第2話

風に手を上げて、駆け回っていれば世界はさまざまに変化して、そのあまりの忙しさに、私はよく目を回した。そしてネジの切れた人形よろしく、唐突に止まっては倒れた。真後ろに、何も受け止めてくれるものなどないと知っていても。だから頭に何度も瘤を作った。時には小石で少し切ってしまうこともあった。


夜、母がお風呂に入れてくれていたころは、それに気付いて、今更なお呪いを唱えてくれたりした。

湿った視界の中で、母はとても柔らかな線を持っていた。私はその柔らかさに安らぎを感じながら、その反面怯えてもいた。

父の持っている頑なさが、母のこの柔らかさを傷付けるのではないかと。

大きな凶暴性ではない。父の、それはまるで、小さな細い針に覆われたような性質が故に。その弱弱しい尖りで、傷ついたからと言って被害者を名乗るなと、前もって言っているような、父。それは私への言葉で、けして母に対して向けられたものではないと分かるまでの、幼い頃の私の、心配の一つだった。


瘤をたくさん作ってきた私の頭は、とても歪な形になり、珍しく私の頭を撫でた父は、それは気味の悪そうな顔をした。それから父が、私の頭を触ったことはない。


小学校にあがって、私はより不自由を感じるようになった。

大きな教室は、机と椅子でわざとらしく整えられていて、そこで座る席は名前順で、私は手鳥千五火という、記号のついた一人に押し込められた。


先生は、話をしているときは静かに席に座っていなければいけない、というのに、ノートを開いて色鉛筆を走らせ始めると、それも取り上げた。

静かにしていたのに。そう反感を持った。

話したければ話していればいい、私は静かにしていたのに、と。

そして私は、席を蹴って窓から逃げ出した。

それはまさに逃走だった。

木の影や銅像の下の茂み、日当たりの悪い裏庭の隅っこ、人目につかなさそうな場所に、小さな体を滑り込ませては、本気で逃げた。

そんな私に風は、愉快そうに吹きまわった。


そのうち先生は私を探すのを諦め、そして母が呼び出された。

母はどんな思考の持ち主なのか、私をいつでもぴたりと見つけ出した。


「はい、ちーちゃん」


じっといていることに飽きてきて、眠気と戦っている私の肩に静かに手を置いて、母は笑った。そこには怒りや困惑は欠片もなく、かくれんぼの鬼の勝利を思わせる笑顔だった。 

母は言った。


「さぁ、見つかったちーちゃんは教室で勉強をするのよ。きちんと先生の話を聞いて、家に帰ったらお母さんにお話ししてちょうだい。いい?さぼっちゃダメ。だって、ちーちゃんが隠れて、お母さんが見つけたんだから」


その説得はとても効果的だった。

私は頷き、その後の授業は朝の姿が嘘だったかのように、静かに、まじめに話を聞いた。


最初はうんざりしていた先生とは、そのうち仲良くなった。

全ては母が、ゆっくりと手を引いて、歩き方を教えてくれたからだ。

母は、私を先生の手へ受け渡すとき、一度だけ先生に頭を下げて、私の頭を撫でて笑った。そして颯爽と帰っていく。媚びや避難は何一つこぼさずに、母は来た時と同じくらい、鮮やかに背中をさらす。真っすぐなその線を見送って、私と先生は来客用の玄関を連れ立って歩きだした。


「ふしぎな人ね」


先生は、口にしたことも気付かなかったようだった。

肩で揃えられた若い髪の毛は、少しだけ明るく光を弾く。強気なピンクの口紅は剥げかけていたが、そんなものなくとも、彼女は十分健康的で美しい女性だった。

細っこい手のひらは冷たかった。

母を気に入ったらしいこの人と、私は仲良くなれるかもしれない。

そんなことを、教室にもどるまでに考えていた。




色鉛筆を、鉛筆のように持つことができないことに、私は気が付いていなかった。それを指摘したのは野中が初めてだった。

全くの遠慮のない声で、親しくなり始めたばかりの短い休憩時間に。


「どうして色鉛筆絵を握って描くの」


どうして。その問いがよく分からなかった私は、呆けたようにその声を見上げた。


「子供の握るフォークみたいね」


「ああ」


やっとわかった。ただそれだけの返答に、彼女は笑った。

ーあなたって、本当は私たちと少しずれた時間軸の上に立っていたりするの?

そう言いながら、野中は前のクラスメイトの椅子に、断りもなく座った。

横向きに足を放り出して。


「私は別に変ってない」


「変わってるわ」


「それはあなたが、私をそういう風に見たいからだ。私はあなたを変わってるなんて思わない。共通項の少ないことは希少性とは関係ない」


「みんな違って、みんないいってこと?」


「いいかどうかは分からない。でも、たぶん近いことが言いたいんだと思う」


 野中は、また色鉛筆を握りしめて線を走らせ始めた私を見て、ふうん、と息を吐いた。


「私、あなたが好きだと思う」


光が落ちてきたのかと勘違いをした。それくらい、彼女は堂々としていた。傷ひとつない頬が、その滑らかさで光を弾く。鮮やかな髪の一本一本が、それぞれに声を持っているようだった。幾重にも重なった、重たい声。それは真実を含んだ声だった。私が欲した真実。


「私も」


走り始めた線は、勢いを増して走っていた。

緑、オレンジ、黄色。

ぴんく、茶色は少し短く持って。

円になるように、指に抱きしめられた色たち。

それは単調な音を吐き出しながら走り続ける。

明るくなっていく白。それは少しづつ黒を近づけていく。


彼女は、私の言葉がきちんとその姿をすべて曝け出されるように、目でそっとその先っちょを引いた。


「私、あなたのこと好きよ」


「そうね、そうだと思ってた」


頭の上でチャイムが鳴る。

時間に溝を作る大きな音。

粘土に差し込まれる、プラスチックのナイフのように。鈍く、それでも誰もの身内に残る、鈍い傷跡になれるように。訓練をしてきたような正確さだ。


「行かなきゃ」


「うん」


「次の休み時間は」


彼女の前に少年が立つ。

彼の席なので、少し迷惑そうな顔をしている。

けれどその内心は、野中に話かけるきっかけを見つけられたことを喜んでいる。持ち上がりそうになる口角を、わざと引き下げて彼女を見下ろしている。

意気地なし。

私が男なら、きっと軽々と彼女の視線を横取りしただろう。


「私にちょうだいね」


彼女は、それを少年の方に向かって言った。彼は少なからず動揺し、そして言葉を探しているうちに、彼女に微笑みかけられ席を返されていた。

ああ、とか、いいよ、とかもごもごと口の中で消費された音は、ゆっくりと彼の喉の奥へ帰っていった。


野中は一度私を振り返り、自分の席へと帰っていく。

彼女を待っていたクラスメイトに言葉をかける。そして小さな声で笑って席へ着く。

その白い制服の背中が、焼けてしまいそうなほど私は見つめていた。

残った焦げ跡が臭うほど。彼女を見ていた。




色鉛筆。それを握らせてくれたのは、父だった。

公園も、家の庭も、すべて取り上げられた私への、彼からの唯一の心配りだった。

白い画用紙。色とりどりの、けれど危なくないようにと、少しだけ先が丸くなった色鉛筆。

それを最初に握らせてくれた。

私が色鉛筆を握り、その上から父は手を被せて、そっと線を描いてくれた。緑の、どうしてその色を最初に選んだのか。

答えはたぶん何となくだ。

それでも、私の手の中から描かれたその柔らかな曲線が、私には鮮明すぎて言葉を失うほど感動した。

それは私にとって風の形だった。

私が常にそばに感じる自由で、ささやかで、豊かなものの先触れのような、かれら。

それが目にみえる形に置き換えられた。

それも、それを与えてくれたのが父だということ。

幾重にも重なった喜びは、すぐに他の色ではどんなものになるのかと、探求心へと変わった。

十二色。そのどれもを握っては、力を込めて走らせた。

しゃっと鳴った先に、私の心は躍った。

紙をいくつもの色の線で埋めていく私を、父は満足そうに見ていた。

これで何かが変わればいい。そう願っていたかもしれない。

もしかしたら、それは僅かな確信を父へ埋めたかもしれない。

私が、父の理解の中に帰ってくる日を、描いてみたかもしれない。

父は、しばらくたっても線を重ねるだけの私に呆れて、こうやって他の物を描くのだと、手を包み込んで書いてみてくれた。

けれど、私がそれをなぞることはなかった。

色鉛筆の線は重なっていく。

そのたびに父の中に、小さく苛立ちが点るようになるのはすぐのこと。

そしていつかの夢想は、小さな火を業火へと変えた。

油の染みた紙のように、舐める速さは走るペン先を飲み込む速さだった。



母は、リビングで転がっている私を見て笑った。

困ったような、諦めたような。

けれどその表情が何を語ったのか、私は後から理解する。

理解が追いつくまで鮮明に残るほど、その母の笑い方は深かった。

夕日に白い買い物袋が染まっていた。

それは母の白い肌を、同じように染めようとしていたが、母の頬は頑としてそれを拒んでいた。

黒目が大きく、瞳の力の強い母。

黒い髪は、結んでいても弾けんばかりに艶めいて、美しかった。



力なく転がっていた私を、母は抱えて走った。

近くの病院に飛び込んで私を預けると、事情を聴こうとする看護師の顔を真っすぐに見つめて「すぐに戻ります」と言った。

持ってきていた、母のいつも持っている手提げ袋をその人に両手で預けた。そしてベッドに寝かされたまま、ぐったりと動かない私を見た。

唇が、やけにゆっくり動いた。

赤い口紅は引かれたばかりで、それはくっきりとした線だった。

あの最初の一線のように。

そういえば赤はあまり使わなかったな、と私は暢気に考えていた。


「痛いのは飛んで行ってくれないけど、お母さんは飛んで帰ってくるよ。千五火のところまで」


私は動かない唇で、笑ったかもしれない。

記憶には、視覚での記録しか残っていない。

けれど、私ならそうするだろうと思う。

今の私であっても、私であるなら同じ笑い方をするだろう。

母はほっと息を吐いて、言葉に嘘偽りなく駆け出して行った。

あまりの勢いに、廊下で幾人かが声を上げていたのを覚えている。 


「お父さん、って、じゃあ今は会ったりしてないの?」


玉子焼きを箸に持ったまま、野中は聞いた。

昼休み。私たちが、友人になってもうしばらく経っていた。

そして教室の中の、喧噪にそっと沈みながらの昼食中。

母が握ってくれた、みっつのお結びを口にいっぱい頬張りながら、私は首を横に振った。

野中は、大きな一口に手間取りながら首を傾げた。


「ちーちゃんに暴力を振るったひとと、まだ会ったりしてるの?」


「いっしょに住んでるよ」


「だれと?」


「暴力を振るったひとと」


野中の目は丸い。それが余計に丸まる。

きれいな太陽の周りにできた円形の虹のような丸。

梅の種をラップに吐き出しながら、私は今の家の構成を話す。


「お母さんは、お父さんと籍を抜いたけど、いっしょに暮らすのは解消しなかったの。その代わり、私のことを血のつながった娘だとは思わないように書類を書かせたんだって。他人に暴力を振るうような器じゃないでしょって。だからその日から私は父親のことを名前で呼んでる。父親も、私をさん付けで呼んでる」


「それから殴られたことは?」


「ないよ」


静かに次の一個をラップから取り出す。

湿った海苔の香りと、中に押し込めたおかかの匂いが広がる。

料理の苦手な母の、数少ない得意料理だ。

母はおにぎりを作るとき、丁寧に具を作る。

炊き立てのご飯を使って、それは作られる。

いくら仕事で疲れていても、朝は私よりも早く起きて、これを作ってくれている。

母は私と自分の分しか料理をしない。

時々、大鍋で作るような料理を父に振る舞うくらいだ。私は父の好物を知らない。


ほとんどを会社ですごし、それでも私と母の家に彼は帰ってくる。

料理も用意されていない暗い家に、彼は昔からの鍵で入り、黙ってシャワーを浴びて、一人だけの部屋で眠りにつく。

同居人という言葉がしっくりくる。

母はいったい、どういう言葉でこの状況を受け入れさせたのか。

あの深い笑顔。

細い足首を最初に見た。父が戻ってきたのではないと、分かってほっとした。

あの日。

突然に始まった暴力に、私は持っていた色鉛筆を強く握って堪えた。

顔を中心に、父は容赦なく拳を叩きつけた。

歯が折れ、鼻からも口からも血の味がした。

嫌な音がいくつも耳の中で鳴った。

そのうちそれも遠退いた。

目を開けられたのが不思議なくらい、私は殴られた。

そしてその暴力は唐突に終わり、父は揺れるようにリビングから出ていった。

父の背中の頼りなさ。あの時までは、しっかりと父という地続きだった人のだったものが、まるで沈没を知った船のようだった。

ドアが閉まったことは、フローリングに広がった振動で知った。

あの時私は、このまま死ぬのかもしれないと思った。

父は私を、確実に殺す方法を探しに行ったのかもしれない。

そうだとしたら、どうかこれよりも痛くない方法でお願いしたい。

そんなことを、頭に浮かべていた。


あの時は母は、深く笑ったそこにあった感情は、今知っている言葉に置き換えるなら、腹を括った、だろう。


父を切り離す。その決意が瞳を零れて頬を伝った。

唇にたまっては、その口内にも満ちた。

そうして笑ったのだ。壮絶な焔のなかにいるような赤。

リビングをその手で撫でまわす、純真で残酷な老熟の光。

母はけして膝をつかなかった。

私に、謝罪や慰めを口にすることもなかった。

そのかわり、諦めろとも言わなかったのだ。


母は。


「ちーちゃんは、お父さんのこと恨んでる?」


「そうだね」


あっさりと声は出た。

塩のよくきいたおにぎりが、口の中で自由になる。

握って強く吸着しあっていたものが、解かれる。

なんど食べても、この感覚を追いかけるたびに、不思議な気持ちになる。

これは私が、辿った日々の姿に似ている。

それが私の体の一部に溶けていく。


「でも、視界をつぶす恨み方じゃないから」


「それは安心」


小さなお弁当箱の中、野中はミニトマトを口に放り込んだ。

噛み潰すおとが、頬の肉の内側に吸収される。



握りしめていた色鉛筆。

それを私はなかなか離さなかったらしい。

看護師さんや先生が、手を変え品を変えして気を逸らし、抜き取ったときいた。

どれほど握っていたのか、どれほどの力で握っていたのか、色鉛筆は無残にも半分より少し上で、真っ二つに割れていた。 

それは父の持たせてくれた緑だった。

私は確信する。こころは支えを見つけると、欲望に勝てなくなる。

もっと構って、一人にしないで。そんな声が自分からも、漏れていたのかもしれない。


「あの人は、もう名前まで奪われた存在なんだ」


「それが罰になるくらいには、愛のあった家族だった?」


野中の問いかけに、私は首を傾げた。

口の中の柔らかい米の甘さ。唇に残る海苔の旨味。


「そうだと、思う」


「よかった」


野中は笑った。

頬張ったミートボールが彼女の頬を膨らませる。

それがあまりに柔らかな光景で、私は自分の内側の壁に、その線をなぞっていた。

彼女がいる景色が、光が、私にとって価値のあるものであると気付いた。

それが希望だとは思わない。今も。

けれど絶望の匂いもしなかったのだ。

彼女からは、けしてそんな匂いはしなかった。

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