、生き残れる。
「……ふざけんじゃねえよ」
今にも開いた扉の先へ駆け込みそうになった足を叩きながら、背を向けかけた怪物へ向き直す。
なんて阿呆なんだと後悔しながらも、これがどれだけ間違った選択だろうとも。
それでも俺は、この先へは行けない。進んでしまえば俺は、これからの人生胸を張って生きてはいけない。
『……
長いようでたった三ヶ月。思えば短い付き合いだと、
たまたま席が近かったから話し始めただけの関係。冷めた目をしたあいつは、Cクラスでも早々に落ちるだろうと、俺もあいつもそこまで関心を抱いていなかったはずだ。
それが今じゃ、こうして放課後まで剣を交える始末。
あいつは予想の何倍より強く、俺達は想像の何百倍も弱かったから、毎日がきつくてたまらなかった。
『……なれるさ。お前ならな』
いつだったか、あいつは俺にそう言ったのを覚えている。
自らへの諦観を隠すことなく、他の奴が聞けば笑って否定するだろう根拠のない肯定。
けれどその言葉に、俺がどれだけ救われたことか。お前はきっと、その一欠片すら理解してねえはずだ。
──なあ
俺にとってはお前の方が凄い奴だった、一番近くの目標こそがお前だったんだぜ。
「……へへっ、
木刀もなく魔力も少なく、あるのは壊れかけの拳のみ。
それでも構わない。大馬鹿者はそれらしく、気持ちのままに生存を諦めるだけだ。
「──行くぜっ」
聳える巨体に身を震わせながら、それでも己を鼓舞して飛び出そうとした。
その時だった。ゆっくりと近づく
足は止まり、光に目をやられないよう腕で視界を遮りながら、僅かに隙間を空けて確かめる。
突如現れた光の束。Aクラスの連中からすら感じた事の無い密度の魔力に、こっちに迫っていた黒竜ですらそちらを向き、脅威でもあるかのように喉を鳴らしている。
恐らく初めて、俺達がこの部屋に入ってから何かに意識を向けている。
つまりはそれだけの存在。俺の理解の外であろう規格外が、この場へ唐突に現れたんだ。
……そう、誰かなんてわからない、そのはずなんだ。
「……はは、ハハハッ!!」
だというのに、どうして喜びが湧き上がってくるのだろう。
歓喜が、興奮が、希望が!! 今にも死を迎えそうだった俺から出てきてしまうのは──!!
「……何だよ、脅かすなよっ」
目からぼろぼろと零れる涙に視界を滲ませながら、少しずつ纏まる光の中──そこに立つヒトガタに文句を言ってやる。
何故とかどうやってとかどうしてとか、小難しい理由も説明も必要ない。
大事なのは結果。ここにある現実──こんな暗い絶望の迷宮を照らす光が再び帰ってきたのだと、今はそれだけで充分だった。
「──悪い。少し寝てた」
死んだと思ってたその男が、まるで日常のような声で応えながら、この地獄に戻ってきたのだから。
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