第19話


 地上に騎士王が誕生して18年が過ぎて、堕天した悪魔たちにとっては意外なことが起きていた。


 悪魔王とも呼ばれる魔王サタンが、よりによって己を殺せる唯一の相手である騎士王に心を奪われたのだ。


 しかも堕落させ情人にするよりも愛されたいと望み、彼には手を出さないほどの徹底振り。


 これで面白くないのがエリエルである。


 エリエルはサタンの愛人を自認しているが、自称しているだけで公認ではない。


 サタンがそれを受け入れていないからだ。


 ただ否定して避けて回るのも煩わしいので好きに言わせているだけで、実情はエリエルの片想いだ。


 それでエリエルも納得していたし、サタンに愛されなくてもいいと、ずっと割り切ってきたはずだった。


 それは何故かと問われれば答えは簡単だ。


 エリエルが愛されなくても、他のだれかが愛されることも、まずないとわかっていたからである。


 サタンはだれも特別扱いをしない。


 取り巻きの自分たちすら特別には思っていない。


 だから、愛されなくてもいい。


 自認していてそれを否定されないだけでいい。


 そう納得していたのだ。


 だが、サタンはよりによって人間なんて愛した。


 しかも彼の契約から逃れ、未だに受け入れようとしない人間の青年を。


 いつからかは知らない。


 しかし彼を愛してからサタンは夜をひとりで過ごすようになった。


 戯れに抱いてくれることすらなくなったのだ。


 これはエリエルにはショックだった。


 愛されていなくてもサタンに抱かれることはエリエルの誇りだったからだ。


 サタンが閨を共にする相手は、それほどまでに限られていたのである。


 但し肉体関係を持っていても愛人とは認めてくれない。


 サタンは愛し愛されるという部分に拘るので、気持ちの伴っていない行為では、まず愛人とすら認めてくれない。


 恋人なんて夢のまた夢である。


 それでもサタンの夜の相手をできるだけでもよかった。


 それがエリエルの女としての誇りだったからだ。


 女でサタンの閨の相手ができるのはエリエルだけだったから。


 なのに騎士王を愛したとはっきり自覚してから、サタンはだれも夜に招かなくなった。


 エリエルにお呼びがかかることもない。


 それが人間でありサタンを愛してもいない騎士王を愛したからだと知ったのは、サタンが夜の相手を求めなくなって1週間ほどが過ぎてからのことだった。


「騎士王なんてどこがいいのよ」


 ムスッとした顔で愚痴るエリエルに、酒の相手をしていたカミュエルが、その端正な顔を曇らせる。


「飲み過ぎだ、エリエル。いくら悪魔にとって酒の類いが薬でも深酒しすぎだぞ?」


「これが飲まずにいられますかっての。サタン様は騎士王を愛したと自覚なさってから、一度も夜にあたしを招いてくださらない。これじゃなんのために堕天したんだかわからないじゃないのよっ!!」


 エリエルは元々天使には向いていない天使だった。


 天界では浮いてしまっていて、どうしても馴染めなかったのだ。


 そんな頃、気紛れに地上に降臨して魔王サタンと出逢い、その人柄に惚れてまた魔界の気風にも馴染み堕天使となった。


 エリエルが堕天使となった理由は、すべてサタンにあるのである。


 それは魔王の側近となった今も変わらない。


 むしろ夜の相手を務められるほどに近づけてから、その自負は強まったと言っていい。


 そのサタンに省みられない。


 それはエリエルにとって堕天した意味を見失うことだった。


「だからといって魔酒はそんなに飲むものじゃない。魔酒は悪魔でも酔うんだからな」


 そう言って酒瓶を取り上げるカミュエルである。


 エリエルが悪魔らしい堕天使だとするなら、両親を悪魔に持つ2世たるカミュエルは、ある意味で生粋の悪魔である。


 但し両親はどちらもが元天使で堕天した身だ。


 つまり身体に流れる血の多くは魔界ではなく天界寄りだということ。


 堕天使を両親として生まれついたせいか、カミュエルは両性だし、堕天使ではないから天使に対する拘りもない。


 天使としての自分をとるか、悪魔としての自分をとるか。


 そういう葛藤がまるでわからないのだ。


 だから、こんなときに掛ける言葉もわからない。


 ただ仲間として行き過ぎた行動は制止することしかカミュエルにはできない。


 両親は言っていた。


 カミュエルが両性なのは天界の影響だと。


 天使は元々性別を持たない。


 天使として男性寄りか女性寄りか、そういう区別はあるが、性別らしい性別がないのだ。


 悪魔たちに性別があるのは堕天してから性別を得るからである。


 男性寄りの天使だったら男性に、女性寄りの天使だったら女性の悪魔になる。


 それが堕天使の宿命だった。


 なのに生粋の悪魔として生まれたカミュエルは両性だ。


 つまり天使の仲間なのである。


 両親から聞いた話によれば、天界さえ認めカミュエルがその気になれば、天使にもなれるだろうという話だった。


 このことは仲間内でも伏せている。


 幹部悪魔であるカミュエルが天使の影響を強く受けているなんて言えるわけがないからだ。


 天界の気風に馴染めず、天使としては生きられないことを悟り堕天使となったエリエルが知ったらなんて思うだろう?


 カミュエルはついそんなことを考えてしまう。


 尤も。


 カミュエルには悪魔としての生き方しか考えられないけれども。


「アンタさあ、悔しくないの?」


「と言われてもわたしは別にサタン様に懸想しているわけではないし」


「アンタだってサタン様の夜のお相手のひとりじゃない。抱かれてるのか抱いてるのかは知らないけどさ」


 吐き捨てるエリエルにさすがに憎まれ口だとわかったカミュエルも呆れる。


 悪魔王と呼ばれ男性であるサタンが、配下に抱かれるなんてあり得るわけがないではないか。


 ルシフェル辺りならまだ想像もできるが、いくら両性でもカミュエルはサタンを抱こうとは思えない。


 風格や貫禄などで負けている相手を抱けるほどの逸材だと自分で思えないので。


「それを言うなら幹部クラスはみなそうだ。ルシフェル辺りに言うべき嫌味ではないか?」


「あいつに言ってもヘとも思わないでしょうよ。それにルシフェルがサタン様を抱くなんてあり得ないしね」


 ルシフェルは尤も天使らしさを残した悪魔なのだ。


 彼ほど堕天使の名に相応しい悪魔はいない。


 彼は悪魔と名乗るより堕天使と名乗った方が似合っているからだ。


 エリエルなどは堕天使よりも悪魔だなと思うのだが。


 そのルシフェルが性欲というものを持っている方がおかしいと思う。


 天界で当然のように生きていた頃はエリエルなども無縁だったし。


 それを思うとルシフェルがサタンの相手をするのは、ただの惰性としか思えないし、それでサタンを抱くとも思えない。


 いや。


 だからこそ、サタンが夜の相手に1番多く招くのが、実はルシフェルであるという現実を受け入れられない頃もあった。


 ルシフェルの方はただの惰性で、サタンが望むから仕方なく応えているだけなのだ。


 それを知っていながら心に拘るサタンが、何故かルシフェルを最も慈しんでいる。


 それもまた現実である。


「確かにルシフェルがだれかを抱くというのは、ちょっと考えられないな。仕方なく抱かれるというなら、まだ納得もできるが……あのルシフェルに限ってと思ってしまうのも事実だ」


 しみじみ頷くカミュエルである。


「そういうところがサタン様のお気に召したのかしらね」


 口には出さないが、なにを連想して呟いたのか、カミュエルはよく知っている。


 両親からサタンの噂話なら沢山聞いた。


 その中にサタンが忘れたくて忘れられなかった愛した人の話がある。


 今回の騎士王の騒動は遂にサタンがその人を忘れた現実を意味するのだ。


 だから、エリエルは荒れるのだろう。


 サタンが「あの人」を忘れることは絶対にない。


 そう信じていたから。


「あの人」の存在を忘れないかぎり1番にはなれない。


 そしてサタンは絶対に「あの人」を忘れない。


 エリエルだけでなくサタンを知る者なら、だれもがそう信じていただろう。


 そのサタンを動かした騎士王。


 一体どんな青年なのだろう。


 そんな心の動きを読んだのだろうか。


 エリエルが小悪魔のような笑みを浮かべて顔を覗き込んできた。


「騎士王が気になる?」


「……ならないと言えば嘘になるな。あの一途にひとりの人を想い続けてきたサタン様のお心を奪った相手だ。気にならないと言ったら嘘になるだろう?」


「だったら誘惑しちゃいなさいよ」


 サタンの心が離れた現実を受け入れられないのか。


 エリエルがカミュエルを唆す。


 まさに小悪魔のようだ。


 気に入らなくても自分で奪おうとはしない辺り、エリエルがどのくらいサタンに本気なのかが忍ばれる。


 サタン以外の男は御免なのだろう。


 そういえばエリエルはサタンの愛人を自認するようになってから、誘惑することはあってもだれかに躯を許すことがなかったと聞く。


 そのサタンに捨てられた憂さを、サタンから騎士王を奪うことで晴らそうというのだろうか?


 魔界で下剋上は珍しくないとはいえ、さすがにそれは……。


 答えに詰まるカミュエルをエリエルがじっと見詰めている。


 その瞳には艶がある。


 惑わされそうでそっと視線を外した。


「気にならないと言ったら嘘になると言っておきながら、サタン様から奪う度胸はない。アンタそれでも男なの? 小さいわねえ」


「……嫌味の路線を間違えてるぞ。わたしは男ではない。知っているだろうに」


「どちらかといえば男でしょ。そのくらい知ってるわよ。だから、アンタがサタン様を抱いてるのか抱かれてるのか、イマイチ判断できなかったんだから」


 そう言われてしまうと言い返せない。


 確かに両性でありながら、どちらかといえば男性的だとは自分でも思うので。


 ただ今までは抱きたいと思い詰めるほどの相手というのに巡り逢えてはいない。


 その状態でエリエルの誘惑に乗るのもバカらしい気がする。


「騎士王が全く未経験だって噂はアンタも知ってるでしょ? あの年齢でそういう男、そうそういないわよ?」


 グラリと心が揺れた。


 確かに18にもなって口付けすら経験がないというのは、異常なくらい初心だとは思うけれども。


「あー。そういえばルシフェルからチラッと聞いたけど、サタン様が悪戯心を起こして契約を結んだとき、騎士王は精通すらしてなかったらしいわね」


 あらぬ方を向いてそう言われたとき、さすがに信じられなくてエリエルを振り向いた。


「冗談だろう?」


「そう思う? 事実よ」


「……信じられない」


 18にもなって精通していない?


 ある意味それは異常だ。

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