第18話






「そなたとなら永遠を生きてもいい。そう思えることがわたしは嬉しい。あの日から夢見ることを諦めてきた。

 もうだれも愛することはないと自分に言い聞かせてきた。なのに……不思議だな。そなたはわたしの魂を揺さぶる。あの方とはどこも似ていないのに……」


 夢うつつにそんな声を聞いた気がした。


 寒さを感じて目を開ける。


 夕暮れが迫っていた。


 周囲に視線を走らせてもサタンはいない。


 散々カイをなぶって満足したのか、魔界に帰還したようだ。


 チリッと首筋に焼けたような感触。


 気になって片手を当てる。


 そういえばナーガが言っていた。


 悪魔に生涯の伴侶に選ばれると首筋に烙印を刻まれる、と。


 それは所有の印だと。


 まさか。


 青ざめたとき、遠くから声が聞こえてきた。


「騎士王!!」


 この声はエリル?


 起きたいのに起きれない。


 そういえばもう夕暮れということは昼食もパスした?


 父がどんなに慌てているかと思うと今更のように青くなる。


「こんなところで今までなにをやっていたんですか、あなたはっ」


「……エリル」


 ヌッと顔が出てきて困った声を出した。


「ずっと気配を捜していたのに感じ取れなかった。ここにずっといたなら感じ取れるはずなのに。なにがあったのです?」


 そこまで言ってハッとエリルが息を飲んだ。


 カイの首筋をじっと見ている。


 慌てて手で覆ったが、エリルは膝をつくと強引にカイの手を引き離した。


 感覚のない手では力も入らない。


 逆らえないまま彼に凝視される。


 とても居心地が悪かった。


「この烙印はサタンの紋章。サタンと逢っていたんですか?」


「逢っていたというか、ここで寝ていると勝手に向こうからきたんだ。別に待ち合わせたわけじゃ……」


「逢っていたんですね?」


 言い負かされて頷いた。


 逢っていたのは逢っていたから。


 それを見てエリルは大きなため息をつく。


「なにもされませんでしたか?」


「……特には」


 まさかあんな形で迫られたなんて言えるわけがない。


 エリルも信じたわけではなさそうだが、なにかあっても言えるはずもないと納得したのか、それ以上は問いかけなかった。


「一言だけ確認を取ります。……立てますか?」


 慎重に問いかける声はどちらの意味か迷った。


 サタンになにかされたから立てないと疑ってるのか、それとも隠し事に勘づかれているのか。


 判断する基準がない。


 答えず上半身も起こさないカイに、エリルはそっと片手を引っ張った。


 だが、引っ張られたカイは上体を浮かしたが、手を離されるとそのまま地面に逆戻りそうになる。


 それをエリルが受け止めてくれた。


「……やはりそうだったんですね。今朝の食事のときからおかしいと思っていました。これはサタンになにかされたからじゃない。以前からですね」


「……気付いたのなら指摘しなくても……」


「そういうわけにはいきませんっ!! どうして言わなかったんですかっ!? 毒のせいで感覚が麻痺しているとっ!!」


 エリルは医師の役割を果たしていたのだ。


 この結果が彼の力不足を意味すると知って言い募った。


「だって毒なんて初めて飲んだから、感覚は麻痺するものだと思ってて、完治すれば治ると楽観してたんだ」


「でも、治らなかった」


 苦い声にコクンと頷いた。


「今はどんな状態なのですか? 朝は動けていましたよね?」


「意識して動こうとしているときは動けた。でも、動かない時間が長いとどうも動けなくなるみたいで」


「全く。治っていないならそう言ってくださいっ!! 医師だって万能ではないんですっ!! 患者に容態を隠されたら、わかるものもわからないっ!!」


「……すみません」


 思わず丁寧に謝ってしまう迫力だった。


 エリルって怒ると怖い。


「とにかく城に戻りましょう。姫様も心配されています」


「ルナが?」


「朝からずっと姿がなくて、妖精であるわたしたちにも気配が追えなくて、姫様が心配しないとでも?」


 ここまで言われて口を噤む。


 これだからカイは鈍感だと言われるのかもしれない。


 言われるまで気付かないのだから。


「たぶんサタンが結界を張っていたのでしょう。だから、気配を追えなかった。我々にもできないことはありますからね。

 ミカエル様も今頃慌てていらっしゃるでしょう。こんなものを刻まれていては」


 エリルの眼が首筋に向いていて困る。


「隠せないかな、これ?」


「難しいですね。なにしろ悪魔王サタンが生涯の伴侶に刻む刻印ですから。他の悪魔とはワケが違います」


「ミカエルに頼んでも無理?」


「無理でしょう。相手は悪魔王サタン。ミカエル様の手に負える相手ではない。天界でこの刻印についてどうにかできる者がいるとしたら、おそらく神だけです」


「つまり天界にはどうにもできないってことか」


 ああ。


 頭が痛い。


 悪魔の知識に疎い人間ならごまかせる可能性もあるが、この国には光の魔法使いたちがいる。


 育ての親ロズウェル率いる光の魔法使いたちが。


 彼らの目にはカイの身になにが起きたか、すぐにわかってしまうだろう。


 それは皇帝であり父であるスタインに報告されるはずだ。


 つまり隠せないのである。


 どれほど心配を与えるか。


 それにルナだってきっと不安がる。


 できればなんとかして隠したいが手がないのでは。


「後他に可能性を秘めている方がいらっしゃるとすれば、おそらく緑の妖精王様だけです」


「緑の妖精王? どうして? ミカエルにも無理なのに?」


「緑の妖精王様は唯一直接妖精たちの始祖、先代の緑の妖精王の血を引く御方です。神に匹敵する力を秘めた唯一の方なのです。妖精王様ならもしかしたら」


「可能性があるのなら城に戻る前に緑の森行きたい」


「騎士王」


「ルナや父上に心配をかけたくないんだ。こんな普通の者にはどうにもできないことで」


「姫様の名を出されては、わたしも拒否はできませんね。ですが確実ではありません。緑の妖精王といえども、どうにもできない場合もある。それは覚悟しておいてください」


「わかってる。これは俺の責任だから、もしどうにもできなくても、妖精王のせいにはしないよ」


 それだけを答えるとエリルが動けないカイを抱き上げてくれた。


 その姿がユラリと陽炎の中に消える。


 次の瞬間ふたりは緑の森に立ち入っていた。


 目の前には白亜の建物がある。


 おそらく緑の妖精王の住まいなのだろう。


 緑の妖精王は贅沢をきらうという。


 おまけに自然と共存しているので、こういう住まいになるのだ、きっと。


 じっと首を傾けていると中から緑の妖精王が現れた。


 背後に大勢の妖精たちを引き連れて。


「妖精王様。実は」


「言わなくてよい、エリル。事情は知っている。この地上で起きていることで、わたしにわからないことはない」


 ギクリとカイが青ざめる。


 それはカイがどうやってサタンに迫られ、どうやって落とされたか知っているということだろうか?


「心配しなくてもサタンの結界の中までは覗けない。相手は悪魔王サタン。如何にわたしと言えども結界の中を覗き込むことなど不可能だ」


「……もしかして妖精王ってお人が悪いですか?」


「なんのことやらわからぬな。純粋にそなたの心配事を取り除いただけのつもりだが?」


 純粋にカイの心境を気遣ってくれたらしい妖精王に、カイは「ああ。この人はただ天然なだけなんだ」と理解した。


 深い意味は込めていないのだ。


 そこまで人は悪くない。


 だが、無意識だからこそタチが悪いということもある。


 カイがなにを気に病んだか指摘することで妖精たちは苦い顔になっている。


 それはカイがサタンになにかされたことを暗示する言葉だったので。


「刻印についてだが、さすがにわたしでは消すことは不可能だ」


「そう……ですか」


「だが、隠すことはできる。人の目に見えなくすることなら可能だ」


「え?」


 見えないようにできる?


 それは唯一の救いに思えた。


 刻印を消せないのは痛いがエリルにも言ったように、これはカイの落ち度だから、できないことで妖精王を責めたりしない。


 むしろ隠せると言ってくれただけ有り難かった。


「ただわたしの力で見えないように術を施すわけだから、ルナには気付かれる可能性がある」


 ルナには隠せない?


「ルナはわたしの血を引いている。それだけに術を見破りやすいのだ。それに他にも危惧すべき点がある」


「なんですか?」


「勘の良い人間なら見える可能性があるという点と、そなたと波長の合う者なら見破る危険性があるということだ」


「勘がいいというのはなんとなく想像できますが。波長が合うって?」


「例えば親子として深い血と絆で結ばれている皇帝スタイン。深く繋がっているが故に波長も合う。最悪の場合だと術を見破ってしまう可能性がある」


 それでは隠したい相手には隠せないという意味になる。


 思わずカイは苦い顔になったが、世継ぎであり騎士王であるカイが、サタンにそういう刻印を施されたという現実をその他大勢に伏せることができるだけ、まだマシなのかもしれない。


 そんなことになったら不穏分子を勢い付かせて、カイは余計に危険な目に遭うだろうから。


「それでも術を施されることを望むか?」


「望みます。気付かれない可能性も無ではないのなら、それに賭けてみたいし、なによりもその他大勢に伏せることができるなら、その方がいいだろうから。気付かれても他の者に見えていなければ、ルナ以外なら誤魔化せるかもしれないし」


 気掛かりな点は幾つもあるが、カイは妖精王の問いにそう答えた。


 答えを聞いて妖精王が近付いてくる。


 そうしてエリルに抱かれているカイの首筋にその手を当てた。


 暖かいなにかが注がれているのがわかる。


 やがてずっとあったチリチリと焼けつくような感覚が消えた。


 どうやら術を施し終えたらしい。


「それからエリル」


「はい?」


「騎士王の後遺症のことも知っている。よければこれを使いなさい」


 そう言って妖精王が背後を振り返ると、ひとりの妖精のが薬草の入った袋を差し出した。


 カイを抱いているので、それを腰に結んでもらったエリルは妖精王に感謝の言葉を投げる。


「ありがとうございます」


「できるかぎり早く治るように、こちらにできる最善は尽くした。後は騎士王」


「はい?」


「おかしいと感じたことは自己完結せずに、きちんと打ち明けるように」


「……はい」


 小さくなって俯くカイに妖精王は苦笑している。


「全く。そのひとりで勝手に納得して、ひとりで勝手に判断を下す無謀な一面は直さないと早死にするぞ」


「気を付けます」


「そうしてほしい。ルナのためにも」


 どうしてルナのためになのか、それを問いかけようとしたが、次の瞬間には緑の森は見えなくなっていた。


 元の場所に戻っていたのである。


「緑の森って不思議なところだなあ」


「その森に無断で立ち入ったあなたの方が、わたしたちにしてみれば不思議ですよ」


 呆れたようなエリルの声にカイは答える言葉がなかった。

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