竜の娘
山の川さと子
山葵の女
四郎は整った顔立ちをしていて、口もうまかった。伊豆の山合いの、豊かで穏やかな川辺の土豪の四男として生まれ、特に不自由のない気ままな暮らしを送っていた。
夢は、いつか京の都にのぼること。その為に近くの寺に通い、字を覚えて教養を身につけた。
だが嫡男ではない。それに父も嫡流でなかった。だから、きっといずれ、自分も父のように戦に駆り出されて使い捨てられて死ぬのだ。半ばそう諦めていた。この豊かな北条の地を継ぐのは伯父の血筋。京に行くのも官位を授かるのも。自分はその手先として、言われたことを淡々とこなしていけばいいだけなのだ。
「あーあ、つまんねぇ」
小石を投げる。水面をピチピチと跳ねて向こう岸にポトンと落ちるのを確かめて、また一つ小石を拾う。
どうせ、自分など、この小石のようなもの。幾ら字が読めようと、本家か伊東か狩野かに指一本で弾き飛ばされ、海か山か、またはその辺りの野辺で死ぬのだ。そう考えると溜め息しか出てこない。
でも、滔々と流れる狩野川の川面をぼんやり眺めてる間だけは、そんな鬱々とした気分から逃れられた。だから四郎は暇さえあれば、川辺に腰を下ろして書を開いて過ごしていた。
「おおい、早く避けろ!」
大きな声をかけられて顔を上げる。でも、何からよけなればいいのか分からない。
「おい、何をぼんやりしてんだら!聞こえねえのか?潰されておっ死ぬぞ!」
もう一度かけられる声。それは随分威勢は良いが女の声だった。
何故、俺がよけねばならぬ。
下手に女の声だと気付いてしまったのが災いした。四郎はゆっくりと声の主を探しに首を巡らせ、仰天した。裸馬に乗った女が山を駆け下りてくる。それは別にいい。問題はその後ろだ。何本もの巨木がドドドと地響きを立てて真っ直ぐ四郎めがけて流れ下ってきていた。
避けろと言われても、ここは川が大きく折れ曲がる所。大木らがここの川岸に激突した後、どちらにぶっ飛ぶかわからない。
「来い!」
差し出された逞しい腕に無我夢中で手を伸ばす。
グイと強く引き上げられ、気付けば馬上だった。
——ドガガッ!ガランガラガラガラ!!
凄まじい音を立て、大木が川縁に突き当たって起ち上がり、天の御柱のように天地を分けたかと思ったら、次に箍を外された梯子のようにグラリと均衡を崩して此方に暗い影を落とす。
——潰される!
頭を抱えて目を瞑る。
ドカカッ、ドカカッ。
馬の蹄の音がして、前からの風を感じた直後、ドオオンという轟音と共に背から物凄い風がやって来た。水飛沫も。
でも、潰されなかった。そう、多分。でも怖くて身動きが取れない。目を開けることさえ。
「おい」
声をかけられて恐る恐る目を開ける。
「いつまでくっついてんだら。このへっぴり野郎。ちゃっちゃと下りやがれ!」
怒声と共に、気づけば四郎は馬の背から突き落とされていた。
「な、何をする!」
ようよう立ち上がって馬上の人物に文句を言えば、女はヘッと声に出して笑って言った。
「北条のおとぼけ四郎ってお前のことだな。次から川辺で惚ける時にゃ、耳の穴だけはよーく、かっぽじって大きく開けとくんだな。大木に潰されて死んだんじゃ、せっかくの色男が台無しだろ」
そう言って、女は馬から飛び降りると、はいと手を出した。
「何だ?」
問えば鼻の先に皺を寄せ、四郎を睨め付けてくる。
「何って、命の恩人には礼をするべきだら?」
言われて、取り敢えず懐を探ってみるが何もない。書はあるが、こんな女に渡したくない。
「何もない」
言えば、女は太く逞しい両脚を肩幅より広く開いて突っ立った。
「じゃあ、取って来い」
「は?」
「そこの軽野神社で待っててやるけん、ちゃっと館まで飛んでって取って来い」
「何を?」
「礼の品だよ。そうだな、海のものがいいな。どうせ貝とか魚とか干したもん、館にはいっぱい溜め込んでるだろ?それ持って来りゃいい」
そう言って、早く行けと太い腕を振る女。
「礼って相手に求められて出すもんじゃねぇだら。感謝の念から此方から差し出すもんだ」
文句を言えば、女はまた鼻で嗤った。
「ああ、そうだ。だから、そうさしてやるっつってんのにさー、何をグズグズモタモタしてんだら」
「へ?」
「フン。早く来ねぇと男らに言いふらしてやるかんな。北条は、へっぴりの顔ばっか口ばっか野郎で、命の恩人に礼すら差し出さん、しみったれ一族やけん、次に合戦か何かで呼ばれても、命は懸けんでテキトーに流しときゃいいってさー」
ハハハと高笑いして川辺の神社に向かう女にそっと拳を握りしめる。
——何てこと。
えらい女に関わってしまった。
盗賊なり火事なり、領土内に何かあれば、近隣の男らを集めて事に当たる。伯父が京に行っていて不在の今、留守を任された四郎にとって、北条と関わりのある男らに叛かれ、なめられるわけにはいかなかった。
仕方なく館に戻り、女達が居ないのを幸いとこっそり炊事場に忍び込み、目についた物を幾つか手当たり次第に懐に突っ込む。それからその辺にあった布を掴んで外へ出た。
「何で俺がこんな盗人まがいのことを」
ボヤくが、しょんない。どうせ俺は運の悪い男なのだ。
軽野神社に戻れば、縁の上に先の女が偉そうに胡座をかいて待っていた。
「うん。まぁ、こんくらいでいいにしてやるかー」
山葵や干し魚、干した貝柱などを前に笑顔を見せた女を確かめて四郎は背を向けた。とっとと帰ろう。二度と関わり合いになりたくない。でも歩き出した途端、呼び止められる。
「おい、北条四郎。山葵は返してやるよ。俺、さっき木の伐採手伝ったけん、その礼に山葵はたっぷり貰ったからさー」
そう言って、胸元を大きく開ける。
立派な山葵がゴロゴロと沢山転がり落ちて来る。ツンと鼻をつく山葵の爽やかな香り。
「おっと、幾つかは返して貰うぜ。俺も皆と山分けするけんな」
そう言って、所々黒ずみ(青あざ)の出来た剥き出しの太い腕でガッと山葵を幾つか掴むと、干し魚や貝柱などを載せた布で包んで女は立ち上がった。
「じゃあな、北条四郎。オレはタツ。龍のタツだ。また海か山かで会おう」
——海か山?
そう思ったが、四郎は急いで山葵を掻き集めて懐に入れると立ち上がった。早く館に戻らねば。
駆け去る馬の背にチラと目を走らせ、四郎は呟いた。
「変な女」
二度と会うこともないだろうが。
でも、その女は四郎が今まで口説いたどの女より、眩く輝いていた。
「タツか。海か山で会うのは、確かに龍だがな」
呟く。
それが、後に北条政子と足利時子という、二人の女傑を産むことになる女だった。
竜の娘 山の川さと子 @yamanoryu
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