部屋後方に君臨している黒き怪物に、俺達は言葉を失ってしまう。

 実在すら定かではなかった伝説の魔物モンスター。神話学者の中では魔物モンスターという括りではなく、太古に存在していたとされる神の眷属だとも言われる生物だ。

 

 空想の英雄譚。有り得ざる幻想の登場人物が飛び出してきたと錯覚してしまう。

 まさかお目に掛かる機会が来るとは思わなかったし、あれが本物のドラゴンだってことを未だに信じ切れてはいない。

 そして何より、そんな生き物が進まなくてはならない道にいる現実を受け止めきれるほどの余裕なんて、今の俺には残されていなかった。


「……なあ。もしかして、あれを倒さなきゃいけないのかよ」

「……かもな。違うと願いたいぜ」


 いっそそうであればいいと思うが、それでもそんな都合の良いことがあるわけないと、狩屋かりやの願望を否定する。

 

 幸いにしてこちらに襲いかかってくるわけではなく、そもそもこちらに気付いてすらいない様だ。

 

 とりあえずは部屋に何か無いかと、動く気配のない怪物から目を逸らしながら、別に突破口が周囲を窺ってみる。

 あれにかち合わない距離に出口があれば最上。ないならないであれを倒せる仕掛けとか、いかにもな武器があるかもしれないと淡い希望を抱きながら、部屋に入らぬよう扉の外から覗き込む。


 けれど残念ながら、特に使えそうなものは見当たらない。

 天井をを支える数本の大きな柱に、絵本に出てくる城の中みたいな凝った内装。そしてやはり、見間違いではないあの怪物がいるだけの部屋──それが今分かるこの空間の全てだった。


『候補者二名。速やかに入室してください。速やかに入室してください。候補者二人──』


 扉が開いて少し経ってから、断続的に鳴り続ける音の羅列。

 言語が分からない以上、言葉であっても何を伝えているのか知る事は出来ない。だけど考えるために使える時間は残り僅かなのだと、何となくだが確信できてしまっていた。

 

「役割を分けるぞ。そして俺があれを引きつけるから、お前は出口を探してくれ」

「なっ、何言ってんだよ。んなこと押しつけ──」

回復促進薬ポーション飲んだってお前は重傷なんだ。時間を稼ぐなら動ける方、尚且つ剣持ちでまだましに動ける俺が適任だ」


 反論してきそうな狩屋かりやの口を手で塞ぎ、単純な事実だけを話していく。

 ……はっきり言って、あの怪物に動かれたらどっちが囮をやろうが誤差。なら俺が一縷の望みに賭けて出口を探した方が、まだ助かる可能性は高いと思う。


 ──ただし、そうすれば狩屋かりやが確実に死ぬことになる。

 今の狩屋かりやに時間を稼げる力など残されてはいない。むざむざわかりきった死に送り出すことなど、俺に許容できるはずがなかった。


「謎解きがあったら死ぬ気で解け。あんなの相手に長くは保たないからな」

「……でもよぉ。もし出口がなかったらどうすんだよ?」

「──ある、あるはずだ。だから意地でも見つけてくれ」


 狩屋かりやの不安はごもっとも。実際はそんなものなどない可能性の方が高く、あったとしても開かないなんてのが恐らくの結末だろう。

 

 けれどそれで諦めるなんてのを受け入れられるほど、利口な心根を俺は持ってはいない。

 そうでなければここまで歩いてない。立ち止まりたいことの方が多かったのに、わざわざ辛い思いをしてまで進んでくるなんて馬鹿なことをするわけがない。


 ──ここまで絶望的な現状だと、いっそやけになれて好都合だ。

 少しでも生存に近い行為を。隣の友に道を繋げるためなら、こんな命の一つでも賭けてやるさ。


『──規定時間が経過しました。選定への参加を拒否したものと見なし、竜の間を閉鎖致します』


 納得いかなそうな狩屋かりやをどう説得しようか悩んでいると、何故か鳴り続けていた音声のパターンが変化する。

 一体何がと会話を止めた矢先、前方でどしんと大きな音が起き、再び地面が僅かに揺れ始めた。


 じわりじわりとこちら側に戻ってくる扉。──まずい、もう閉まっちまうのか。


「──頼むぜっ、まもる!!」


 最早話し合う時間は無いと、軽く跳躍し部屋へと飛び込む。

 境を越えた瞬間、肌に伝わってくる雰囲気が変わったことを強く感じながら着地した。


「……でけえな」


 進入と同時にのっそりと動き出した巨大な黒の影に、剣を抜きながら改めて恐怖する。

 ここまで直接的な恐怖に犯されるのは初めてだ。認めるのは癪だが、この迷宮ダンジョン探索中に芽生えた多くの感情おもいがままごとだったと思えてしまうくらい、比較にならない厚みと重圧を持っていやがる。


 ──これが生物としても格の差。動くことなく敵を殺すとされた、比類無き最強種の一角。

 これから挑むのは神話に連なる伝説の怪物なのだと、いよいよ腹を括らざるを得なかった。


「──いくぞっ!!」


 がたんと、完全に閉まる扉の音を聞いてから、後ろにいるはずの友に聞こえるよう声を張り上げる。

 

 ──さあいくぞ。悔いを残さぬよう、精々無様に踊ろうじゃないか。

 

 震えの止まらない剣を持つ手に本気で力を込めながら、足に力を入れ地面を蹴り出す。

 強化は使っていない。だけど何故か以前よりもはやく、羽でも生えたと思えるほど軽く動けけて

 予測よりも遙かに短い時間で詰まる距離。それに伴い大きさを増す怪物の実体へ剣を構える。


 肝心なのは最初の一撃。動き始めてしまったデカブツの注意など、本気でやらねば興味を引けはしないだろう。


 迷うな、恐れるな、躊躇うな。

 余計な思考はいらない。必要なのはより鋭い剣、師が認めてくれた唯一の才能の顕現だけだ。


「──おらぁあぁ!!!」


 喉が擦切れそうな程吠えながら、無心で一刀を振り下ろす。

 最速にして最強の一振り。大岩すら断ち切ってみせた剛の斬撃が、怪物の黒鱗に振り落とされ──そして刃は砕け散った。


「……はっ──」


 刃を失った剣に呆然としてしまった直後、衝撃が全身を打ち付け、後ろの壁に叩き付けられる。

 重力に従い壁から地面に落ちる体。意識は一瞬空白となり、次の瞬間には身を切るような激痛が駆け巡る。

 

 まともな思考を維持できない。何が起きたのかも把握出来ず、痛みで呼吸ままならない。

 何が起きた。何をされた。何も分からぬまま、ただ苦しみに支配されている。


「く、な、なに……」


 堪えきれぬ痛みを懸命に押し殺し、ゆっくりと首を曲げて顔を上げていく。

 赤の混じった霞んだ視界。今にも閉じてしまいそうな目で、そんな様でされ原因を把握出来てしまう。

 

 ──尾。今ドラゴンが揺らしているのは、人にはない第五の手足。

 

 まるで黒く巨大な鞭。そこいらの木よりも遙かに太く、俺の全力すら容易く弾く程の固さを持った怪物の尾が、俺を吹き飛ばした正体だった。


「──紅蓮ぐれんッ!!!」

「……く、くるんじゃ……ねえよっ」


 ぼんやりと耳に入る己の名。それを聞いて、何とか立ち上がろうと試みる。

 折れているのか腕に力が入らず、もぞもぞと身を捩り続け、更なる痛みに襲われながらも何とか体を起こしていく。

 

 早く、早くしないとあいつが来ちまうかもしれない。

 立て、立ち上がれ。俺が勝手に決めといて、自分で全部水の泡にするわけにはいかないだろうが──!!


「早く、早く出口を……探せ……っ!!」


 腕は力なく垂れ落ち、体が揺れる度に内側から砕ける音を聞きながらも。

 両の足裏は地面に付け、絶え絶えな呼吸で狩屋かりやのバカに、まだやれると声を振り絞る。


 幸いなことに、怪物の意識はこちらに向いている……そのはずだ。

 ぎろりと動いた縦割れた翡翠の目。それがこちらを小さな虫程度には認識している証拠のはずだ。

 

 意識が飛びそうな頭が出した結論に違和感を感じてしまうが、答えを導く余裕なんてない。

 余計な思考なんて一刻一秒でも邪魔。残された気力でやるべきことなど、それこそ一つしか無いだろうに。


 ──あと一回。後一度でも動いてしまえば、それで俺は終わるだろう。

 今立っているのだってやっとのこと。何が出来るわけでもない、がらくた同然のでしかない羽虫おれに、この巨大な怪物がいつまで興味を持ってくれるだろうか。


 ……狩屋あいつが逃げられるだろうか。結末は見れないが、地獄に垂れた蜘蛛の糸を掴めるように精々祈っておこう。

 

「──強化エンフォース


 体力、生命力、魔力。

 起動した魔法は底に残る全部を集め、刹那の輝きが体を満たしていく。

 

 生命を対価とした魔法行使。これは現代の教育では絶対に教わることはなく、常人なら起動すら拒む諸刃の行為だ。

 だが引き出せる力は通常よりも遙かに強く、凡人が才能ありを凌駕できる数少ない方法の一つ。かつて国同士が戦争していた時代では、兵士に強制させていた国すらあるという記録さえ残っているほどだ。


 師匠との修行で偶然見つけた最後の切り札。絶対に使うなっって約束、破っちまうことになるな。


 ドラゴンも変化を感じ取ったのか、牙を見せ唸り声を上げ始める。

 だが遅い。こちらはもう準備は出来ている。色は失せ、臭いは消え、そして音すら残らない。


 ──じゃあな狩屋かりや。先に逝くけどすぐには付いてくんなよ。


 姿勢など関係なく、ドラゴン目掛けて全力で突っ込む体。

 この身を砲弾とし、悠然と居座る巨大な怪物の原を貫かんと、全ての力で一直線に跳んでいく。


 瞬間、不意に過ぎった過去の記憶。辿り着くまでの一瞬は、長く永く思い出を膨らまし続けた。


 いろんなことがあった。良いことは多かったし、辛いことはそれよりたくさんあった。

 けれども走り抜けた。まだまだ生きていたかったけれど、そこまで悔いがあるわけではない。


 一秒も経たぬうち──瞬き程度の時間の後、黒き竜と一条の光は衝突し、光は一瞬にして霧散する。

 光の主であった少年は体を残さず潰えてしまう。彼──高峯紅蓮たかみねぐれんは最期の間を頬を緩ませながら、その生涯に終わりを迎えた。

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