第26話


 トールが目覚めるのを待っていると不意にノックの音が響いた。


「どうぞ」


 一言だけ声を出す。


 すると入ってきたのは今1番逢いにくかったエドだった。


「……エド」


 苦い顔を向けるアスベルにエドは不思議そうな顔をする。


「どうしてそんな顔をするんだい? ぼくはただ様子を見に行ったきみまで帰ってくるのが遅いから、様子を見に来ただけなんだけれど?」


「……いや」


「叔父上はいらっしゃらないようだね。トールはどこに?」


 アスベルは黙って寝台を指差した。


 意外そうな顔でエドが近付いてくる。


 そうして透が赤い顔で酔って寝ているのを見てキョトンとする。


「どうして酔って寝てるんだい、彼は?」


「いや。非常に言いにくいんだけどな」


 躊躇いながらアスベルは父が起こした行動について説明した。


 まだ特別な感情は持っていなくても愛するべき人である。


 さすがに事情を聞いたときはエドも複雑そうだった。


「まあ確かに彼は叔母上に瓜二つだからね。酔っていたなら叔父上が間違えるのも仕方がないとは思うけれど」


 納得できないと言いたげな声にアスベルは躊躇って視線を逸らす。


「父上の気持ちもわかるから、本当はこういうことを言うのは、父上に対する裏切りかもしれないけど」


「アスベル?」


「エドはトールと愛し合いたいんだよな?」


「はっきり言われると抵抗もあるし、多少は照れるけれど、でも、そうだね。本心で言えばそうなるね。でなければわたしは死ぬわけだし」


 素直に今は特別な感情は向けていないと示唆するエドに誠実だなとアスベルは思う。


「父上には注意した方がいいと思う」


「……え?」


「今は間違えただけだ。父上の心の中でトールよりも母上の方が大きいんだ。でも、これから先は?」


「……アスベル」


「楽観するにはトールはあまりにも母上に似すぎてる。最初は面影を重ねているだけだとしても、いつその感情が特別なものに刷り変わるかはわからない。母上からは別離を切り出されているわけだし尚更さ」


 確かにその可能性は否定できないだろう。


 そのくらい彼は叔母に似ている。


 面影を重ねてしまうのも当然なほどに。


 でも、あの叔父上が叔母上への気持ちを忘れるとは到底思えない。


「そんなことがあるのかな、本当に?」


「エド?」


「いや。叔父上にとって叔母上って本当に特別だったから。叔母上への気持ちを忘れることなんてあるのかなと思ってね」


「忘れるなんて一言も言ってないよ、おれ」


「……」


「母上への気持ちは抱えたまま、他に愛する人ができる。そういうことも人間ならあるんじゃないかな。母上への気持ちは忘れなくても、他にも愛する人ができてしまう。人間ならそういうこともあるんじゃないかな」


 ランドールにとってビクトリアへの気持ちは揺るがないのだ。


 もう動かせない絶対的な愛情。


 だが、それはもう実を結ばない叶わない想いなのである。


 叶わない想いだとわかっているなら、その気持ちを抱えたまま他に愛する人を見つけ出しても無理もないとアスベルは思う。


「もしそうだとしたら、さすがに困るね。叔父上のお気持ちもわかるけれど、ぼくだって生命が掛かっているわけだし。そもそもぼくは全身全霊をかけて、彼を愛さないといけないんだよ? 他に愛する妻がいる状態で手を出してきた叔父上に邪魔されるというのは」


 許容できないとエドが言う。


 これがお互いに譲れない想いで、唯一の相手として競い合うのなら、別にエドも不満は言わない。


 だれかを愛する気持ちは尊いし、それを指図することはできないからだ。


 だが、ランドールにはビクトリアがいる。


 彼はこれから先も彼女を愛し続けていくのだ。


 彼にとって唯一無二の人はビクトリアであって透ではない。


 その状態で透も愛したから手に入れたいと主張されても、エドワードにはどうしても受け入れられない。


 こちらは命懸けで彼を愛するわけだから。


 唯一無二の人として。


「父上の唯一無二の魂の片割れは確かに母上だけどさ。もし万が一父上がトールを愛したとしたら、その気持ちもたぶん母上に向ける気持ちと互角だと思う」


「どうしてそんなことが言えるんだい? 矛盾してるよ、そんなこと」


「父上にとって母上はトールでトールは母上だからだよ」


「それ……同一視しているのとどこが違うんだい?」


「同一視っていうより表裏一体といった方がいいかもしれない。トールはあまりにも母親似すぎるんだ。母上と同じ立場に立てる唯一の存在。母上とトールは切り離して考えられないんだよ。ひとりの存在としても神としても」


「だから、混同しているわけじゃない?」


 呟きのような問いかけにアスベルは頷いた。


「価値観が同じ。そう言ったらわかりやすいか?」


 表裏一体の関係で同じ価値を持つ存在。


 だったら同じ気持ちを向けるのも理解できないわけではない。


「頭が痛いね」


「……エド」


「つまりアスベルは叔父上の気持ちも真剣なものになる可能性があると、そう言いたいわけだろう?」


「うん。エドには悪いけどもしそうなった場合はそうだと思う」


 ふたりを別人だと意識して、そう判断していても向ける気持ちは全く同じもの。


 そういうこともあるのだ。


「はあ。気が重い」


「なんだよ。今から落ち込んでいてどうするんだ?」


「だって相手は叔父上だよ!! 名だたる求婚者を退けて、あの傾国とまで呼ばれた叔母上を、なんなく手に入れられた相手だよ? 若輩者のぼくには荷が重いよ」


 ビクトリアはこのイーグルよりも小国の王家の出で、イーグルのような権勢もない姫だったが、幼い頃からその美貌で名を馳せていたという。


 父と母は幼い頃から親交があって、父はずっと幼い頃から母が好きだったのだと、小さな頃に寝物語で聞いた。


 母上がアスベルを寝かしつけるときに話してくれたのだ。


 成長してくると母の元には数えきれないほどの熱心な求婚がきたという。


 それらを退けて呆気なく母上を奪っていったのが、当時、イーグルの王子だった父なのだ。


 母は何故か知らないが恋愛には否定的で、一生結婚なんてしないと決意していたらしいが、父の熱意に負けて一緒になった。


 だが、実はこっそり父を想っていたのだと、そのときに教えてくれた。


 だから、結婚に踏み切れない自分を、強引に奪ってくれて嬉しかったと。


 だからこそ、こうして今アスベルが生まれている。


 そういって愛しそうに髪を撫でてくれた。


 思い出すと切なくなる母との想い出。


 それを思えばエドが気が重いと言いたくなる気持ちはわかるのだが。


「まあおれがエドの立場でもそう思っただろうけど。でもな、エド」


「なんだい?」


「競争相手がだれであれ、おまえにとって譲れない相手なら、死ぬ気で頑張るしかないんじゃないのか?」


「アスベル」


「そんな弱気じゃ最初から勝負にならないぞ」


 生命が掛かっているという切実さはエドの方が上なのだ。


 それならそれこそ死ぬ気で頑張るしかないとアスベルは思う。


 そう言われてエドは小さく微笑んで頷く。


 彼の言葉で大切な真理に気付いて。






 それから暫くは波風の立たない穏やかな日々が続いた。


 ランドールも特に態度を変えるでもなく、エドが無理に透に迫るでもない本当に穏やかな日々。


 しかし透はこの頃、奇妙な夢に苦しめられていた。


 小さい頃からずっと見ているフィオリナの夢とは違う。


 もっと禍々しくて身体にまとわりつく邪念のようなものを感じる。


 その夢を見ている間は息苦しくて、息ができなくなって飛び起きることもままあった。


 この夜も透はその夢を見ていた。


 うなされて透が首を振っている。


 その身体になにかが覆い被さっているようにも見える。


 その影は確かに透の細い首筋を締め付けていた。


「うっ」


 息ができなくなってきて透がうなされる。


 その頃、夢では透はだれかに追いかけられていた。


『待つんだ、フィオリナっ!!』


 憎念を感じさせる声が逃げる透にそんな声を投げる。


 透は振り向きもせずに叫んだ。


『俺は母さんじゃないっ!!人違いだったらっ!!』


 透はこの夢を見る度にそう叫んで否定しているのだが、相手は一向に聞く耳を持たない。


 何度否定しても透を母の名を呼ぶのだ。


『どうしておまえは俺から逃げるんだ、フィオリナ!! あのときも……今もっ!!』


 一瞬禍々しい気配しか感じさせなかったその人物から、悲しみのようなものが伝わってきた。


 そうすると透はいつもその腕に捕まってしまう。


 逃げようとしてもきつく抱かれて逃げられない。


 いつも背中から抱き締められて自由を奪われる。


 なのに一瞬で正面から抱かれるのだ。


『いやだっ!! 俺は母さんじゃないっ!!』


 抗っても抗っても、そもそも透とその人物とでは体格が違う。


 抵抗は抵抗にならない。


 憎悪、殺意、悲哀、そして愛情。


 様々な感情が透に押し寄せてくる。


 だが、それは本来、母へと向けられている感情なのだ。


 透は母と勘違いされているだけで。


 黒い邪悪な影が透に覆い被さってくる。


 それは唇だと透にはいつもなぜか理解できる。


『いやだ――――――っ!!』


 全身全霊で叫ぶ。


 そうするといつも飛び起きるのだ。


 だが、この日はなにかが違った。


 いつもなら飛び起きて荒い息をついているはずなのだが、今日は何故か起き上がれない。


 そもそも息ができないし声も出ない。


「グッ……」


 うっすら目を開ける。


 さっきまで夢にいたはずの黒い邪悪な影が、透に覆い被さっていた。


 その影のような手がギリギリと透の喉を締め付けている。


『フィオリナ。おまえが俺を拒絶するのなら、神子は俺が殺す。愛されないなら拒絶されるなら、おまえに憎まれた方がいい』


 今にも透を殺そうとしているとは思えないほど淡々とした声だった。


 夢では透を母と間違えているのに今この影は透は透だと認識している。


 神子だから透を殺そうとしているのだ。


『力が覚醒しないなら神子は殺されるよ』


 そう言ったマリンの声が響く。


 そういえばマリンと出逢った後に言っていた。


 この寝室にはマリンが結界を張っていると。


 透には理解できなかったが、マリンが透を護るための壁を張り巡らせているのだと、そう説明してくれた。


 この影はそのマリンの結界とやらを無効にして、透の下へと現れ夢に干渉し、今まさに透を殺そうとしている。


 そうだとしたらこの影はマリンを超える力の持ち主ということだ。


 それで彼を呼んでなんとかなるかはわからない。


 だが、今透が頼るべき人はマリン以外いなかった。

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