第36話

 思えばカトリーヌは出逢ったときからカイが気になっていたわけではなかった。


 彼を好きになったのは余りに幼い頃だったから、出逢った頃から好きだったと思い込んでいたけれど、実際にはそうじゃない。


 あれは出逢ってから2年後。


 カイが9歳、カトリーヌが7歳のときの出来事だ。


 悪戯盛りだったカトリーヌは、あの日初めて城を抜け出した。


 いつもは兄についていくだけ、父についていくだけだったのに。


 そうして森へと入り初めて見る広大な世界に夢中になって遊んで、やがて迷子になってしまったのだ。


 花畑で遊ぶのも湖で遊ぶのも、なにもかも珍しくて楽しかったけれど、ひとりでは飽きるのも早い。


 寂しくなって父や母の下に戻ろうとしたときには、既に自分がどこにいるのかわからなくなっていた。


 心細くて森にある花畑で座り込んで泣いているとカイが来たのだ。


「こんなところでなにをしてるんですか、皇女様?」


 利発な少年だったカイは臆することなくそう声を投げてきた。


 カトリーヌがビクッとして顔をあげると、彼はちょっと困ったようにこめかみを掻いた。


「もしかして覚えてないのかな。ロズウェルの養い子のカイです。こんなところでなにしてるんですか?」


「おしろ……どこにあるのかわからない。かえれないの」


「はあ。迷子ですか。じい様のところにご案内しましょうか?」


「いやっ。おしろにかえりたいっ。おとうさまやおかあさまのところにかえりたいのっ」


 まだ小さなカイには無理難題だったと思う。


 彼に城に連れていけと命じても、彼の身分ではまず無理だ。


 この頃はカイもまだ頻繁に城に来ていたわけでもなかったので。


「だったらお城の近くまでご案内しますから。歩けますか?」


「あし、いたい。あるけない」


 それまでひとりぼっちで寂しかったこともあって、このときもカトリーヌは無理難題を押し付けた。


 カイは困ったような顔をして、でも、突き放さなかった。


「しょうがないなあ。じゃあ背負っていってあげます。おぶさることくらい足が痛くてもできますよね? さすがにぼくじゃ抱き上げられないので」


「おんぶしてくれるの?」


 思わずマジマジと見てしまったものだ。


 だってあの頃のカイは小さかった。


 今の彼と比べると比較にできないくらい子供だった。


 カトリーヌを背負っていくなんて、どう考えても無茶な相談だ。


 できるわけない。


 だが、カイは黙って背を向けて屈み込んだ。


 言葉に嘘はないのだと証明するように。


 おずおずとおぶさるとカイはふらつきながらも立ち上がり、本当にカトリーヌを背負ったまま歩き出したのだ。


 途中で何度も止まったし、呼吸は弾んでいた。


 かなり辛かったはずだ。


 だって背中にまで汗が伝ってくるほどだったから、かなり無理していたはずなのだ。


 だが、カイは前言撤回はしなかった。


 ただ黙ってカトリーヌを背負って歩いてくれたのだ。


 カトリーヌはそんな彼の背中から、じっと見ていた。


 必死になって自分を運んでくれる少年を。


 カトリーヌを背負ったカイが発見されたのは、ほとんど城の近辺に戻ってからのことだった。


 カイは光の魔法学の勉強のためにあの森に行っていたらしく、全身を汗で濡らして歩いていたという次第だったのである。


 泡を食ったロズウェルはカイからカトリーヌを奪って、近くにいた光の魔法使いにカトリーヌを預けると、慌てて養い子に声を掛けた。


 何度も何度も名を呼ばれ、カイはその場で気絶した。


 たぶん限界だったのだ。


 カトリーヌを安全圏に引き渡したことで安堵して気が抜けたのだろう。


 ぐったりしたカイを腕に抱いて、ロズウェルが囁いていた言葉をカトリーヌは今も覚えている。


「小さくても男だな、カイは」


 あの頃のロズウェルはそういう話し方だった。


 彼の口調が変わったのは歳を取ってから。


 城に戻ってからカトリーヌは散々叱られたものだ。


 カイに無理させたこともそうだし、城から黙って抜け出してひとりで遠出したことも責められた。


 でも、カトリーヌは上の空だった。


 考えていたのはカイのことばかり。


 思えばあのときからだ。


 カトリーヌの目がカイを追うようになったのは。


 決して出逢ったときから彼が好きだったわけではない。


 好きになるだけの理由も背景もすべてあって、カトリーヌは彼を好きになったのだ。


 その彼が半分だけ血の繋がった実兄だった。


 そんなことを今更教えられても受け入れられない。


「……カイ」


 ウェインとは呼ばない。


 兄とは呼ばない。


 それだけがカトリーヌの意思表示だった。





「だから、近く……に。おい、カイ。聞いてるのかっ!?」


 両肩を掴んで揺すられてハッと我に返った。


 意識がどこかへ飛んでいたようだ。


 片手で額を押さえてミカエルに答える。


「ごめん。ちょっとボーッとしてた。なんだっけ?」


「あんた最近変だよ。ちゃんと寝てたか?」


「あ。うん。寝てる」


 と思うと付け足しかけて慌ててやめた。


 そんなことを言ったらミカエルを心配させてしまう。


「このところ毎晩カトリーヌの相談に乗ってるらしいけど、そんなに深夜まで掛かってるのか?」


「えっと」


 正直なところ記憶にない。


 カトリーヌが来たことは覚えている。


 でも、いつもいつの間にか眠ってしまっていて、そのまま朝を迎えてしまうのだ。


 目覚めたときにはカトリーヌはいなくて頭がいつもスッキリしない。


 そんなものだから正直なことを言えば、カトリーヌの相談ってなんなのか、未だにわかっていなかった。


 翌朝になって彼女に謝って今夜こそちゃんと聞くからと言えば、彼女はそれだけで嬉しいと答えてくれる。


 気にしていないと言って。


 でも、その言葉を守れたことはない。


 カトリーヌと逢うまでは眠気覚ましのお茶を飲んだりして、眠気がこないように努力をしているのだ。


 だが、彼女が来てふたりでお茶を飲むと途端に意識が飛ぶ。


 この頃は昼間でもこうして意識が不明瞭に陥るようになっていた。


 それでなくてもカトリーヌの相談があるからという理由で、毎晩彼を遠ざけているのに実情を知らせたら彼を無闇に心配させてしまう。


 曖昧に笑えば彼は眉をしかめさせた。


「まるで恋煩いでもしてるみたいだぞ」


「……あり得ない」


 思わず顔を背けて言ってしまっていた。


 そんな単純明快な理由なら、彼にはっきり言って断っているのだ。


 まあ子供たちの問題もあるから断りにくいのも事実だが。


 実際のところ本人にも自覚がなさそうな彼をバッサリ切ってしまえるかと問われたらカイも良心が疼くけれども。


「真面目に恋煩いじゃないのか?」


「なんでそんな疑いを持つんだ?」


「カイの気配が変わってきたから」


「俺の気配が変わってきてる? なんの話だよ?」


 意外なことを言われ思わず問い返していた。


 ミカエルは品定めするようにカイを見ている。


「大天使である俺にもよくわからない微妙な変化なんだ。なにかの影響を受けて変わってるみたいな微妙な。可能性としてはカイの心がだれかに奪われたからかなって。悪魔の影響にしては、あまりに微弱すぎるし」


「そんな心当たりはないけど?」


「じゃあきっと自覚がないんだ」


「誤魔化しでも言い訳でもなくて、ほんとに心当たりがないんだってっ!!」


 思わずテーブルに手を叩き付けて言うと、ミカエルもビックリしたように瞳を見開いた。


「真面目に言ってる?」


 コクンと頷いた。


 こんな嘘は彼には言わない。


 彼自身の気持ちが絡んでいるのだ。


 嘘を言っていい場面と悪い場面くらいカイはきちんと心得ている。


「じゃあボーッとしてるとき、いつもなにを考えてるんだ?」


「えっと。その」


 なにって真面目に意識を飛ばしてるのに、そんなことわかるわけない。


 答えに詰まるとミカエルが立ち上がった。


「ミカエル?」


「じっとして。なにかの魔法の影響かもしれないから探ってみる。あんた立場が悪いからな」


 その背中にバサリと純白の翼が広がる。


 それで本気なんだとわかった。


 天使としての力を使って調べる気だ。


 逆らえないかと目を閉じた。


 ミカエルの両手が優しく頭を包んでいく。


 同時にスッと重くなる瞼。


 クラクラと目が回る。


「……変だな。どんな魔法にも掛かってない。そんなはずないのに。これだけ気配が変わって恋煩いでもないとなったら、絶対になにかの魔法の影響は受けてるはずなのに……これって?」


 ミカエルの声が遠くに聞こえる。


「カーイ? 聞こえてる? 素直に答えるんだ。あんた最近変わったことは? なにかあるだろ?」


 その声に導かれるようにカトリーヌの名が喉まで出かかる。


 だが、何故か声にはならなかった。


 無意識にきつく口を閉じてしまう。



 自分でも意味不明の反応だった。


「カーイ?」


 呪文のように名を呼ばれる。


 その度にカトリーヌの名が喉まで出かかるのに、どうしてもその名が声にならない。


 脂汗を掻いてきたカイを見てミカエルは術を中断することを決意した。


 これ以上誘導しても彼は言わない。


 いや。


 言えないのだ。


 無意識のレベルでストップが掛かってる。

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