ワタシという風

とし総子

第1話

擬人法という文章の技法がある。

命のないものが生きているかのように語ったり、思考の異なるものを人間が考えるように語らせてみたり。その表現の一つに、風が歌っている、というものがある。しかし、私にとってこの例題は正しくない。何故なら風は歌うのだから。

それはもう調子よく、高らかに、空にてっぺんがあるのなら、そこにハイタッチをして笑いながら帰ってくるような歌声。

ああ、これが擬人法の正しい使い方かもしれない。とにかく私にとって風は無色透明の無言のエネルギーではない。風は生きている。



他の人には、風は横を過ぎるだけのものだと知ったのはいくつの時だったか。

それはかなり幼い頃のことだった。公園で、家の庭で、風を相手に笑いながら駆け回っていた私をみて母親は面白がった。けれど父は気味悪がった。

一緒に公園に行っても、私が遊具から離れようとすると睨みつけて動きを縛った。子供を連れてきている他のお母さん方や、散歩中のおじいさんたちに不思議そうに見られると、父は余計に厳しい目をした。

家では庭に出ることも取り上げられた。回す形の鍵の、ずっと上の方に二つも新しい鍵を付けられ、父を睨むわけにはいかない私は、その鍵をねめつけずにはいられなかった。

それは母が用事でいない日曜日のことに限られた。それでも子供の体にとって、月に一回あるかないかのそんな日曜日は長かった。風の声が、窓を震わせて届くたびに、悲しくなった。



不満な私に風は笑いながら教えてくれた。

お前の父親とは話さない、と。母とは話すのかと問えば、母親とも話さない、とこたえた。それでは二人の反応の違いがおかしいではないかと、つねるように口にすれば、可笑しそうに小さな竜巻を起こした。それは数枚の木の葉を巻き上げて、空へ消えていった。

聞こえるのも話せるのも少しだけ、お前は少しだけ。

風はそう耳に吹きかけた。

私だけ。

違う少しだけ。

他にもいるの。

少しだけ。

話せる人がいるのね。

少しだけ。

風は少しだけ、を繰り返した。私の耳たぶでいつまでもそれが揺れているように。私は、少しだけだった。

それは少し残念で、しかし何より腑に落ちた。父は少しだけが怖いのだと。母はそれを面白がる性質なのだと。私が好きとか、嫌いではない。いいも悪いもなかったのだと喉に通した。永い間、喉を塞いでいたあれやこれやの可能性が、静かに私へ消えていった。


私は少しだけ。風はそれが嬉しそうで、それならばいいと思った。風は、私にとって_




「ちいかちゃん、緑の色鉛筆は?」


部屋の真ん中の大きな机の上。散らかった部屋を野中は自由に動く。画用紙にいつまでも向かっている私のまわりをせっせと片付けながら、野中は聞いた。


「知らない」


「またぁ」


野中の、どこか諦めたような、呆れたような声が、こめかみの横に落ちていた髪を僅か揺らす。彼女のため息はあさい。オレンジの色鉛筆を握っていた私は、その親指と人差し指の肌に、影が揺れるのを眺めた。


「ママさん、怒らないの?」


「なんで」


「この二年になって色鉛筆、それも緑ばっかり何本目?」


「…知らない」


「うそ。三本目なの覚えてるくせに」


 野中は今度は可笑しそうに笑いながら片付いた机の片隅に手を置いた。白い手だ。


私は彼女のこの手が、とても好きだ。最初に見つけたのも、この手だった。


中学の二年に上がってすぐのこと、私はやっぱり今日みたいに絵を描いていた。周りは、休み時間らしい間の抜けた喧噪が走り回り、私はそれに身を浸しながら、けして浮き上がったりはしない重さを保って、色鉛筆を動かしていた。


「落ちていくよ」


そう言った声は涼やかで、それに反した重たい意味に手が止まった。

そして私が顔を上げるより早く、一本の色鉛筆が私の手の甲にそっと駆け寄ってきた。その方向には白い手があった。

細長い指、爪には甘そうな薄紅が引かれ、ささやかに午後に向かう膨れた光の粒子を弾いていた。

「ねぇ」

滑らかな手は、水辺の石にある、よく磨かれたまろみの形。そっと顔を上げた私に、野中は笑った。


「ねぇ、色鉛筆、ちゃんとしまっておかないと、みんな落ちて行っちゃうわよ」


「あぁ」


「変な返事」


「ありがとう」


「どういたしまして」


私を見る野中の瞳には、その時クラスメイトとしての私が映っていた。興味の分散された、均一の名前が浅く彫られていた。新野千五火。


「ねぇ、名前、なんて読むの?」


「ちいか」


「どんな意味」


「お母さんの陣痛が続いた時間」


「千五時間?」


「違う。千は例えなんだ。それくらい長かった気がするっていうことを覚えていたかったって。実際は五時間くらい。それで私は生まれた。火が付いたみたいに泣くっていうけど、私は本当に大きな声で泣いたんだって。だから千時間くらいかと思う、実際は五時間の陣痛でこの世に生まれて火を付けられたんじゃないかって驚くほどの声を出した子って意味」 


一息に語った私の名前の由来に、野中は茫然とした。

ああ、つまらなかっただろうか。

そう思って、長い話を謝ろうとした私の机の端に、彼女は両手を添えてそこへ自身の小さな顎を乗せた。近づいて、見下ろす形となった彼女の眼には、小さな光が揺れていた。かすかに灰色に触れる。まつ毛も同じ色をして揺れていた。軽い曲線を揃えた、賢そうなまつ毛。きっちりとした同じ太さに揃えられた眉も、前髪の合間に見えていた。

この子はなんて可愛い女の子なんだろう、と感心した。

ほんのりと光沢を塗った唇が幼く広がる。


「私の名前、名井笛野中。名前の名、井戸の井、楽器の笛でないふえ。野原の中でのなか。お母さんが私を産む時、あんまり痛くって、長くってうっかり気絶しちゃって、それに気付いた看護師さんに叩き起こされたんだけど、その短い気絶の間に夢を見たんだって。きれいな金色の野原の中、濃紺の宇宙を見上げて立ってたって。その対比があんまりに美しくって覚えていたくて、私の名前にその内容を入れたんだって。だから野中。私たち、お母さんの感動を名前にもらったのね」


野中はそう言ってすっくと立ちあがった。

何も言わず、手も降らず、微笑みを僅かに深くして自分の席へと戻っていった。

その様子を見つめる私の耳に予冷が響いた。喧噪がゆっくりと引いていく。私の周りにただ一つ、野中の言葉が回った。


_私たち、お母さんの感動を名前にもらったのね_。


それは私にしみ込んで、そして深くから私自身の感情の波を呼んで昇ってきた。涙が止める間もなく、片目からこぼれた。驚きに拭ったそれは、いつもより熱い涙で、私は混乱しながらも確信した。彼女と私は、それはもう親しくなるだろう。いや、もう親しくなってしまったのだ。魂の一部を交換したような。そんな関係に。


それは私の勘違いではなく、野中の中でも同じような感想を持ったと、あとで知った。それから私と野中は友達だ。たった一人居ればいい種類の、友達。




風が思わせぶりに野中のスカートの裾を揺らす。

プリーツが細やかな山を、低く細く作って広がる。花の蕾が広がるようなそれを、そっと手で押さえる野中は笑いながら振り返った。


「やっぱりここは気持ちいいね」


「風が野中の周りにいるからだよ」


「ほんとう?」


そう言ってくるりと回って見せる、野中の白い膝頭。その上の柔らかそうな太腿のはじまりも。それを見てから目を反らす私は、ずるい。少しだけ。本当に少しだけ。

何故なら恋をする人間の、誰もがどこかで打算を抱える。清廉潔白に恋などできるはずがない。人間を相手にして、そんなことは。


できるとするならそれは神様が人と恋をするときだけだ。一方的な真上の、注ぐことだけを許されている存在。


学校の屋上での、壊れた鍵を受け継いできた生徒だけの特権的な休憩時間。野中は私をそこへ誘ってくれた。それが当然だと笑った。風が彼女の手をそっと浮かび上がらせる。ダンスに誘う様に。


「ちいかちゃんといると、本当に風に困らない」


「風って困ったり満足したりするもの?」


「さぁ。だけど、吹かなければ待ってしまうものじゃない?」


「そういうものかな」


「そうよ。みんなが待っているのに、風はあなたのそばにいつもいるのね」


「いつもじゃない」


「あら、でも呼べばすぐ吹いてくれるじゃない」


「それは、そうだけど」


 小さな唇を引き上げて野中は笑った。


長いわけではない彼女のスカートを、自らの手で短く持ち上げて、観衆達への挨拶のように膝をかすかに折った。


「あなたは風と通じている。それはなんだか異性交遊みたいね」


ほんの少し悪い顔を浮かべて、かるく片目をつむって見せる。

野中に、私は反対の目を眇めた。

私たちは双子のように一緒にいた。

長い昼休み。私たちの短い昼休みは、ここでいくつも終わってきた。


緑の禿げたフェンスに頭を預け、開いて放り出した足に、風が呆れたようにまとわりついて離れる。それは一瞬で、次の瞬間には頬から耳の後ろへと、指の腹で撫でつけるように強い力でなぞった。

髪の毛はいつも、短く耳で揃えている。私の太く黒い一本一本を楽しむように、掻き上げる。

風は確かに私のそばにいつもいた。そしていつも、どこかに触れては満足そうな心地を置いていく。それが振り払えない理由であり、愛情のようなそれを、私は確かに欲していたのだ。


「もうすぐ予冷が鳴る」


「相変わらず正確な時計だね、野中は」


ふふ、と口を開けずに笑った野中は、大きく腕を伸ばして頭の上で大きな楕円を作った。

その中を勢いよく一陣の風が走る。

私へとなだれ込んできて、彼女のしっとりとした体臭を鼻孔へ押し込む。そして入りきらなかったものは、私の肌へすりこむように、強く押すように吹くのだった。


_彼女が好きだ_


「さぁ、戻ろう?」


私とは反対に、鮮やかに長い野中の髪の毛が、肩から零れ落ちる。

差し伸べられた手を、一秒よりも短く悩んで、眺めて取った。

あたたかいそこに迎え入れられて、私はどこかほっとする。そしてその安堵に、僅かに体は重くなった。悲しみとは違う。私だけが彼女から与えてもらえる感情の種。それを今も、そっと胸の内の一番重要な器官の裏へと、隠す。


「ありがと」


 予冷がうるさくあたりを震えさせる。


「どういたしまして」


立ち上がった私から、離される野中の手を、指先が無意識に追いかけた。

意識の檻が、その動きを禁じた。離れて、その指の間を風が走り抜けていく。


「このあとの授業は寝てしまうね」


「うん」


応えながら歩いていく扉へ、永遠に閉じていてくれればいいのにと考える。けれど、もしそうなったら、きっと野中は落ちてしまうだろう。私と、ではなく一人で。心根ではなく体が。


彼女は素直に束縛と決定を嫌う。


私には彼女の方が、風というものの性質と相性のいい魂なのではないか、と思っている。


「これが一年生の時なら、完全に遅刻ね」 


「そうしたら、もう少しここでいられるのに」


野中は短く首から上で私を振り返る。長い髪の毛が躍る。そのつやの中で光が回る。風が、そのすべてを包んで消える。


「いつまでもいられる場所なんて、まだいらないわ。私たちには」


そうでしょ。その言葉には問いかけは含まれていない。

そうだよ。

掛けられなかった言葉に、私は一人で問い返す。


それはいつまで?


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