牙人症候群患者の手記

八百十三

第1話

隆和りゅうわ8年3月28日 18:52

 山田先生から、今日から毎日パソコンで日記をつけるように言われた。

 「牙人症候群がじんしょうこうぐん」の急性症状が落ち着き、今後は緩やかに症状が進行していくという話だ。

 歯が変形して鋭くなるということと、生肉を食べたくなること以外、まだまだこの病気には分かっていないことが多い。

 俺が手記をつけて記録に残すことで、この病気の解明に役立てたいということらしい。

 なんか実験動物みたいな扱いで嫌な感じだが、かかった殆どの患者が急性症状の期間に死んでいる以上、それを乗り越えた俺は貴重なサンプルということだろう。

 仕方がないが、言われた通りに記録を取る。手記は書き終わったら山田先生が確認し、明日になったらまた書く仕組みだそうだ。


 氏名、阿部あべ悠馬ゆうま

 年齢、31歳。

 生年月日、晃星こうせい19年6月2日。

 出身地、東京都西東京市。


 なんでこんな個人情報を日記に書かないといけないんだ、と思ったが、「今後何があるか分からないから」ということらしい。

 なんでそんな病気にかかってしまったんだ。いったい俺の身体に何が起こるんだ。わけが分からない。怖い。


 今日は山田先生との面談と病室の使い方の説明。パソコンはあるし、インターネットにもつながるけれど、SNSなどにはつながらないらしい。そりゃそうだ。

 今までは点滴を繋がれていたが、今日からは経口食だ。夕食はお粥と鶏ささみ、野菜のスープ。食べごたえこそ無いがそこそこ美味しかった。




隆和8年3月29日 19:29

 今日は山田先生と面談。「牙人症候群」にかかった経緯を聞かれた。

 と言われても、経緯なんて俺が知りたい。急に歯が痛くなって歯医者に行ったら、俺の口の中を見た受付の人がぎょっとして、すぐに先生からの紹介状を受け取ってこっちの病院に回されたのだ。そうしたら診察中に強烈な腹痛を感じて意識を失ったのである。

 山田先生いわく、俺の胃腸は既に生肉に対応する形に組み変わっているらしい。今後は徐々に、食事の肉を生肉に置き換えていくとのこと。

 今は俺は歯が尖って、生肉を食べられるだけの人間だが、今後はどうなっていくんだろうか。

 朝食はお粥と納豆、小松菜の味噌汁。昼食は牛肉のタルタルステーキを使ったサンドイッチ、夕食はお粥、軽く湯通しした牛肉のサラダ、コンソメスープ。味噌汁が美味いとやっぱり嬉しい。




隆和8年3月31日 8:11

 朝起きたら腕と脚が全体的に痛かった。何事かと見てみたら、手足の形が変わっている。うっすらと、産毛ではない毛も生えていた。

 そう言えば噂で聞いたことがある。「牙人症候群」にかかり、急性症状を過ぎても死ななかった人は、「牙人がじん」と呼ばれる生き物に変わっていくのだと。

 俺もそうなるのだろうか。怖い。

 手足は痛いが腹は減る。肉が食いたい。




隆和8年3月31日 18:45

 腕と脚の痛みが落ち着いて、ようやく自分の体をちゃんと見られるようになってきた。

 手の指が伸びて爪が尖っている。脚はつま先が尖ったような感じで、かかとを浮かさないとバランスを保って立てなくなった。変な感じがするが、そうしないと後ろに倒れるからしょうがない。

 そして昼頃になってようやく、頭の中でざわざわと声がすることに気がついた。何を言っているのかは分からない。日本語には少なくとも聞こえない。

 山田先生に「なんか今朝から頭の中でわにゃわにゃ声がするんです」と話したら、すごく眉間にシワを寄せられた。なんなんだ。声は絶えず聞こえる。

 先生によると、「牙人化が進行している」「これまでの患者もそうだった」と言っていた。

 朝食は鶏むね肉。昼食はなし。夕食は生ハムとベーコン。




隆和8年4月1日 5:57

 頭の中で絶えず声がするものだから、ぐっすりと眠れなくて起きてしまった。寝付けない。

 ぼんやりしながらベッドの上で座っていると、一瞬だけ、頭の中の声ではっきり聞き取れるものがあった。

 次の瞬間に頭全体が割れるように痛んだ。

 5分ぐらい、痛くて痛くて仕方がなくて、ベッドに倒れ込んで叫んでいたと思う。

 山田先生が駆けつけて、俺を起こして鏡を見せてくれた。

 顔の形が変わって、オオカミみたいになっていた。毛の生えていないオオカミ。

 山田先生が「牙人化の最終段階に入った」と言ったのを聞いた。先生によると、腕や脚に生えた毛がこれから全身に回って、俺の身体は毛で覆われてケモノのようになるらしい。

 怖い。俺が俺でなくなっていく。


 それと、一瞬だけ聞き取れた頭の中の言葉を、忘れないうちに書いておく。


 ティキ。




隆和8年4月3日 12:51

 全身の毛が今朝に生え揃った。長さがバラバラだったので山田先生が病室にトリマーを呼んでくれて、俺の全身の毛を整えてくれた。

 「だいぶかっこいい見た目になりましたね」と言われたのが、なんだか嬉しく思った。尻尾はない。その方がいい。


 頭の中の声は以前よりも、明らかにはっきりと聞き取れるようになってきた。

 ティキ・ラニエウという人名。

 牙人の王という単語。

 人類の進化を促すという言葉。


 どうやら俺がこうなったのには、何か意味があるらしい。

 ティキ・ラニエウとは誰のことだ。山田先生にも聞いたが、聞いたことがないと言われた。

 朝食はスペアリブ。肋骨をかじる感触が気持ちよくて、しばらく噛んでいた。




隆和8年4月3日 19:45

 夕食は牛のロース肉。美味かった。牛肉は美味い。




隆和8年4月3日 23:39

 頭の中で響く声にも慣れてきて、少しうとうとしていたら、ベッドに誰かがいるような気がして目が覚めた。

 誰もいなかった。

 俺だけがベッドに寝ていた。

 いや、違った。ベッドに寝ている俺を、俺が見下ろしているのだ。

 幽体離脱したのか、と思ったけれど、原因が思い当たらない。

 俺が目をゆっくり見開いた。

 目が金色をしていた。

 あの目には覚えがある。ティキの目の色だ。




隆和8年4月4日 10:27

 オレの目の色を見たヤマダセンセイが、オレに聞いてきた。

 「あなたはだれですか?」


 オレは答えられなかった。

 オレは誰だ。

 分からない。

 わからない。

 ワカラナイ。


 ふと俺を抱きしめる手を感じた。

 ヤマダセンセイかと思ったけれどそうじゃなかった。

 あれは、ユウマの手だったと思う。




隆和8年4月4日 18:37

 今日は夕食がないらしい。

 オレが腹を減らしてベッドで横たわっていると、ヤマダセンセイがやってきてオレに首輪と手錠を付けた。

 そのまま、棒を持ったニンゲンと一緒に外に出されて、向かった先は病院の地下だった。そこには庭があって、たくさんの部屋があった。

 部屋の中にはオレみたいな牙人が閉じ込められていた。部屋の中からは血のニオイがした。


 一番奥の部屋に連れて行かれた俺は、あるものを見た。

 ニンゲンだ。裸にされた傷だらけの男が、床に横たわっている。

 驚いているオレに、ヤマダセンセイが「それは食べてもいい」と言ってきた。

 俺はますます驚いたが、血のニオイが頭にこびりついて離れない。

 腹も減った。

 目の前のニンゲンを食べてもいい、とヤマダセンセイは言ってくれた。


 だが、オレはどうしてもそれを食べたいと思えなかった。


 男の身体の血を舐め取った。美味しい。

 傷口を舐めて血を吸い出した。男が叫んだ。美味しい。

 でも、たくさんはいらなかった。


 オレの様子を見ていた棒を持ったニンゲンが、驚いた声を上げていた。

 オレの様子を見ていたヤマダセンセイが、オレの頭を撫でてくれた。

 「いい子ですね」と言ってくれた。

 嬉しくて、尻尾が生えていたら振ってしまいそうだった。

 喉が鳴った。




隆和8年4月17日 12:46

 オレはティキ・ラニエウ・アールバリル・オロ。

 地下の部屋の暮らしにもだいぶ慣れた。

 パソコンは変わらず使わせてくれるし、手記も書かせてくれる。たくさん手記を書くと褒めてくれるから頑張っている。


 他の部屋の牙人たちと話をすることもあるが、あいつらはあんまりセンセイやニンゲンと話をしないらしい。「ニンゲンは食い物だ」と言っていたから、きっとそれがあいつらの普通なんだろう。


 ユウマの気配はちっとも感じなくなった。昨日までは寝ている時にオレを見下ろしている視線があったのに。どこかに行ってしまった。

 それと、最近になって紙のノートとエンピツを渡された。なんでも、ヤマダセンセイたちが牙人の言葉の研究に使うらしい。そのためにオレに、牙人の言葉を牙人の文字で書き記して欲しい、ということだ。

 書くものが増えたのは困ったが、センセイのためになるならそれでいい。

 また褒めてもらいたい。


 そういえば、他の牙人にも尻尾は生えていなかった。

 ヤマダセンセイいわく、そういうものらしい。

 変な感じだ。

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