第3話 秘密の友だち

 昼間の夏らしい暑さが残る夕暮れ時、河童がそろそろお経を唱えようと思っていると、滝壺に一人の少年が現れました。とてもびくついた様子で、そっーと一歩ずつ滝壺に近付いて来ます。他に人影もなく一人で来たようでした。


〈おおかた友達に‘滝壺に本当に河童がいるのか確かめて来い’とでも云われて来たのだろう。ちょっとした肝試しの遊びだな。〉


河童はそう思って、ならば少し脅かしてやろうといつもより大きな声でお経を唱え始めました。その声に驚いた少年は立ち止まり、肩をすくめて辺りをじっーと見回しています。

 けれど誰もいません。滝壺は、来た時と少しも変わらない様子です。そのまま少年は、すぅーと身をかがめ滝壺に向かって正座をすると、両手を合わせて目を閉じました。聞こえてくるお経を真似て、ぶつぶつと呟いています。


 少年は、河童のお経に合わせて一緒になってぶつぶつと真似ているのでした。


 しばらくして河童の低い声がひと際長く響いた後、お経の声はぴたりと止みました。少年はパッと目を開け滝壺に向かって一礼すると、すっくと立って一目散に駆けて行きました。


「何だったんだ? あいつは一緒にお経を唱えていたぞ。ただの肝試しじゃないのか?」


河童は不思議に思いましたが、もう少年は走り去った後で確かめようもありません。仕方なく河童は、少年の事は忘れることにしました。



 次の日の夕方、あの少年はまた滝壺にやって来ました。そして滝壺に向かって正座をし両手を合わせ河童のお経が始まると、昨日と同じように一緒にぶつぶつとお経を真似ました。

 そして、お経が止むと立ち上がって、またさっと駆け出して帰って行きます。次の日も、その次の日も、少年は夕方になると滝壺にやって来ては、河童のお経に合わせてぶつぶつと唱えていました。


 いよいよ気になって仕方なくなった河童は、明日の夕方少年が現れたら聞いてみようと決めました。


 そして五日目の夕方、少年はやはり滝壺に現れました。そっーと滝壺に近付いて正座をして手を合わせ、河童のお経が始まるのを待っています。それを見て河童は、お経を唱え始めました。少年はいつものように目を閉じ、河童のお経に合わせて呟いています。


 河童はその少年の声に注意して滝壺から顔を出し、お経を唱えながら静かに滝壺を泳ぎ少年に近付いて行きます。だんだんとお経の声が大きく聞こえ近付いている様に感じた少年は、不思議に思いそっと目を開けました。


「うわぁー!」


少年は驚いて後ろへのけぞります。


「カッ・・・ 河童・・・ カッ、カッ・・・」


驚いた少年は、上手く言葉になりません。地面に着いた両手を動かせもせず、河童と目が合ったまま震えています。


「よう少年、驚いたか? この滝壺には、本当に河童が棲みついているんだよ。帰ったら友達に言ってやんな。俺は見たって。滝壺で聞こえるお経は、その河童が唱えていたって。」


河童は少年に向かって、ちょっと意地悪そうに言いました。少年は、お尻を地面に着けたまま両手と両足で精いっぱいの後ずさりをしています。


「ちっ、違うよ。そんなんじゃないんだ。うちのばあちゃんが、ばあちゃんがよく言っているんだ。あの滝壺は、水神様の滝壺だから滝裏に石積みの祠があるんだって。だから昔は、みんながよくお参りに行ったって。」


少年は勇気を振り絞って、震える声で言いました。


「あぁ、そうだな。確かにこの滝裏には石積みの祠がある。今でも水神様はいると思うぞ。俺が棲みついたせいで、今じゃ誰もお参りに来なくなったけどな。」

河童が丁寧に答えました。

「やっぱりそうなんだね。じゃぁ、祠は今でも本当にあるんだね。」

「あぁ、ある。お前はお参りに来たのか?」

「うーん。お参りと云えばそうだけど・・・ でもちょっと違うんだ。僕は、お経を唱えられるようになりたくてここに来たんだ。この滝壺で朝夕に毎日お経が聞こえるって噂だったから。」


「ふん。変わった子どもだなぁ。経を唱えたいだなんて。でも、経を唱えたいんなら長慶寺へ行けばいいじゃないか。」

「あぁ、そうか。思いつかなかったや。はははっ。でもいいんだ。水神様にお願いしながらお経を唱えたかったし。」


少年は、照れくさそうに少し笑いました。


 こうして河童と話しているうちに少年は、少し怖さが薄れていました。河童の方も、少年に興味が湧きそのまま二人は話を続けます。


「お前、面白いやつだなぁ。それで、水神様に何をお願いしたいんだ?」

「うん・・・ じいちゃんが蓮華の眠りに就けるように。水神様にお願いしたいんだ。」

「蓮華の眠り? 随分と難しいことを知っているじゃないか。」

「うん。この前、学校に長慶寺の和尚さんが来て話してくれたんだ。亡くなった人は、極楽にある蓮の花の中で眠って次の生涯を待つんだって。無事に蓮華の眠りに就けるようにお経を唱えて上げる事が、その人の手助けになるって。じいちゃん、鮎釣りの名人だったんだ。だけど、どういう訳か釣りの途中に川で死んじゃったんだ。」


少年はうつむいてしまいました。


「そうか・・・ そんな事があったのか。辛かったな。お前。祖父ちゃんが大好きだったのか?」

「うん。大好きだった。鮎の釣り方も笹舟の造り方も、いろいろ教えてくれたんだ。泳ぎだって教えてくれたのに、そのじいちゃんが何で川で・・・」

少年の目から涙がこぼれました。


「川っていうのは、そういう所さ。どんなに名人でも、ふとした隙に命を持っていかれる。一瞬のうちにな・・・」

河童は静かに言いました。少年はうつむいたまま泣いています。


「ところで今日で五日目だ。お前、ずっと俺の経を真似ていたようだが、少しは経を覚えられたのか?」

「うん・・・ 少しだけ。どうにも難しくて。聞き取るのもやっとなんだ。」

少し明るい声になった河童の問いに、少年はやっと顔を上げました。


「そうか。それなら明日の夕方までに俺が、経を書き写しておいてやる。その紙を見ながら、明日は一緒に唱えてみろ。そしたらきっと、すぐに覚えられる。滝壺に来なくても一人で覚えられるぞ。」

「本当? ありがとう河童さん。案外、優しいんだね。ありがとう。じゃぁ、明日の午後に、夕方前にまたね。」


少年は、笑顔で駆けだして行きました。

河童は、その笑顔を何だか嬉しく感じていました。

















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